聖教会
聖教会の地下文庫は、昼夜の区別がない。
正確には、区別させないように造られている。
分厚い石壁は外界の光を拒み、通路に灯された聖燭の明かりも、一定以上は届かない。天井は低く、空気は冷たい。長く留まれば、時間感覚が狂うよう設計されていた。
――ここは、人が“思い出しすぎない”ための場所だ。
神官長補佐セルギウスは、重い鉄扉を背にして立ち止まり、静かに息を整えた。
「……また、ここに来ることになるとはな」
独り言は、石に吸われて消える。
彼の腕には、封印用の革紐で縛られた書束が抱えられていた。王都から届けられたばかりの報告書群。その表紙には、教会の正式印章とともに、赤い蝋で小さな十字が刻まれている。
閲覧制限付き。
セルギウスは、鍵を三つ使って鉄扉を開けた。
中は、さらに冷える。
地下文庫――通称《禁録庫》。
そこに収められているのは、異端思想でも、異教の経典でもない。
むしろ、その逆だ。
神が沈黙した事例。
祈りが届かなかった記録。
教会が「なかったことにした」歴史。
セルギウスは、長机に書束を置き、手袋を外した。
素手で触れなければならない、と規定されている。
それ自体が、戒めだった。
「……さて」
彼は、王都からの第一報を開く。
北方。
旧辺境領。
廃村、砦、哨戒線――。
記されているのは、戦闘ではなかった。
・交戦痕なし
・遺体なし
・血痕なし
・魂反応なし
「……魂、が、ない?」
セルギウスは眉をひそめた。
死体が消える例は、過去にもある。
だが、魂反応そのものが観測されないというのは、極めて異常だ。
通常、死とは――
肉体と魂が乖離する現象である。
たとえ死体が消失しても、魂の残滓は、必ず観測される。
それが、聖術の前提だ。
だが、報告書には、それがない。
「……まるで、最初から“死んでいなかった”かのようだな」
セルギウスは、禁録棚に手を伸ばした。
棚は、年代順ではない。
性質別だ。
彼が引き抜いたのは、黒革で綴じられた薄い一冊。
表紙には、何も書かれていない。
通称――
《夜間事象記録》。
頁をめくる。
・夜にのみ発生
・音が消える
・抵抗の記録なし
・生存者が意図的に残される
セルギウスの指が、止まった。
「……一致、しすぎだ」
偶然と呼ぶには、項目が多すぎる。
さらに頁をめくると、そこには、かつての事例が淡々と記されていた。
――小村、消失。
――巡礼団、消失。
――駐屯隊、消失。
どれも、
“討伐に失敗した”とは書かれていない。
代わりに、こうある。
> 対応不能
> 教会判断により記録を封鎖
> 名称の言及を禁ず
セルギウスは、ゆっくりと目を閉じた。
「……名、か」
禁録において、
“名を禁ず”という記述は、
極めて限られた事例にしか使われない。
それは、
名を呼ぶことで、事象が再発する恐れがある場合だ。
セルギウスは、さらに奥の棚から、別の文書を引き出した。
赤い背表紙。
閲覧権限は、神官長以上。
彼は、深く息を吸い、開いた。
そこに書かれていたのは、条件だった。
> 条件その一:
> 生前、国家または教会により、
> 名誉・存在・記録を剥奪されていること。
セルギウスの喉が、鳴る。
> 条件その二:
> 死に際し、強い未練、後悔、怒りを抱いていること。
彼の脳裏に、
一つの処刑記録が浮かぶ。
処刑台。
群衆。
沈黙。
弁明も、祈りも許されず、
英雄であったはずの男。
セルギウスは、首を振った。
「……いや、まだだ」
最後の条件を、読んではならない。
そんな気がした。
だが、指は勝手に動く。
> 条件その三:
> 死後、誰一人として、
> 正しく悼まれなかったこと。
聖燭の火が、揺れた。
「……そんな、馬鹿な」
正しく悼まれなかった者など、
あまりにも多い。
だが、
英雄でありながら、
罪人として処刑され、
名を消された者は――。
セルギウスは、
その名を、思考から排除した。
考えてはならない。呼んではならない。
彼は、王都への返答文を取り出す。
そこに記したのは、慎重な言葉だけだった。
「調査継続中」
「断定不可」
「教会としては静観を推奨」
歯切れが悪いと、
非難されるだろう。
だが、
もし、これが事実なら。
王国はすでに――
一度、“殺してはならない存在”を殺している。
セルギウスは、
禁録を閉じ、
深い沈黙の中で呟いた。
「……どうか、
まだ“名を呼ぶ段階”ではありませんように」
その祈りに、
神は――
答えなかった。




