英雄の記憶
空気が、変わった。
それは衝撃でも爆音でもない。
ただ、戦場の温度が一瞬で失われた。
北方公爵軍は押していた。
三重陣は崩れず、浄化式は機能し、黒霧は薄れ、アンデッドは確実に数を減らしていた。
戦術は完璧だった。
計算通り。
だが。
瘴気の塔が崩れたその瞬間、戦場の中心に立つリッチ――アレインの足元で、黒い魔力が静かに渦を巻いた。
それは怒号を伴わない。
爆ぜもしない。
ただ、深く、重く、沈む。
ノルディア公爵は馬上でそれを感じた。
「……止まれ」
無意識の命令。
だが前線は進んでいる。
楔形陣が死者を踏み砕き、騎兵が骨騎士を切り裂く。
勝利の流れはまだこちらにある。
だが、アレインは動かない。
立っている。
崩れた塔の前で。
そしてその背後。
炎が揺らめいた。
現実ではない。
記憶だ。
焼け落ちる城壁。
黒煙に覆われた空。
崩壊するグランデール。
石畳を走る血。
泣き叫ぶ子供。
倒れた母親。
剣を握る自分。
守れると信じていた日。
守れると誓った夜。
そのすべてが、燃えていた。
魔族の軍勢に包囲され、孤立した街。
援軍は来なかった。
いや――
来た。
だがそれは、救いではなかった。
掲げられたのは王国の旗。
振り下ろされたのは、王国の刃。
「反逆者」
その言葉が、戦場に響いたあの日。
王国の命令に背き、独断で民を守ろうとした罪。
勝手な判断。
越権行為。
戦線放棄。
王都の判断は早かった。
彼は英雄ではなくなった。
守れなかった男は、責任を負わされた。
処刑台の冷たい石の感触。
拘束された両腕。
群衆のざわめき。
視界の端で泣く、かつての部下。
「……申し訳ありません」
誰の言葉だったか。
もう思い出せない。
刃が振り下ろされた瞬間、思ったのは怒りではなかった。
ただ一つ。
――守れなかった。
それだけだった。
黒い魔力が、脈打つ。
戦場に立つアレインの周囲で、瘴気が質を変える。
砕け散った骨片が震え、腐肉が蠢き、黒い光が眼窩に灯る。
魔導隊が異変を察知する。
「魔力濃度急上昇! 構造変質!」
蒼い浄化陣が、紫に侵食される。
アレインはゆっくりと顔を上げた。
眼窩の奥で、光が揺れる。
怒りではない。
悲鳴でもない。
空洞。
すべてを奪われた後の、何もない場所。
「……遅い」
低く、擦れる声。
それは誰に向けたものでもない。
王国でも、魔族でも、北方軍でもない。
世界そのものへ向けた否定。
足元の大地が黒く染まる。
倒れていたアンデッドが、再び立ち上がる。
だが先程までとは違う。
骨は漆黒に変色し、動きは滑らかで、魔力の密度が明らかに増している。
質が変わった。
「陣形維持!」
副官の叫び。
だが遅い。
アレインが一歩踏み出す。
その瞬間、空間が裂けた。
前線の重装歩兵が音もなく両断される。
盾も鎧も意味をなさない。
魔導砲が放たれる。
蒼光が直撃する。
爆煙。
だが、煙が晴れたとき、彼は立っていた。
骨の一部が砕け、外套が裂けている。
それでも、立っている。
そして、視線が北方公爵を捉える。
ノルディア公爵は理解する。
これは、戦術で押し切れる相手ではない。
これは、理屈では止まらない。
守れなかった記憶が、魔力に変わっている。
処刑台の断罪が、呪いになっている。
アレインが腕を上げる。
戦場全体の魔力が、彼へと収束する。
散った魂。
倒れた死体。
消えかけた瘴気。
すべてが。
黒い奔流が生まれる。
それは波ではない。
洪水だ。
前線を、飲み込む。
塔盾が砕ける。
騎兵が吹き飛ぶ。
魔導陣が崩壊する。
北方公爵軍が、初めて後退した。
秩序ある進軍は消え、押し返される。
アレインは歩みを止めない。
一歩。
また一歩。
足元で死が増殖する。
その姿は英雄ではない。
怪物でもない。
ただ、守れなかった男の残骸。
「……もう、遅い」
再び、低く響く。
北方軍の列が崩れる。
戦場の天秤が、逆転する。
優勢は幻想だった。
公爵は歯を食いしばる。
(これが、お前の答えか……)
黒い軍勢が再編される。
数は減っている。
だが、圧が違う。
戦場は、完全にアレインの色に染まり始めていた。
英雄の記憶は、終わらない。
それは過去ではなく、今この瞬間も燃え続けている。
北方公爵軍は、押し返される。
王国最強の盾が、軋む。
そしてノルディア公爵は悟る。
このままでは、折れる。
だからこそ。
彼は、最後の策を思い出す。
雪のない荒野に、北の兵の血が広がっていく。
戦場の中心で、アレインは静かに立っていた。
かつて守れなかった街の幻影を背に。




