名を呼んではならない夜
地下文書庫の扉は、内側からしか開かない。
それは防犯のためではない。
逃げ出す者を出さないためだ。
石造りの回廊を、司祭エルグランドは一人、歩いていた。
燭台の炎が揺れるたび、壁に刻まれた古い紋章が歪んで見える。
ここは聖教会でも最古の文書庫。
異端、禁呪、封印指定――
歴史から消すべきものだけが収められている場所だ。
「……生存者がいる」
王都会議で聞いたその言葉が、
今になって胸の奥で鈍く痛み始めていた。
希望ではない。
免罪符でもない。
選別だ。
エルグランドは、分厚い革装丁の書を机に置いた。
頁を開くたび、乾いた音が響く。
――《死霊高位存在分類録・第三章》
彼が探している章は、決まっていた。
「……リッチ」
声に出した瞬間、
空気が一段、冷えた気がした。
リッチ。
それは魔物ではない。
人間が、意志を持ったまま死を越えた存在。
頁には、簡潔だが残酷な条件が列挙されている。
――条件一。
生前に、莫大な魔力を行使した者。
エルグランドは、視線を落とした。
(該当する)
辺境伯アレイン。
単独で戦場を覆した記録。
魔王軍、王国軍双方に“戦力外”の被害を与えた存在。
――条件二。
死に際し、強烈な未練、あるいは怨嗟を抱いた者。
指先が、わずかに震えた。
(……満たされている)
処刑。
公開。
民の死を見届けた後の、断罪。
条件三を、彼はすぐには読めなかった。
しばらく黙ってから、
ゆっくりと視線を落とす。
――条件三。
死後、魂を“縛る理由”が残されていること。
「縛る……理由」
エルグランドは、息を吐いた。
ここで、多くの候補が脱落する。
復讐心だけでは足りない。
怒りだけでは、魂は散る。
だが――
彼の脳裏に浮かんだのは、
グランデールという町の名だった。
守れなかった民。
退避できなかった者たち。
自らの力で焼き払ってしまった命。
「……守る、ため」
あるいは、
「奪われたものを、取り戻すため」。
頁をめくる音が、早くなる。
後半には、補足が記されていた。
――稀に、以下の兆候が事前に観測される。
・被害地において、完全な死が確認できない
・生存者が“選ばれる”
・軍規模の部隊が、戦闘痕跡を残さず消失する
エルグランドは、書を閉じた。
重い音が、地下に響いた。
「……三つ、すべて」
背中を、冷たい汗が伝う。
王都は、知らない。
いや、知ろうとしていない。
生存者がいるから大丈夫。
敵が単独だから制御できる。
それらは、すべて逆だ。
生存者がいるのは、
生かされているから。
単独なのは、
増える必要がないから。
エルグランドは、机に手をついた。
報告書を書けば、
王都は動くだろう。
だが、動き方を誤れば――
被害は、指数関数的に増える。
(……まだ、名を出すべきではない)
リッチという言葉は、
恐怖を加速させる。
王都は、恐怖を制御できない。
政治は、恐怖を誤用する。
だから、彼は筆を取らなかった。
代わりに、
一枚の羊皮紙を取り出す。
そこには、こうだけ記した。
――「高位死霊存在の可能性あり。
現地対応は慎重を要す。
追加派兵は推奨せず」
それは、
限界までぼかした警告だった。
書き終えた瞬間、
地下文書庫の奥で、
何かが――軋んだ気がした。
エルグランドは、振り返らない。
振り返って、
何かがいたとしても。
名を呼んだ瞬間、
それは“始まってしまう”からだ。
その夜。
聖教会の鐘は鳴らなかった。
だが、
死者の側では、もう合図は終わっていた。




