守るもの
夜の平原に、二つの軍が静止している。
その中央に立つのは、第三大将。
そして、その正面に自分。
あと一歩で、戦が始まる。
その寸前に――
ふと、どうでもいい記憶が浮かんだ。
春先の、まだ冷たい風。
石畳の小さな町。
母が焼く黒パンの匂い。
父の無骨な手。
「お前は、遠くへ行く」
父はそう言った。
誇らしげでも、寂しげでもなく、ただ事実のように。
エルディオは、幼い頃から剣が速かった。
魔力も強かった。
教師は驚き、領主は目を留め、王都への推薦が決まった。
将来は約束されていた。
騎士団入りは確実。
功を立てれば貴族叙任。
いずれは王の側近。
それが“順当な未来”だった。
こんな戦争さえ、なければ。
こんな侵攻さえ、なければ。
王都で穏やかに名を上げ、
父母を呼び寄せ、
静かな屋敷を与えられただろう。
母は庭を喜び、
父は照れながら酒を飲む。
そんな未来が、あった。
(……まだ、間に合う)
今から退けば。
勇者に任せれば。
主力に挑まず、時間だけ稼いで下がれば。
生き残る道は、ある。
出世も、栄達も、まだ手に入る。
だが。
視線の先にいる第三大将が、
それを許さないと告げている。
そして何より――
(あの町は、王都の向こうだ)
主力が進めば、やがて北も焼ける。
順番が違うだけだ。
王都の次は、地方。
地方の次は――
故郷。
父と母。
胸の奥が、静かに冷えた。
「……なら」
置いていく。
約束された未来も。
安穏も。
名誉も。
全部。
ここで、賭ける。
エルディオは一歩踏み出した。
その瞬間、
第三大将の左右から二つの影が滑り出る。
装甲は漆黒。
魔力は凝縮。
ただの護衛ではない。
腹心。
精鋭。
「我らが将に触れる資格はない」
低い声。
同時に、魔法陣が展開される。
二重詠唱。
高位拘束魔法と、高位爆裂。
連携。
隙がない。
(速い)
だが。
エルディオは詠唱しない。
踏み込む。
足元に魔法陣。
高位身体強化。
筋繊維が軋む。
拘束魔法が降りる寸前、
剣を地面に突き立てた。
「裂けろ」
短い詠唱。
高位地裂魔法。
地面が隆起し、拘束陣を歪める。
爆裂魔法が空を裂く。
だが爆風の中を、エルディオは突き抜ける。
一人目。
距離、三歩。
腹心の剣が振り下ろされる。
重い。
魔力を乗せた一撃。
真正面から受ければ骨が砕ける。
だから――受けない。
半歩外し、滑り込み、懐へ。
高位剣技《蒼断》。
刃が蒼く発光する。
横薙ぎ。
装甲ごと、胴が断たれる。
血ではなく、黒い魔力が噴き出す。
崩れる。
間髪入れず、二人目が背後を取る。
「遅い」
振り向かない。
背後に魔法陣を展開。
高位氷結魔法。
無数の氷槍が放たれる。
腹心は防御障壁を展開。
だがそれは――囮。
エルディオは前に踏み出している。
振り向きざま、逆袈裟。
高位剣技《閃影》。
視認できない速度。
防御障壁の展開が、半瞬遅れる。
肩口から胸まで、深々と斬り裂く。
二人目も崩れ落ちた。
静寂。
魔王軍が、どよめく。
第三大将の腹心が、二人。
瞬時に。
エルディオは呼吸を整える。
肺が焼ける。
魔力が削られる。
だが、立つ。
視線を上げる。
第三大将まで、あと十歩。
その目は、怒っていない。
むしろ――
評価している。
「見事だ」
低く、響く声。
その一言に、重みがある。
エルディオは答えない。
答える余裕はない。
心臓が強く打つ。
(ここからだ)
腹心を斬った。
だが本命は、目の前。
父の顔がよぎる。
母の笑顔がよぎる。
「生きて帰れ」
言われたことはない。
だが、願われている。
分かっている。
それでも。
(すまない)
心の中で、呟く。
約束された未来は、ここで終わるかもしれない。
それでもいい。
この一撃が、
王都を守り、
故郷を遠ざけるなら。
エルディオは剣を構え直した。
十歩。
九歩。
足を止める。
真正面。
第三大将の魔力が、ゆっくりと解放される。
地面が沈む。
空気が重くなる。
世界が、二人の間に収束する。
「来い」
将が告げる。
エルディオは、静かに息を吐いた。
「……行く」
死を賭して。
未来を置いて。
剣を、振るう。




