撤退
包囲が崩れた。
それは勝利ではない。
ましてや逆転でもない。
ただ――逃げ道が一瞬だけ、開いたという事実に過ぎなかった。
「退けッ!!」
アレインの声は、もはや怒号ではなかった。
掠れ、割れ、それでも必死に届こうとする叫びだった。
「合流地点まで走れ!
振り返るな!」
町兵たちは、命令に従った。
いや、正確には――
従える者だけが、従った。
足を失った者。
腹を裂かれた者。
もう立てない者。
彼らは、その場に残った。
誰も命令していない。
だが、自然と――
「……ここは、俺たちが」
年嵩の兵が、血に濡れた槍を握り直す。
「伯爵様が行かれたら……
この町は、本当に終わる」
若い兵が、震える手で剣を構えた。
「怖くない、って言ったら嘘ですけど……」
一人、また一人。
撤退する流れから、外れていく。
アレインは、それを見た。
見てしまった。
「戻れッ!!」
叫ぶ。
「命令だ!
生きろ!!」
だが、彼らは振り返らない。
聞こえていないのではない。
聞いたうえで、選んでいる。
「……すまん」
誰かが、そう呟いた。
そして、勇者たちへ向かって――突撃した。
⸻
「止めろ!!」
勇者レオンの声が、戦場に響く。
「もう十分だ!
撤退している!」
だが、剣聖は唇を歪めた。
「……敵は敵だ」
一閃。
血が、霧に混じる。
町兵が、倒れる。
だが――
次が来る。
「ぐっ……!」
剣聖の腕に、浅い傷。
「……ちっ」
剣を振るうたび、何かが削れていく。
体力ではない。
精神だ。
「なぜ……
なぜ、そこまで――」
剣聖は、理解できなかった。
だが、聖女だけは――
その光景を、目を見開いて見つめていた。
(……違う)
(これは……虐殺じゃない)
(祈りだ)
言葉にできない違和感が、胸を締め付ける。
⸻
撤退は、成功した。
少なくとも――
生きて逃げられた者たちは。
グランデールへ戻った兵は、当初の半数を切っていた。
城門を閉じる音が、重く響く。
その瞬間。
町の中に――静寂が落ちた。
歓声はない。
安堵の声もない。
あるのは、嗚咽だけ。
「……父さん?」
子どもの声。
だが、返事はない。
「ねえ……父さんは……?」
母親が、子どもを抱き締める。
何も言えない。
町の広場には、負傷兵が並べられていた。
治療が追いつかない。
薬も、包帯も、血も――足りない。
「伯爵様……」
医師が、アレインを見る。
「これ以上は……
もう……」
アレインは、答えられなかった。
足元が、揺れる。
視界が、滲む。
――魔力回復薬。
懐から取り出し、躊躇なく飲み干す。
一瓶。
二瓶。
三瓶。
内臓が、悲鳴を上げる。
だが、止まれない。
「……まだだ」
呟く。
「まだ……終わらせない」
⸻
夜。
町の外では、王国軍が陣を張っていた。
包囲は、再構築されている。
しかも――
より密に、より冷静に。
ローデリック将軍の姿が、前線に見えた。
「……撤退は想定内」
副官が言う。
「ですが、被害は……」
ローデリックは、報告書を見て、眉を歪めた。
「……多すぎる」
正規軍の損害は、想定を大きく上回っている。
しかも、敵は――辺境伯一人と、地方兵だ。
「勇者殿は?」
「前線視察中です」
ローデリックは、歯を噛み締める。
(まずい……)
(このままでは、“反乱鎮圧”では済まん)
王都が、どう判断するか。
それを思うと、背筋が冷えた。
⸻
同じ夜。
アレインは、一人、城壁の上に立っていた。
遠く、松明の列。
包囲網。
逃げ場は――ない。
「……結局」
呟く。
「守れなかった」
民を逃がした。
だが、町は残った。
町が残ったということは――
ここで戦い続けなければならないということだ。
撤退は、猶予を得ただけ。
解決ではない。
空を見上げる。
雲に隠れた月。
(……もう)
(選択肢は、ない)
そう悟った瞬間。
胸の奥で、何かが――
静かに、冷えていくのを感じた。




