壊滅
黒い嵐は、ゆっくりと収まっていった。
先ほどまで天を裂いていた瘴気の柱は霧散し、荒野には異様な静けさが戻る。
残っているのは、崩れた地形と、無数の亡骸。
北方公爵軍。
王国最強と謳われた軍勢は、見る影もなかった。
鎧は溶け、旗は焼け焦げ、魔導砲はひしゃげている。
生き残った兵は、わずかだった。
その多くが、膝をつき、武器を落とし、ただ呆然と前を見ている。
戦意という概念が、消し飛んでいた。
ノルディア公爵は立ち上がる。
折れた槍を杖代わりにして。
視界の端で、副官が倒れているのが見える。
胸を貫かれている。
息は、もうない。
公爵は歩く。
よろめきながらも。
十の亡骸の中央に、アレインが立っている。
黒い魔力は、もはや暴れていない。
静かだ。
それが余計に恐ろしい。
先ほどまで世界を飲み込んでいた存在が、今はただ沈黙している。
その足元に横たわるのは、旧グランデールの民。
自ら命を絶った十人。
彼らの顔は、不思議と穏やかだった。
公爵の胸が軋む。
自分が命じた。
自分が差し出した。
王国の盾として。
だが――
守れたものは何だ。
北方軍は壊滅した。
アレインは止まらなかった。
むしろ、解き放ってしまった。
「……閣下」
かすれた声。
若い騎士が、血に濡れながら立っている。
腕を失っている。
それでも剣を握っている。
「撤退、命令を……」
公爵は周囲を見る。
戦える者は、ほとんどいない。
アンデッドは動いていない。
アレインが命じていないからだ。
まるで、興味を失ったかのように。
公爵は理解する。
見逃されている。
今なら退ける。
だが、それは敗北を意味する。
北方公爵軍の完全敗北。
王国の盾の崩壊。
それでも。
「……撤退だ」
低く、しかし明確に言う。
「生き残れる者は、生き延びろ」
命令は、淡々としていた。
若い騎士が涙をこぼす。
悔しさか、安堵か。
分からない。
生き残った兵たちが、ゆっくりと後退を始める。
秩序はない。
だが、追撃は来ない。
アレインは動かない。
十の亡骸の前で、ただ立っている。
公爵は最後に、彼を見た。
視線が合う。
そこにあったのは、勝利の誇りではない。
怒りでもない。
ただ、深い闇。
公爵は初めて理解する。
これは戦争ではない。
復讐でもない。
断罪でもない。
これは、崩壊だ。
一人の男の。
そして王国の。
公爵は頭を下げた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度に。
そして背を向ける。
荒野に、風が吹く。
黒い瘴気が、地面に沈んでいく。
アンデッドたちも、動きを止める。
主の沈黙に従うように。
やがて、戦場にはアレインだけが残る。
十の亡骸。
壊滅した軍勢。
焼け焦げた大地。
彼は、ゆっくりと膝をついた。
骨の指が、地面に触れる。
冷たい。
あの日の処刑台の石と、同じ冷たさ。
守れなかった。
二度も。
低い嗚咽のような音が、喉から漏れる。
涙は流れない。
もう、その器官はない。
だが確かに、何かが崩れている。
魔力が、静かに揺れる。
怒りではない。
悲嘆でもない。
空洞。
すべてを失ったあとの、空白。
遠くで、北方軍の残兵が消えていく。
追わない。
追う意味がない。
アレインは立ち上がる。
十の亡骸を、見下ろす。
「……もう、巻き込まない」
低い声。
それは誓いか、呪いか。
黒い魔力が、ゆっくりと広がる。
だが先ほどのような暴威はない。
制御されている。
冷たい。
理性を取り戻したわけではない。
感情が、凍ったのだ。
守れなかった記憶。
差し出された命。
それらが、決定的な何かを折った。
北方公爵軍は退いた。
だが王国は、まだ残っている。
王都。
教会。
勇者。
断罪を下した者たち。
アレインの眼窩の奥で、黒い光が静かに灯る。
「……次は」
その先の言葉は、風に消えた。
荒野には、ただ死と沈黙。
王国最強の盾は砕けた。
そして、怪物は一段階、深く沈んだ。
もう誰も、彼を止められない。
少なくとも。
正論や、戦術では。
物語は、戻れない地点を越えた。
北は敗れた。
王国は、真の災厄と向き合うことになる。
そしてその報は、やがて王都へ届く。
――北方公爵軍、壊滅。
その一行がもたらす衝撃を、まだ誰も知らない。
黒い荒野に、風だけが吹いていた。




