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帰路にて

北風は冷たかった。


だが、あの荒野の冷気に比べれば、まだ生きている温度だった。


ノルディア公爵は馬上にあった。


鎧はひび割れ、外套は焼け焦げ、左肩は包帯で固められている。


血は止まっているが、痛みは鈍く脈打ち続けていた。


背後には、三百にも満たぬ残兵。


それが、五万の末路だった。


誰も喋らない。


蹄の音だけが、凍った地面に乾いて響く。


副官の姿は、もうない。


最後まで本陣に残り、公爵を退かせた男。


胸を貫かれ、倒れた。


回収することもできなかった。


あの荒野に、置いてきた。


「……伝令は」


公爵が低く問う。


隣を走る若い側近が、すぐに答えた。


「既に早馬を三騎。王都へ向かわせました」


「内容は」


「北方公爵軍壊滅。公爵生存。敵勢力健在」


簡潔だ。


飾らない。


余計な言葉はない。


それでいい。


王都は今、南方戦の傷が癒えていない。


そこへ、この報。


どれほどの動揺が走るか。


公爵は目を閉じる。


誤算だった。


旧グランデール市民を盾とすれば、アレインは止まる。


そう読んだ。


事実、止まった。


わずかだが。


確かに、動きは鈍った。


魔力が揺らいだ。


あの瞬間、勝機はあった。


だが。


自害するとは、思わなかった。


足手まといにならぬために。


彼らは、自ら喉を裂いた。


誰に命じられたわけでもない。


命令は「前へ出せ」だった。


死ねとは言っていない。


だが、死に追いやったのは自分だ。


公爵の拳が、手綱を強く握る。


血が滲む。


あの十人の顔が、離れない。


震えながらも前を向いていた。


恐怖ではなく、覚悟の目だった。


守られた命を、もう一度差し出す目。


(読めなかった……)


アレインの心は読めた。


だが、民の心を読み違えた。


その結果。


非情な策を用いてなお、壊滅。


重装歩兵団はほぼ消滅。


騎士団は六割喪失。


魔導隊は再編不能。


公爵は横を向く。


「被害状況を」


側近が息を吸う。


「生存者二百七十三。うち重傷百三十。軽傷含め戦闘継続可能なのは……三十名未満」


沈黙。


「兵站は」


「ほぼ焼失。持ち帰れたのは個人装備のみ」


公爵は頷く。


想定より、さらに悪い。


「領境まで、あとどれほどだ」


「一日半」


一日半。


その間に、アレインが追撃してきたら。


終わる。


だが。


追ってこなかった。


なぜだ。


あれほどの力を見せた。


本気を出せば、残兵など掃討できたはずだ。


見逃された。


それが、何よりも重い。


慈悲か。


興味の喪失か。


あるいは――


「……試されているのかもしれません」


側近が、ぽつりと言う。


公爵は視線を向ける。


「何をだ」


「我らが、再び刃を向けるかどうか」


沈黙。


あり得る。


アレインは感情で暴走したが、その後は静まった。


理性を失ってはいない。


もし、再戦を挑めば。


今度こそ、領内が戦場になる。


公爵は前を見据える。


遠く、北の山脈が見える。


自らの領地。


守るべき場所。


「……もう、戦えんな」


口から、静かに零れた。


誇りを削る言葉。


だが事実だ。


今、出撃すれば、北方は空になる。


民を守れない。


王国の盾どころか、穴になる。


「領内に籠る」


決断は早い。


「城塞を閉じ、再編を急げ。徴兵は段階的に。無理はさせるな」


側近が深く頷く。


「は」


「偵察を密に。アレインの動向を逐一報告させろ」


攻めない。


だが、目は離さない。


それが今できる最大限。


背後で、兵の一人が馬から落ちた。


疲労と失血。


仲間が支える。


担架はない。


外套で包み、再び馬に縛る。


それでも進む。


止まれば、死ぬ。


公爵は振り返る。


三百にも満たぬ影。


かつて五万が連なった道。


今は、まばらだ。


風が吹く。


誰も歌わない。


誰も誇らない。


ただ、生き延びた。


それだけ。


公爵の胸に、鈍い痛みが広がる。


アレイン。


かつて、同情した男。


派閥に迎え入れた。


王都が危険視し始め、表立って支援できなくなった。


それでも。


旧グランデールの民を密かに受け入れた。


あの選択に、後悔はない。


だが今日の選択は。


盾にした。


あの民を。


王国のために。


その結果。


北は砕けた。


「……副官」


無意識に呟く。


返事はない。


いつもなら、即座に策を示した男。


今は、荒野に眠っている。


公爵は空を見上げる。


灰色の雲。


雪の気配。


北は、もうすぐ冬だ。


冬は籠城に向く。


それだけが救いか。


「閣下」


側近が再び声をかける。


「王都は、どう動きますか」


公爵は考える。


南方戦直後。


勇者は消耗。


王都騎士団も疲弊。


そこへ北方壊滅。


王は、動けない。


動けば、王都が空く。


つまり。


今、最も脆いのは王国全体。


「……時間を稼ぐしかない」


公爵は言う。


「北は、動かぬ。盾は、立て直す」


折れたが、消えてはいない。


盾であることを、やめない。


それが公爵の矜持。


たとえ、非情を選んだとしても。


やがて、北の城塞が見えてくる。


門が開き、鐘が鳴る。


帰還の音。


だが歓声はない。


兵の数を見れば、誰でも分かる。


敗北だ。


公爵は馬を降りる。


足が震える。


だが立つ。


門をくぐる。


民が道の端で膝をつく。


その視線が、刺さる。


守れたのか。


守れなかったのか。


まだ、分からない。


ただ一つ。


次にアレインが動けば。


北は、籠る。


耐える。


もう無謀な討伐はしない。


王国の盾は、割れた。


だが、砕け散ってはいない。


公爵は振り返らない。


背後で門が閉じる。


重い音。


それは敗北の響きであり。


同時に、防衛の始まりの音でもあった。

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