すきなもの ‐4‐
「他人にどう思われようと、何かを好きだという気持ちは、自分だけのものじゃないかな」
それはとても、透き通った声だった。
祈七はそれだけ言うと、カウンターの向こうへ戻ってしまう。紗奈はまだうまく気持ちが処理できずに、テーブルに置かれた皿に視線を落とした。やはりウサギの絵が描かれている皿には、それぞれくるみだれのかかった餅と、海苔でくるまれた餅がひとつずつ乗せられている。
「あ、安吾さん、お帰りなさーい」
不意にアメリがそんな声をあげた。その目線が店の外を見ていたので、紗奈もつられて振り返る。
そこに立っていたのは、黒縁メガネで黒髪の長身男性だった。安吾と呼ばれた彼は、アメリを一瞥してから紗奈の存在に気づいて、
「ああ、いらっしゃいませ」
と無愛想に口にした。その声は男性だとしてもかなり低めの部類だ。
その姿を、紗奈はどこかで見たことがあるような気がしていた。しかしそれ以上に、この店には美形しかいないのかと呆気にとられてしまう。
「おかえり、安吾」
祈七のうっとりするようなハスキーボイスが聞こえてくる。その言い方にもしや二人は夫婦か恋人ではと思えてしまう。安吾は三十には届いていないように見えた。ということは祈七もそれぐらいだろうか。
「ちょうど良かったっす。安吾さん、このおねーさん、Lionaのファンなんですよ」
――店はほんわかかわいい系なのに。
そんな風に思っていた紗奈は、アメリの不意打ちを食らった。
「あ、あれっす。ほら、そういう方面の人」
公式グッズをつけている手前、隠しているわけじゃないけれどいきなりそんなと思っていると、アメリがそう付け足した。そういえば、駅でそんなことを言っていたと思い出す。
「なんだよ、そういう方面って」
店に入ってきた安吾は明らかに不機嫌そうにそう言った。そのまま奥に行くのかと思いきや、カウンター越しに持っていた荷物を祈七に渡して、その場に留まる。
「えっと……eスポーツとかされているんですか?」
「あーいやいや、ちょっと違うんですけど、ま、そのあたりはこれで」
その場の雰囲気が居たたまれず思わず聞いてしまうと、アメリが長い人差し指を唇に当てた。
「おい待てアメリ、なんでお前が答える」
「いいじゃないっすか。本題はそこじゃないんで」
紗奈はとりあえず、それ以上の言及はしないことにした。プライベートは一切明かさず動画配信をしている人も多いし、配信者じゃなくともスタッフなどの関係者かもしれない。何にせよ、詮索はしないに越したことはなさそうだと判断した。
「で、Lionaのファンと俺になんの関係があんだよ」
安吾の態度に、もしかして彼はこの店のスタッフではないのかもしれないと紗奈は思った。
「あ、安吾さんも店員っす」
しかしなぜかすぐにアメリに否定される。
「裏方だけどな」
「態度が悪くてごめんなさい。いつも言っているんですが」
祈七がカウンターの向こうから、しとやかな声で謝罪してくるので、紗奈は思わず「気にしてません」と首を振った。それは本心だったものの、紗奈自身も不思議だった。アメリも安吾も、客商売特有の腰の低さは感じない。しかしだからといって、苛つくこともなかった。
「いや、おねーさん、ファンであることに随分自信をなくしてるんすよ」
安吾の視線がちらりと紗奈を見る。
「他にすごい人がいっぱいいるって」
そして彼は「ああ」と言うような表情をしてから、カウンターの椅子をくるりと回して座った。
「そのいっぱいって、どんぐらいだ」
「え、どれぐらい……」
「Lionaのファンがどれぐらいいて、そのうちどれぐらいの奴らが“すごい”んだ」
腕を組んで問う安吾の姿はそれなりに威圧感があった。
ただ紗奈はそれを恐れることはなかった。それよりも、言われたことの中身にに胸を刺されている。
「おおかた、目立つ奴を見て勝手に凹んでるんだろうが、そういう奴らは、普通じゃないから目立つんだ」
「安吾、言い方に気をつけなさい」
祈七の注意も、安吾はどこ吹く風だった。
「Lionaはそういう奴らを特別扱いするような奴か?」
「えっ……と、たまにありがとうって言う、ぐらい」
「そりゃあいつだって人間だからな。特にあいつは根っからの善人体質だ、嬉しいときは素直に喜ぶだろ」
「あ、やっぱり安吾さん仲良しなんすね」
まるで雰囲気を調和するように、アメリが口を挟んだ。
確かに、と紗奈も気づく。もしかして大会とかに出るような人なのだろうか。見たことあるような気がしたのも、そのせいなのかもしれない。
「知ってるだけだよ。ガキの頃に飼ってたウサギをグッズにするような奴だぞ」
そう言って安吾は、紗奈の前に置かれたくるみ餅に視線を向けた。
Lionaが大好きだった、おばあちゃんのくるみ餅。紗奈は一度も食べたことがなかった。そのエピソードを聞いても、味の想像もつかなかったのだ。
だけど今、それが目の前にある。アメリに教えてもらったとはいえ、自分でそれを食べてみようと選んだ。
「ファンであることを他人と競いたいならそうしたらいい。誰よりも金をつぎ込んでやるっていうのも、自分が楽しめるならそうしたらいいんだ」
だがな、と安吾が続けた。
「それができないからって、自分を否定する必要はねえだろ」
「あー、それっすよ、それ。否定するんじゃなくて、受け入れましょうよ」
「うるせえな、アメリ。俺が言ったことを繰り返すんじゃねえよ」
「いやいやさすが安吾さんっす。いやーあたし、見直しちゃったなー」
アメリの態度に安吾が大きくため息をついた。そして話は終わりだと言わんばかりに、今度こそ店の奥へと消えていった。
「好きって気持ちは自分だけのもの。それを否定するのは、悲しいじゃないですか」
代わりのように、祈七が新しいお茶を持って現れる。
「さあ、召し上がってください。せっかくのお餅、冷めちゃいますから」
そうだった、と紗奈はテーブルに視線を落とした。皿のウサギが、丸い目でこちらを見ている。茶色のウサギは、Lionaのグッズのウサギととてもよく似ていた。
このウサギが登場したのは、紗奈がファンになってちょうど一年ぐらい経ったころだった。ライオンとウサギなんて弱肉強食みたいでちょっと。そんな声がちらほら聞こえたこともあった。ライオンはLionaだから、ウサギは敵で、それを食ってやるってことなんでしょう、と。
そのことをLionaは、インタビューでこう答えていた。
『僕が小学生のときに飼っていたウサギなんです。かわいくて大好きでした。好きだからアイコンにしてもらったんです』
そこにあったのは純粋な「好き」という気持ちだった。
――好きって、なんだろう。
すぐにその答えは見つからない。紗奈のLionaが好きという気持ちと、Lionaがウサギのくるみを好きという気持ちは、同じとは思えない。
それでも、と紗奈はひとつ息を吸った。
きっとまだまだ他人と比べて、勝手に凹むのだろう。すごい人なんて少数だって言われたって、そういう人が目に入ることは変わらない。
――それでも、好きでいるのも勝手なことだ。
目の前に座ったままのアメリが笑った気がした。ショーケースの前で女性が立ち止まり、それに気づいた祈七が「いらっしゃいませ」と甘美な声と笑顔で対応している。
紗奈はそっと両手を合わせた。
「いただきます」
小さくとも確かな声でそう言い、箸を手に取る。
つまみあげた餅の下から、ぴょんと跳ねたウサギが現れた。