辺境の町グランデール
グランデールは、王国の北東端に位置する辺境の町だった。
人口はおよそ一万二千。
山と森に囲まれ、主要産業は林業と鉱石採掘、そして近年では街道交易だ。
王都からは距離があり、決して豊かな土地ではない。だが、飢えることもなく、戦に怯えることもない――少なくとも、数年前までは。
朝の鐘が鳴ると、町は静かに目を覚ます。
石畳を踏む商人の足音、焼き立てのパンの香り、井戸端で交わされる他愛ない噂話。
それらすべてが、当たり前の日常だった。
「アレイン様、おはようございます!」
城壁近くの詰所を通りかかると、若い町兵が慌てて背筋を伸ばす。
そのぎこちない敬礼に、アレインは小さく笑って応じた。
「おはよう。肩の力を抜け。町は今日も平和だ」
そう言うと、町兵は少しだけ表情を緩めた。
このやり取りも、日課の一つだ。
アレイン・フォン・グランデール。
辺境伯爵――いや、当時はまだ伯爵に叙せられて間もない若き領主。
だが、彼を見て「貴族らしい威厳」を感じる者は少ない。
町を歩く姿は簡素で、護衛も最低限。
市場では商人と値段の話をし、子どもに声をかけ、時には鍛錬場で兵と剣を交える。
「今日も見回りですか?」
露店の老婆が声をかけてくる。
アレインは頷き、干し肉を一つ手に取った。
「いつも通りだ。最近、困ったことは?」
「いいえ。おかげさまで」
それが、嘘でないことは分かっていた。
この町では、問題はすぐに表に出る。隠す理由がないからだ。
グランデールは、そういう町だった。
***
昼前になると、城壁外れの訓練場が賑わい始める。
町兵だけでなく、若者や冒険者崩れが集まり、剣や魔法の稽古を行う場所だ。
アレインはそこで、子どもたちに基礎の型を教えていた。
「力任せに振るな。剣は、振るう理由を考えてからだ」
少年が不思議そうに首を傾げる。
「敵が来たら、すぐ斬っちゃだめなんですか?」
アレインは一瞬、言葉を選び、それから答えた。
「守るためなら、斬ることもある。
でもな……守るものを間違えた剣は、いつか自分を傷つける」
少年は完全には理解していないだろう。
それでもいい。今は種を蒔くだけでいい。
訓練場の端で、町兵の隊長がそれを見ていた。
彼はかつて、王国軍に所属していた男だ。
「……相変わらず、甘いことを言われますな」
「そうかもしれない」
アレインは否定しなかった。
「だが、俺はこの町に“戦うための兵”より、“帰る場所を知る人間”を残したい」
隊長は何も言わず、ただ深く息を吐いた。
訓練が一段落すると、子どもたちは水桶の周りに集まり、声を張り上げた。
「アレイン様! 見てください、今日はちゃんと魔力を制御できました!」
声をかけてきたのは、十歳ほどの少年――リオネルだ。
父を数年前の魔物討伐で失い、母と二人で暮らしている。
リオネルの掌には、小さな火球が揺れていた。
不安定だが、確かに制御されている。
「上出来だ。焦るな。お前は、ちゃんと伸びる」
そう言って頭を撫でると、少年は誇らしげに胸を張った。
「いつか、アレイン様みたいになります!」
その言葉に、アレインは一瞬だけ視線を逸らした。
軽々しく肯定していい言葉ではないと、知っていたからだ。
「……なるなら、俺より賢くなれ」
それでも、少年は満面の笑みを浮かべて頷いた。
少し離れた場所では、町兵の一人――ベルトランが、槍の穂先を点検していた。
三十を少し過ぎたばかりの男で、口数は少ないが、誰よりも早く詰所に立つ。
「領主様」
声をかけられ、アレインは振り返る。
「今夜は見回りを増やします。念のために」
「……理由は?」
「特にありません。ただ、何となく」
根拠のない不安。
だが、アレインはそれを笑わなかった。
「頼む。町は、お前たちに任せている」
ベルトランは短く頷いた。
その背中を見送りながら、アレインは思う。
――守るべきものは、名前を持っている。
それが、どれほど重いことかを、
この時の彼は、まだ知らなかった。
夕暮れ時、町を見下ろす高台に立つと、グランデールの全景が見渡せる。
炊煙が上がり、灯りが一つ、また一つと灯る。
その光の一つ一つに、人の暮らしがある。
アレインは、その光景を見るのが好きだった。
――これを、守る。
それが彼の原点であり、誓いだった。
王都からの使者は、この頃すでに減っていた。
書状の返事も、遅れがちになっている。
「……まあ、いい」
今は平穏だ。
勇者が現れ、魔族の脅威が後退しているのなら、それでいい。
そう、思っていた。
この静けさが、
嵐の前触れであることに、気づかぬほどには。
グランデールは、まだ平和だった。
だからこそ、この日々は――取り返しのつかないほど、尊かった。




