消耗線地獄
(限界・犠牲・勇者到着前夜)
包囲は、完全に閉じられた。
四方を取り囲む王国正規軍の陣地は、夜になると無数の篝火に照らされ、まるで巨大な輪のようにグランデールを締め上げていた。
昼間に受けた砲撃の跡はまだ生々しく、城壁のあちこちが黒く焼け、ひび割れている。
それでも――城は、まだ立っていた。
「……今日も、持ちましたね」
誰ともなく呟いた声は、疲労でかすれていた。
それに答える者はいない。
答える気力すら、もう残っていなかった。
初日から三日。
戦闘は断続的に続き、もはや「戦」と呼べるものではなくなっている。
それは削り合いだった。
命と、気力と、希望を、少しずつ削り落とすための時間だった。
城内では、負傷兵が通路にまで溢れている。
治療に使う薬は底を突きかけ、包帯は洗って再利用するしかない。
呻き声と血の匂いが、城の空気そのものを重くしていた。
「水が……足りません……」
井戸はある。
だが、包囲によって外の水源は断たれ、魔法で浄化できる量にも限界がある。
配給は日に日に減り、町民の顔から色が失われていく。
それでも、誰も逃げようとはしなかった。
逃げ場がないからではない。
――逃げないと、決めているからだ。
「伯爵様は……?」
兵の一人が、そう尋ねた。
その問いに、周囲の視線が集まる。
答えは、分かっている。
分かっているからこそ、誰も口にしなかった。
アレイン・フォン・グランデール伯爵は、今日も最前線に立っていた。
城壁の上。
王国軍の陣地が一望できる場所で、彼はひとり、杖を握り続けている。
顔色は蒼白で、唇は乾ききっていた。
魔力回復薬の瓶が、足元にいくつも転がっている。
既に許容量を遥かに超えていることは、本人も分かっているはずだ。
それでも、止められなかった。
――止まれば、誰かが死ぬ。
その考えだけが、彼を支えていた。
「……来る」
低く呟いた瞬間、城壁の向こうが揺れた。
魔導砲。
今度は三門同時だ。
「伏せろ!」
怒号が飛ぶより早く、衝撃が襲う。
石壁が砕け、破片が飛び散る。
悲鳴と、血の音。
「……くそっ!」
アレインは歯を食いしばり、杖を振るった。
高位魔法――《蒼雷陣》。
雷光が夜を裂き、王国軍の前衛に叩き込まれる。
悲鳴が上がり、隊列が崩れた。
だが、それでも止まらない。
「来ます! 歩兵!」
王国軍は、もはや損害を恐れていなかった。
いや、恐れていないふりをしているだけだ。
退けば責任を問われる。
進めば死ぬかもしれない。
それでも進むしかない。
それは、こちらも同じだった。
「伯爵様、下がってください!」
町兵の一人が叫んだ。
若い――まだ二十にもなっていない。
アレインは首を振る。
「……ここを離れたら、崩れる」
「でも!」
その瞬間、城壁の一角に王国兵が取り付いた。
はしごだ。
「迎撃!」
叫びと同時に、兵たちが殺到する。
剣が交わり、血が飛ぶ。
その中で――一人の兵が、アレインの前に立った。
「伯爵様は、後ろへ!」
彼は盾を構え、迫る王国兵に突撃した。
一撃、二撃。
そして――貫かれる。
それでも、倒れなかった。
倒れる瞬間まで、前を向いていた。
「……っ!」
アレインの喉から、声にならない音が漏れた。
次々と、兵が前に出る。
誰もが分かっている。
自分が死ねば、伯爵が一瞬でも生き延びる。
その一瞬が、町を救うかもしれない。
「やめろ……!」
絞り出すように叫んでも、誰も止まらない。
「伯爵様を守れ!」
「時間を稼げ!」
その声が、連なっていく。
アレインは、杖を握りしめた。
指が震える。
視界が滲む。
――こんな形で守られるために、ここに立っているんじゃない。
それでも、魔法を放つしかなかった。
高位魔法が連続で放たれ、王国軍の前線は再び崩れる。
だが、同時に、アレインの膝が揺れた。
魔力が、限界を超えている。
それでも立ち続ける彼を、城内の誰もが見ていた。
「……もう、伯爵様だけに背負わせるわけにはいかない」
誰かが言った。
その言葉が、静かに広がる。
この夜、誰もが悟っていた。
明日も、同じように戦えば――持たない。
そして、王国軍の陣営でも、同じ夜が訪れていた。
ローデリック将軍は、地図を睨みながら歯噛みしていた。
「……異常だ」
損害報告の数字が、机の上に並んでいる。
前線の消耗は、想定を遥かに超えていた。
「伯爵一人に、これほど削られるとは……」
副官が、低い声で言う。
「将軍。王都より、伝令です」
「……何だ」
「“勇者一行が、明日には到着予定”とのことです」
その言葉に、ローデリックは一瞬、目を閉じた。
――やっと来るか。
安堵と、焦燥と、そしてわずかな恐怖。
「……ならば、今夜だ」
将軍は、決断した。
「夜襲をかける。
勇者が来る前に、決着をつける」
その命令が、静かに下される。
その頃、グランデールでは――
誰も知らないまま、最後の夜を迎えようとしていた。




