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焼きあがったその先で

ようこそ、物語の節目へ。

ここまで焼きあげてきた物語の香りに、ふたたび足を運んでいただき、本当にありがとうございます。


今日お届けするのは、物語の“終わり”ではありません。

それはむしろ、パンが焼きあがったあとの“余熱”のような時間。

静かで、やわらかく、けれど確かに――何かが変わる前の、最後のひと息。


世界はもう焼かれた。

それでも、焼きたてではないのだとしたら――その意味を、どうぞ感じてください。


香りの奥に、次の扉が、そっと開こうとしています。

陽の角度が変わるたびに、石畳の色が微妙に移ろっていく。

午後と夕方の境目に、村はしんと静まり返る。


その広場の一角に、パンを頬張る村人が数人、腰かけていた。


「……うまいな、今日のバゲット」


「おう、軽すぎず重すぎず。あの人の焼き方は、いつも絶妙だよ」


誰かが頷く。

あたりにはもう、パンを焼く煙も、窯の熱も残っていない。

それでも広場には、焼きたての香りが、ほんのりと息をひそめていた。


その中のひとりが、パンの耳を口に含みながら、ぽつりとつぶやいた。


「……次は、何が焼けるんだろうな」


言った本人も、特に深い意味はなかったのかもしれない。


けれど、それを聞いた他の者たちは、一瞬だけ視線を交わした。

誰も答えようとはしない。

けれど皆、その問いに“何か”が含まれていることを感じていた。


「……また、甘いやつがいいな」


「いや、今度は塩パンもいいかも」


「そうじゃなくてさ……」


その先の言葉は、誰も続けなかった。


空は明るいままだった。

工房からの煙は、もう上がっていなかった。


でも、その香りだけは、空気に溶けて残っていた。


それは、問いかけだったのかもしれない。

「次は何が焼ける?」という、未来に向けた、ささやかな祈り。


パン屑が風に舞い、陽の光にふわりときらめいた。


工房の扉は、半分だけ開いていた。

鍵はかかっていない。けれど、誰もその中へ入ろうとはしなかった。

まるでそこだけが、村の時間から切り離されているかのようだった。


中は暗い。

差し込む光の角度で浮かび上がる埃の粒が、ゆっくりと沈殿していく。

けれど、窯の奥では確かに何かが“動いて”いた。


シェイドは、無言で作業をしていた。


白い手袋をはめた指が、慎重に計器をなぞる。

器具のひとつひとつが、まるで“何かを待っている”ようだった。


道具は、すでに並べられていた。

レシピの束。未使用の発酵糸。封を切っていない香料の小瓶。

どれも、“焼くため”の準備だったが、今はまだ何も焼かれていない。


彼は振り向かない。

誰に見られていようと、見られていまいと関係なく、一定のリズムで手を動かし続けていた。


ふと、装置のひとつ――第七層シリンダーが微かに震える。

それはまだ起動していない。

しかし、まるで自分自身が“呼ばれている”かのように、共鳴していた。


シェイドはそれをじっと見つめる。

目の奥には、焦りも期待もない。

ただ、絶対に“焼く”べき何かが、まだ焼かれていないことを知っている目だった。


足元に落ちていた小さな紙片が、軽くふるえた。

古いレシピの断片だった。タイトルは、かすれて読めない。

ただそこに、唯一残された文字列。


──「未焼」。


誰もいない工房で、静かに“次”のための準備だけが進められていた。


東の小道、朝と夕の境界にある門のそばに、荷車が一台ぽつねんと停まっていた。

木箱の中には、パン。いや、パンの“種”とも言える材料たちが、きちんと分類されて並んでいた。


粉袋、香草の束、乾かしたイチジク、無音の瓶に詰められた酵母。

どれも、焼かれることを前提に、まだ“始まっていない”。


リディアは、軽やかに荷車の手綱を取った。

服装はいつも通り。白いエプロンと、しっかり結ばれた髪。

ただ、瞳の奥にある光だけが、少しだけ遠くへ焦点を結んでいた。


リュシアが横で不満げに荷物を詰め込んでいる。


「……ねぇ、本当に行くの?何の目的も言ってないけど?」


「ええ、“巡業”ですわ」

リディアはあくまで涼しい顔をして言った。

「この辺り、少し風通しが悪くなりましたので。パン生地もたまには散歩しませんと」


「それ、何の比喩? パンが言ってたの?」


「ええ、きっと“ぷくぷく”と……」


「言ってないぞ」

ぷるるが、リディアの足元でぴょんと跳ねた。


「俺のせいにすんな。……でもまぁ、言ってないけど……たしかに、そういう感じはする」


「感じ……?」


「風だよ」

ぷるるはぴょん、ぴょんと道に跳ね出る。


「今のこの村は、“焼いたあとのにおい”がずっと残ってる。

でも、まだ焼いてない場所があるんだ。そこに、ちょっと……風、送りに行く感じ」


リュシアは、曖昧に眉をひそめた。

「言ってること、よく分からないけど……まぁ、止めてもムダでしょ、あなたたち」


「ええ。パンの巡業ですもの」


リディアがそう言って笑うと、

後ろから村人がひとり、手を振った。


「巡業かい?また、香り届けに行くのか?」


「ええ、“焼かれていない場所”へ。パンは、まだ膨らみきっていませんので」


その言葉に、ぷるるがふと立ち止まり、くるりと振り返った。


「だから焼けたって言うなよ。これからだってのに」


荷車が、軋みながら動き出す。

パン生地たちが、音もなく揺れながら、朝の終わりと夕方の始まりの間を進んでいく。


行き先は、まだ誰も知らない。

ただ、“風通しの悪いところ”――そこが、次の目的地だった。


村は、音をひとつ失った。


荷車のきしむ音も、ぷるるの跳ねる音も、もう聞こえなかった。

広場も、工房の扉も、誰もいない。

それでも――


パンの香りだけが、残っていた。


午前中に焼かれたはずの香りにしては、あまりに鮮やかだった。

まるで、今まさに焼かれているような、そんな錯覚すら起こさせるほど。


けれど工房の窯は冷めていた。

灰は固まり、鉄の扉はきっちりと閉じられ、火の気はどこにもなかった。


「……あれ?今日、まだ誰か焼いてたっけ?」


広場にいた青年が、ふと首をかしげた。

小麦の香り、焦げ目の立ち上がる甘さ――

それは確かに、いま“鼻先”に届いていた。


「いや……誰もいなかったはずだけど……」

「でも、香るんだよな……あの、焼きたての匂いが」


子どもがひとり、工房の軒下にぽつんと置かれたパンに気づく。

まだあたたかそうなブールが、一つだけ、籐のかごに収まっていた。


「……これ、食べていいの?」


その問いに、大人たちは顔を見合わせる。


誰が焼いたのかは、誰も知らない。

けれど、香りが確かに“ここにある”ことだけは、否定できなかった。


「もちろん、いいとも」

年配の女性が言った。

「香るパンは、食べられるべきものだからねぇ」


子どもは笑って、両手でそのパンを抱きしめるように持ち上げた。

香りが、彼の体ごと包むように立ち昇る。


その場にいた誰もが、どこかほっとしたような顔になった。


パンは、確かにもう焼かれていた。

けれど――


“焼いた人”はもういない。


なのに、パンは香る。

窯が止まっても、香りは生きている。


クロウレインは、構造として終わっても、余韻として生きていた。


それこそが、リディアたちが残したもの。

言葉も命令も定義もない、ただ“ある”だけの構造。


パンの香りが、風に乗って、また村を巡っていた。



風は、村の背中を押すように吹いていた。


リディアたちは、小道を進み続けていた。

荷車の軋む音も、すでに耳に馴染んでいる。

ぷるるは先頭を跳ね、リュシアは荷のバランスに文句を言い、リディアは空を見上げていた。


そして、その空の下――


煙が、上がっていた。


低く、淡く、しかし確かに立ち昇る煙。

それは、地平線の向こう。

地図に記されていない場所。

まだ誰も“パンを焼いたことがない”はずの方角。


リュシアが、思わず足を止めた。

「あれ、誰の煙?」


リディアは目を細めた。

「さぁ……まだ“こちらに届いていない”香りですわね」


「……なんか、いやな予感する」


「予感なら、香り次第ですわ」


ぷるるが、じっと煙を見ていた。


何も言わずにいた時間が、少しだけ長かった。

そして彼は、ぽつりと呟いた。


「世界は焼きあがった」


ふたりが彼を見た。


「でも、“焼きたてじゃない”って、あいつが言うんだ」


その言葉に、リディアの眉がわずかに動いた。

誰のことか、尋ねなかった。


「──つまり、これからだ」


ぷるるの瞳に映る煙は、まだどこにも属していなかった。

それは、これから焼かれる何かの兆し。


誰かが焼いているのか、誰かが“焼こうとしている”のか。

それはまだ、香っていない。


けれど、香らないものがあるなら、そこへ行くしかない。


リディアは無言で歩き出す。

荷車が再び軋む。

旅はまだ、焼き上がっていない。


そうして、三つの影が、煙の方へと消えていった。




六十話という長い道のりを、ここまで読み続けてくださったあなたへ。

言葉にできないほどの感謝を込めて、ありがとうございます。


この物語は、静かで、淡く、焼かれたパンのような温度を大切にしてきました。

神なき世界に残されたのは、“香り”という名の記憶と、日常という名の余韻でした。

たったそれだけのものが、世界を包み、ひとつの章を焼きあげてくれました。


けれど――


もし、まだどこかに香りの届かない場所があるのだとしたら。

もし、まだ“焼かれていない何か”が、この世界に残っているとしたら。


その先に続く道が、まったく存在しないとは、言い切れません。


ひとまず、第一部はこれで焼きあがりです。

でも、焼きたてじゃないということは……きっと、“これから”なのでしょう。


また、どこかで。

そのときは、どうか香りを頼りに、再びページを開いてください。


長きに渡り読んでくださった皆様に改めて感謝申し上げます。


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