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生存者

最初に気づいた異変は、音が消えたことだった。


 マティアスは、夜明け前の見張り番に立っていた。

 北方の空は、まだ藍色で、吐く息は白い。


 本来なら、砦はうるさい。

 風が石壁を叩き、馬がいななき、誰かが必ず咳をする。


 だが――

 その瞬間、すべてが止まった。


 「……?」


 耳鳴りすら、ない。

 自分の心臓の音も、聞こえない。


 マティアスは、思わず自分の胸に手を当てた。

 確かに、鼓動はある。

 だが、音として世界に存在していない。


 「おい……?」


 声を出したはずだった。

 だが、空気は揺れない。


 そのときだった。


 砦の中央、

 焚き火のあった場所に――

 影が立っていた。


 人の形をしている。

 だが、人ではない。


 顔が、ない。

 いや、正確には、覚えられない。


 視線を向けた瞬間、

 脳が、形状を拒否する。


 理解したくないものを、

 無理やり見せられている感覚。


 マティアスは、膝が震えるのを感じた。


 「……誰、だ」


 答えは、ない。


 影が、一歩、踏み出した。


 次の瞬間、

 砦の門番が、消えた。


 悲鳴も、血もない。

 そこにいたという事実だけが、

 ごっそり削り取られた。


 「……っ!!」


 マティアスは、剣に手をかけようとして、

 自分の手が震えていることに気づいた。


 その間にも、影は進む。


 一歩ごとに、

 誰かが、いなかったことになる。


 兵士。

 調理係。

 伝令。


 気づけば、

 砦は、空だった。


 マティアス一人を残して。


 「な、なんで……」


 逃げようとした。

 足は、動かなかった。


 影が、彼の前で止まる。


 距離は、三歩。

 それ以上近づかない。


 そして――

 声が、直接、頭に響いた。


 ――お前は、残る。


 それは命令でも、脅迫でもなかった。

 事実の宣告だった。


 「なぜ……」


 問いは、震えていた。


 影は、わずかに首を傾ける。


 ――理由が、ある。


 その瞬間、

 マティアスの記憶が、

 無理やり引きずり出された。


 処刑の日。


 王都の広場。

 英雄だった男。

 名を呼ぶことも許されず、

 石を投げられていた姿。


 マティアスは、群衆の一人だった。


 何も、しなかった。

 だが――

 何も言わなかった。


 「……あ」


 理解してしまった。


 影が、告げる。


 ――お前は、覚えている。

 ――だが、叫ばなかった。


 マティアスの喉が、詰まる。


 「違う……俺は、ただの――」


 ――言い訳は、

 ――死者には、届かない。


 影が、後退する。


 そして、

 砦の外へと溶けていった。


 音が、戻る。


 風が鳴り、

 松明が倒れ、

 自分の悲鳴が、遅れて響いた。


 「うあああああっ!!」


 夜が明けたとき、

 砦には、誰もいなかった。


 死体も、血痕も、

 戦った痕跡すらない。


 ただ、

 人が暮らしていたという事実だけが、

 丸ごと消えていた。


 マティアスは、

 王都に辿り着くまで、

 一睡もできなかった。


 目を閉じるたび、

 なぜ生かされたのかを、

 理解してしまうからだ。


 彼は、証言台で、

 震える声でこう言った。


 「……俺は、生かされたんじゃない」


 「……運ばされたんだ」


 その言葉の意味を、

 理解できた者は、

 まだ、誰もいなかった。



(王都視点)


 王都において、「生存者」という言葉ほど甘美な響きを持つものはない。


 それは、失敗の中に残された正当化であり、

 犠牲の山に置かれる免罪符であり、

 何より――これ以上考えなくていい理由だった。


 王城第三会議室。

 重厚な扉が閉じられると同時に、空気が変わった。


 「――生存者が一名、王都へ到着しました」


 報告官の声に、居並ぶ貴族と官僚たちが一斉に顔を上げる。


 「ほう」

 「やはり、殲滅ではなかったか」

 「逃げ延びた者がいるなら、状況は制御可能だな」


 誰一人として、安堵を隠そうとしなかった。


 玉座の段下に立つ宰相は、ゆっくりと視線を巡らせる。


 「詳細は?」


 「北方監視砦所属の下級兵、マティアス。

  本人の証言によれば、敵性存在は単独。

  明確な交戦はなく、気づいた時には砦が消えていた、と」


 「消えた?」


 誰かが、鼻で笑った。


 「誇張だろう。恐怖による記憶の歪みだ」

 「若い兵にありがちな話だな」

 「“全滅”という結果だけが一人歩きしている」


 宰相は、その反応を予期していたかのように、静かに続けた。


 「重要なのは、生存者がいるという事実です」


 その言葉に、空気が一段、軽くなる。


 「敵が無差別殲滅を目的としていない可能性がある」

 「意思疎通、あるいは条件付き攻撃……交渉の余地も考えられる」

 「少なくとも、王国そのものを狙っているわけではないな」


 ――違う。


 誰もが、

 そうであってほしい結論に向かって、

 自然と歩いていた。


 「では、“反乱残党説”は?」


 軍務卿の問いに、宰相は首を横に振る。


 「却下します。

  規模、痕跡、速度。いずれも人の手によるものではない」


 「ならば、魔物か」


 「既存の分類には当てはまりません」


 その瞬間、会議室にわずかな沈黙が落ちた。


 だが、それは恐怖ではなく、思考停止の前兆だった。


 「……聖教会の見解は?」


 名が出た瞬間、数名の視線が自然と扉の方へ向いた。


 教会代表の司祭は、席に座ったまま、

 ほんの一瞬、言葉を探すように間を置いた。


 「……現時点では、判断保留です」


 その歯切れの悪さに、

 誰も深く踏み込もうとはしなかった。


 宰相は、内心で舌打ちする。


 (教会は、何かを掴んでいる)


 だが、掴んでいないことにしておく方が、

 今は都合が良い。


 「では、結論を」


 宰相は、淡々と告げた。


 「被害範囲を限定。

  追加派兵は行わず、周辺住民には沈静化を通達。

  “事件”として扱い、戦争認識は避ける」


 その言葉に、反対は出なかった。


 生存者がいる。

 つまり、完全な失敗ではない。


 それだけで、

 この場の人間は満足してしまったのだ。


 会議が終わり、扉が開く。


 宰相は、廊下を歩きながら、

 ふと、先ほどの証言を思い出していた。


 ――生かされたんじゃない。運ばされた。


 (……なぜ、その言葉をもっと掘らなかった)


 だが、立ち止まることはない。


 王都は、常に次の判断を求められる。

 立ち止まる者から、責任を背負わされる。


 だからこそ、

 彼らは「希望」を選んだ。


 生存者という、

 最も危険な誤解を。


 その夜。


 王都の地下文書庫で、

 聖教会の司祭が一人、

 古文書の頁をめくる音だけが、静かに響いていた。


 彼は、まだ報告書を書いていない。


 書けなかった。


 なぜなら――

 そこに記されていた条件が、

 すでに二つ、満たされていることを、

 理解してしまったからだ。


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