縦の軋み
黒い奔流が戦場を塗り潰した。
それは爆発ではない。
浸食だった。
蒼く輝いていた浄化陣が、一つ、また一つと消えていく。
まるで夜に呑まれる灯火のように。
「中央、後退! 三十歩!」
副官の声が裂ける。
だが整然とした後退にはならない。
黒骨兵が前線へ雪崩れ込む。
先程までの骸骨とは別物だ。
動きは鋭く、連携がある。
まるで意思を共有しているかのように。
重装歩兵の塔盾に、漆黒の刃が叩きつけられる。
金属が軋む。
二撃目で亀裂。
三撃目で砕ける。
「盾が……!」
叫びは途中で途切れた。
盾ごと兵が両断される。
血が飛び、地面に吸い込まれる。
その血さえも、瘴気に変わる。
ノルディア公爵は馬を翻した。
「第三連隊、左翼支援! 第五は中央穴を塞げ!」
号令は明確だ。
兵は従う。
そこに迷いはない。
だが。
埋めても、埋めても、穴が広がる。
黒骨騎士が突撃してくる。
騎兵が迎え撃つ。
槍が交差する。
一瞬の拮抗。
次の瞬間、騎兵の半数が落馬していた。
骨騎士の剣が、鎧の隙間を正確に貫いている。
技量が違う。
これは死者の数ではない。
質だ。
「魔導隊、再構築急げ!」
参謀長の怒号。
魔導士たちが必死に詠唱を繋ぐ。
だが魔力が重い。
詠唱が進まない。
まるで大気そのものが敵意を持っている。
アレインが、ゆっくりと歩く。
その足取りは静かだ。
急ぎもしない。
焦りもない。
一歩進むごとに、黒い波紋が広がる。
その波紋に触れた兵が、崩れ落ちる。
命を奪われたわけではない。
魔力を抜かれた。
膝をつき、立てない。
「近接戦を避けろ!」
公爵が叫ぶ。
だが距離を取れば、黒骨兵が押し寄せる。
近づけば、アレインの領域に入る。
どちらも死。
戦術の余地が、急速に狭まっていく。
「閣下!」
副官が馬を寄せる。
「中央突破は不可能です。再編のため後退を!」
公爵は戦場を見渡す。
右翼はまだ形を保っている。
左翼は半壊。
中央は削られ続けている。
このまま押されれば、包囲される。
北方公爵軍が。
王国最強の名が、ここで地に落ちる。
(まだだ)
公爵は歯を食いしばる。
「北は盾だ」
自らに言い聞かせるように。
「退くな。踏み止まれ」
その声は震えていない。
兵たちの背が、わずかに伸びる。
だが戦況は無情だ。
アレインが片手を掲げる。
地面が裂ける。
無数の黒槍が突き出す。
前列の重装兵が串刺しになる。
悲鳴。
血。
そして静寂。
倒れた兵の影から、さらに黒腕が伸びる。
死体が利用されている。
「浄化式、最大出力!」
魔導隊長が叫ぶ。
蒼光が戦場を薙ぐ。
黒骨兵が数体、消える。
だが、消えた分を埋めるように、背後から新たな死者が現れる。
まるで尽きない。
いや、尽きる。
だがその速度が追いつかない。
アレインの眼窩が、公爵を捉える。
視線が合う。
そこに憎悪はない。
ただ、理解がある。
(止めに来たのだろう)
そう言われている気がした。
(ならば止めてみろ)
黒い魔力が、再び膨らむ。
公爵の馬がいななき、後退する。
「中央、十歩下がれ! 陣を狭めろ!」
楔形を解体し、防御円陣へ。
守勢に回る。
北方軍が、初めて“耐える”形を取った。
それでも押される。
円陣の外周が削られていく。
騎士団第五連隊の旗が倒れる。
旗手が斬られた。
若い騎士がそれを拾い、立て直す。
次の瞬間、その胸が黒槍に貫かれた。
旗が、再び落ちる。
公爵は拳を握る。
(ここで折れれば、王国は終わる)
だが。
このままでは、北が終わる。
副官が、低く言った。
「……閣下」
その声には覚悟が滲んでいる。
言葉にしなくても分かる。
最後の策。
用意していた、あれ。
公爵は目を閉じる。
ほんの一瞬。
雪の夜。
凍える難民の子供。
震える手。
あの日の記憶。
そして今。
黒い奔流に呑まれゆく自軍。
再び目を開ける。
戦場は、さらに悪化している。
左翼、崩壊。
中央、防御線二層目突破。
残るは、本陣。
アレインは歩みを止めない。
もうすぐ届く。
このままでは。
北方公爵軍は、壊滅する。
公爵は、ゆっくりと息を吐いた。
決断の時間が、来た。
「……副官」
声は低い。
だが迷いは消えている。
「準備を」
副官は一瞬だけ目を伏せ、深く頷いた。
「は」
戦場の片隅。
まだ前線に出ていない一団がいる。
武装していない。
剣も槍も持たない。
十人。
旧グランデールの民。
公爵の胸に、鈍い痛みが走る。
だが、表情は変わらない。
アレインの黒い波が、さらに押し寄せる。
円陣が軋む。
盾が砕ける。
兵が倒れる。
北の盾が、砕けかけている。
その中で、公爵は命じた。
「……前へ出せ」
戦場の流れが、わずかに変わる。
それはまだ、小さな変化。
だがやがて。
取り返しのつかない選択になる。
黒い荒野に、静かな一団が歩み出した。
戦場の誰もが、その意味をまだ知らない。
ただ一人。
アレインだけが、気配に気付く。
眼窩の奥の光が、わずかに揺れた。




