夜が名前を覚えている
その村に、名前はもう残っていなかった。
地図には記されている。
街道沿いにある、ごくありふれた寒村。
人口は百に満たず、特産もない。
王国の記録では、徴税対象として数字だけが並ぶ場所だ。
だが、現地に辿り着いた者たちは、誰一人としてその名を口にしなかった。
いや――
口にできなかった。
夜が、濃すぎたのだ。
昼であるはずの時間帯。
空は晴れている。雲もない。
それでも、村の中だけが薄暗く、色を失っているように見えた。
音が、ない。
馬の蹄が地面を打つ音。
革鎧が擦れる音。
呼吸の音。
それらが、まるで遠くで起きている出来事のように鈍く感じられる。
王国軍の小隊――二十名。
討伐ではない。調査だ。
これまでに消えた村は、三つ。
守備隊ごと消失した砦が一つ。
王都はようやく「反乱残党」でも「盗賊」でもない可能性を考え始めていた。
だから派遣された。
規模を抑え、刺激せず、事実だけを確認するために。
「……本当に、人が住んでいたのか?」
誰かが、思わず呟いた。
家は、ある。
壊れてはいない。
扉も閉まっている。
畑も、荒れてはいない。
だが、人の気配だけが、完全に消えている。
「分かれて調べるな。必ず二人一組で行動しろ」
隊長が低く命じる。
声は冷静だが、喉がわずかに鳴った。
兵たちは頷き、散開する。
その時だった。
――ぎ、と。
どこかで、木が軋む音がした。
全員が、即座に足を止める。
風ではない。
風は吹いていない。
「……誰だ」
返事はない。
代わりに、足音がした。
一歩。
もう一歩。
規則正しい。
走っていない。
隠れてもいない。
まるで、最初から“見られている”前提で歩いてくるような――。
兵の一人が、震える声で言った。
「隊長……あれ……」
村の中央。
かつて集会所だった建物の前。
そこに、人影が立っていた。
鎧を着ている。
王国軍の制式ではない。
だが、見覚えがある。
古い。
数年前の様式だ。
剣を腰に下げ、外套を羽織り、背筋を伸ばして立っている。
顔は、見えない。
フードの奥が、闇に沈んでいる。
「止まれ! 名を名乗れ!」
返答は、なかった。
だが――
影は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、兵の一人が喉を押さえて崩れ落ちた。
「……ッ、ぁ……!」
首が、ない。
斬られたわけではない。
噛みちぎられたわけでもない。
最初から、存在していなかったかのように、首だけが消えている。
血も、出ない。
時間が、止まった。
次の瞬間――
影が、動いた。
剣を抜く音はしなかった。
踏み込む音もしなかった。
ただ、影が“そこに現れた”。
兵が三人、同時に倒れる。
一人は胸を押さえ、
一人は膝から崩れ、
一人は声を上げる前に、口が消えた。
「退け! 退却だ!」
隊長が叫ぶ。
だが、足が動かない。
恐怖ではない。
理解が追いついていないのだ。
敵ではない。
魔物でもない。
戦術でもない。
それは――
出来事だった。
影が、こちらを見た。
フードの奥。
そこに、淡く青い光が灯る。
声が、響いた。
低く、静かで、怒りも嘲りもない。
「……まだ、生きているのか」
その言葉を聞いた瞬間、隊長は悟った。
これは、問いではない。
確認でもない。
記録だ。
「撤退命令だ! 生き残れ! 王都に――」
言葉は、途中で途切れた。
影が、手を伸ばした。
触れていない。
距離は、まだある。
それでも、隊長の胸が内側から砕けた。
倒れながら、彼は最後に見た。
影が、兵の死体を見下ろし、
一体一体に視線を落とし、
そして、空を見上げる姿を。
まるで――
数を数えているかのように。
その夜、村は完全に消えた。
翌朝、そこにあったのは、
家も畑も、道も残ったままの“無人地帯”。
血も、死体も、争った痕跡すらない。
ただ一つ。
村の中央に、剣が一本、突き立てられていた。
錆びた刃。
古い様式。
柄に刻まれた、かすれた文字。
――Alein。
報告書には、こう記された。
「敵性存在、確認」
「個体名、推定“アレイン”」
「生存者、ゼロ」
だが、その下に、追記があった。
震える文字で。
「これは討伐対象ではない」
「夜そのものが、彼を覚えている」




