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盾の崩壊

黒い荒野を、十人の影が歩いていた。


戦場の只中。


血と瘴気が渦巻くその中心へ向かって。


武装はない。


鎧もない。


ただ粗末な外套と、震える足取り。


旧グランデールの民。


かつてアレインに守られ、生き延び、北へと逃れた者たち。


彼らは、戦場に似つかわしくない。


だが北方公爵軍は、道を開けた。


重装歩兵が左右に割れ、円陣の中心から彼らを前へと押し出す。


黒骨兵が迫る。


だが、アレインの魔力がそれを制した。


死者が、止まる。


黒い軍勢が、動きを止める。


戦場に、異様な静寂が落ちた。


ノルディア公爵は馬上でそれを見つめる。


顔に表情はない。


だが、その指先は白くなっていた。


副官が小さく告げる。


「閣下……前進します」


十人が、さらに歩く。


血に濡れた地面を踏みしめながら。


やがて。


アレインの視界に、はっきりと映る距離に達する。


骨の王は、動かない。


ただ、見ている。


十人のうち、一人の老女が膝をつきそうになる。


隣の青年が支える。


「……アレイン様」


誰かが、呟いた。


その声は震えている。


だが、確かに届いた。


アレインの足が、止まる。


黒い瘴気が、揺らぐ。


かつて守ると誓った民。


焼け落ちる街の中で、背に庇った子供。


泣きながら礼を言った母親。


凍える夜、毛布を渡した老人。


目の前にいるのは、その“続き”だ。


彼らは生き延びた。


守れなかったはずの命が、今ここにある。


黒骨兵が、道を空ける。


十人は、さらに近づく。


戦場のど真ん中で。


誰も攻撃しない。


攻撃できない。


北方軍の兵も、息を呑んでいる。


この策の意味を、理解しながら。


公爵は目を逸らさない。


これは命令だ。


王国の盾としての選択。


アレインの眼窩の光が、揺れる。


一歩、退いた。


わずかに。


その瞬間。


北方軍の外周が、再編される。


包囲の形が整う。


黒骨兵が押し返され始める。


アレインは、攻撃できない。


目の前の十人を巻き込む術は、持っていない。


いや。


持っている。


だが、使えない。


老女が、震える声で言った。


「……あなたは、悪くない」


戦場には似つかわしくない、穏やかな声音。


「わたしたちは、生きています」


青年が続く。


「あなたが、守ってくれたから」


アレインの魔力が、乱れる。


黒い波が不規則に揺れる。


ノルディア公爵は、それを見逃さない。


「前進」


低い命令。


北方軍が、じりじりと圧をかける。


アレインは下がる。


十人の存在が、壁になっている。


それは物理的な壁ではない。


呪いだ。


彼自身の心が、鎖となっている。


戦場の空気が、重くなる。


老女が、振り返る。


北方軍を見ない。


公爵を見ない。


ただ、仲間たちを見る。


小さく、頷く。


誰にも聞こえない声で、言う。


「足手まといに、なるな」


最初の一人が、短剣を抜いた。


北方軍から支給されたものだ。


震える手。


だが、迷いはない。


「……ありがとう、ございました」


アレインに向けて、深く頭を下げる。


そして。


自らの喉を、掻き切った。


血が、地面に落ちる。


黒い荒野に、赤が滲む。


アレインの魔力が、凍りつく。


二人目。


三人目。


止める声はない。


止められない。


彼らは決めている。


守られた命を、もう一度差し出すことを。


「生きろ……」


骨の喉が、軋む。


声にならない。


手を伸ばす。


だが、触れられない。


触れれば、壊れる。


四人目が倒れる。


五人目が、微笑んだ。


「あなたは、英雄です」


その言葉と共に、刃が振り下ろされる。


黒い魔力が、爆ぜる。


抑え込まれていた奔流が、限界を迎える。


十人目が、最後に残る。


まだ若い少女。


涙を流しながら、アレインを見つめる。


「……守ってくれて、ありがとう」


そして、胸に刃を突き立てた。


その瞬間。


戦場の音が消えた。


完全な静寂。


次の瞬間。


空が裂けた。


黒い柱が天を貫く。


大地が崩れ、瘴気が嵐となって吹き荒れる。


アレインの魔力が、爆発する。


怒り。


悲嘆。


後悔。


すべてが混ざり合い、形を失う。


黒骨兵が変質する。


巨大化する。


翼を持つ影が空に生まれる。


地面から無数の死腕が伸びる。


北方軍の円陣が、一瞬で吹き飛ぶ。


塔盾が蒸発する。


騎兵が宙を舞う。


魔導陣が粉砕される。


副官が叫ぶ。


「総退却――!」


言葉は爆音に呑まれた。


公爵の馬が倒れる。


彼は地面に叩きつけられる。


立ち上がる。


目の前で、兵が消えていく。


一撃。


それだけで、数十名が塵になる。


黒い奔流が、戦場を飲み込む。


北方公爵軍。


壊滅。


秩序も、陣形も、意味を失う。


公爵は、立ったままそれを見た。


自らの選択が、何を生んだかを。


アレインは動かない。


ただ、立っている。


十の亡骸の中心で。


魔力が渦巻く。


その姿は、怪物を超えていた。


もはや、災厄。


北の盾は、砕かれた。


荒野に残るのは、死と瘴気。


そして。


取り返しのつかない選択の痕。


アレインは、ゆっくりと顔を上げる。


眼窩の奥の光は、もはや揺れていない。


完全な、黒。


「……遅い」


低い声が、風に溶ける。


それは誰にも届かない。


だが戦場は、その言葉を刻みつけた。


王国最強の軍は、ここに潰えた。


そして物語は、もう戻れない場所へ進む。

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