死者の噂
最初に異変が語られたのは、酒場だった。
北方街道沿いの、名もない宿。
暖炉の火を囲み、安酒を煽る行商人たちの口から、ぽつりと漏れた言葉。
「――聞いたか? 北で、また一つ、村が消えたらしい」
誰かが笑った。
「またかよ。どうせ魔族だろ」
「いや、それが違うらしい」
声を潜めた男は、杯を置いた。
「魔族なら、焼け跡が残る。死体も残る。
だが今回は――何もない」
沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと弾けた。
「何も、ない?」
「ああ。
家も、道も、そのままだ。
だが、人だけが……いない」
誰かが冗談めかして言った。
「連れ去られたんじゃないのか?」
男は、首を横に振る。
「それなら、争った痕がある。
だが、戸は閉まっていた。
鍋は火にかかったまま、冷えていた」
まるで、
人だけが、夜のうちに“消えた”ように。
酒場の空気が、重くなる。
「……反乱の残党じゃないのか?」
誰かが、そう言った瞬間。
男は、はっきりと否定した。
「違う」
「断言できるのか?」
「できる。
そこには、兵がいた」
その言葉で、場が凍りついた。
守備隊。
王国の旗を掲げた兵。
「彼らも……?」
「ああ。
誰一人、戻らなかった」
***
噂は、街道を渡る。
宿から宿へ。
村から村へ。
形を変えながら、
しかし核心だけは失われない。
――北で、人と兵がまとめて消えている。
王都では、最初、相手にされなかった。
辺境の小事件。
魔族残党。
あるいは、盗賊。
だが、
数が合わない。
一つ。
二つ。
三つ。
報告が、重なる。
消えたのは、
辺境の寒村だけではなかった。
関所。
見張り塔。
補給拠点。
「……これは、
“戦”ではない」
誰かが、そう言った。
戦なら、
戦果が残る。
勝者がいる。
だが、
ここには、
勝者の痕跡がない。
ただ、
空白だけが、
増えていく。
***
そして、
ある噂が、
ひそやかに混じり始めた。
「死体が、
見つからない」
「血の匂いが、
薄い」
「夜になると、
あの辺りだけ、
音が消える」
子どもじみた怪談。
そう片付ける者もいた。
だが、
噂を否定する声は、
なぜか、
どれも弱々しかった。
なぜなら――
確かに、
説明がつかないからだ。
そして、
噂は、
やがて一つの言葉に集約されていく。
誰が言い出したのか、
もう誰も覚えていない。
だが、
確実に、
囁かれ始めた。
――死者が、歩いている。
王都が、
それを“事件”として認識するまで、
そう時間はかからなかった。
王城の会議室は、重苦しかった。
長い机の上に、
報告書が並ぶ。
数は、十を超えている。
宰相レグナス・フォン・ハーゼンは、
一つ一つを確認しながら、
眉間に皺を寄せていた。
「……また、消失か」
報告内容は、
どれも似通っている。
・交戦記録なし
・死体なし
・生存者なし
「反乱残党、
という線は?」
軍務卿が問う。
宰相は、
即座に否定した。
「反乱なら、
主張がある。
要求がある。
だが、今回は――沈黙だ」
沈黙。
それが、
一番厄介だった。
「魔族の可能性は?」
「薄い。
魔族は、
“奪う”。
土地、資源、命。
だが、今回は――
消えている」
言葉を選びながら、
宰相は続けた。
「まるで、
“掃除”されたかのようだ」
誰かが、
不快そうに息を呑んだ。
***
「教会は?」
その問いに、
場の空気が変わる。
「聖教会は……
調査中、
とのことです」
軍務卿の声が、
わずかに歯切れ悪い。
「調査中、
が何日続いている?」
「……二十日です」
沈黙。
宰相は、
ゆっくりと椅子に背を預けた。
「断定を避けているな」
それは、
非難ではない。
理解だった。
聖教会は、
“名付け”を恐れる。
名を与えた瞬間、
それは“存在”として、
認められてしまうからだ。
「……反乱ではない」
宰相は、
低く、
確定的に言った。
「だが、
国家災害だとも、
まだ言えない」
誰かが、
呟いた。
「では、
何だと?」
宰相は、
即答しなかった。
代わりに、
一枚の報告書を、
机の中央に置く。
そこには、
こう記されていた。
> 生存者:一名
> 名:マティアス
> 職:元補給兵
「生き残り……?」
「正確には、
“連れ去られなかった”だけだ」
宰相の声が、
低くなる。
「彼は言った。
“理由は分からない”と」
だが、
分かっていることも、
あった。
「彼だけが、
“何も見ていない”」
襲撃の瞬間も。
消失の過程も。
ただ、
気づいたら、
周囲が、
空になっていた。
***
「……これは」
軍務卿が、
言葉を選ぶ。
「“人”のやり方ではない」
宰相は、
静かに頷いた。
「だからこそ、
王国は、
まだ決断できない」
ここで動けば、
犠牲が出る。
動かなければ、
空白が広がる。
どちらを選んでも、
責任は重い。
「当面は、
範囲を限定し、
様子を見る」
宰相は、
そう結論づけた。
その判断が、
後に何を招くか――
この時点では、
誰も、
正確には理解していなかった。
ただ一つ。
宰相の脳裏に、
消えない名があった。
処刑台で、
空を見上げていた男。
名を消され、
英雄として、
死んだはずの――
アレイン。
宰相は、
首を振った。
「……考えすぎだ」
だが、
その夜。
王城の地下で、
聖教会の古文書が、
静かに、
開かれていたことを、
彼はまだ知らない。




