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旅立ちの買い物

本日も物語の匂いを辿って来てくださり、ありがとうございます。

今日という日には、特別なことは起こりません。

けれど、何も起きない日の中にだけ漂う、“始まる予感”というものがあります。

この回では、そんな“言葉にならないざわめき”の傍らを、一緒に歩いていただければ幸いです。

市場の朝は、パンよりも早く立ち上がる。


土と果実と塩と布――あらゆる香りが混ざり合って、通りの空気は“名前のないスープ”のように濃かった。

リディアはそれを平然と受け入れながら、片手に籐のかご、もう一方でチーズの塊を持ち上げた。


「このチーズ、次元を歪ませそうですわ」


「また始まったよ……」


リュシアが後ろから声を投げた。

布屋の前で試しに顔をうずめていたところから、呆れ混じりに。


「先週もまったく同じこと言ってた」

「だって、こちらのチーズ、発酵層が不自然に屈曲してますの。見てくださいな、ここ」


リディアは白い手袋をした指先で、チーズの表面に浮いた渦のような模様を示す。

そこには確かに、熟成の常識では説明できない皺があった。

しかも、中心部が微かに温かい。


「……それ、ほんとに食べ物? というか、売ってるの?」


「発酵してるなら、すべてのものは食べ物候補ですわ」

「それ、さっき隣の肉屋でも言ってた……」


ふたりのやりとりを聞いていた売り子の老婆が、口元だけで笑った。


「それね、昨日はこんな場所に置いてなかったんだけどね」

「え?」とリュシア。


「昨日はもっと奥の通りだったのよ。ここに店があるの、おかしいわねえ」


「じゃあ、移動したってことですの?」


「ううん。……私も、どうやってここに来たのか、よく思い出せないの。ふふ、年かしら」


老婆は冗談のように笑ったが、リディアは目を細めた。

目の奥には、笑いと同じくらいの“注意”が宿っていた。


市場はにぎわっていた。

でも、その“にぎわい”自体が、何かの覆いのようにも思えた。


「リュシア。あのチーズ、やはり持ち帰りますわ」

「えっ、ほんとに? それ、たぶん空間歪めるやつだよ」


「ええ、だからこそですわ」

リディアは微笑む。「こういうものこそ、冷蔵庫に入れる前に正体を確かめなければなりませんの」


「ええと……うち、冷蔵庫あったっけ……?」


会話はそのまま、市場の雑踏へ溶け込んでいった。

果たしてそれが“買い物”だったのか、“儀式”だったのか。

誰にも、まだわからなかった。


市場から離れた坂道沿い、パン屑の落ちた石畳の端に、ひとりの少女が座っていた。


髪は小麦色。頬はほんのり焼き色。

村で一番“パンを食べている”と噂の子だった。

彼女は両手を膝の上で組みながら、リディアたちの通り過ぎるのを待っていた。


「……ねえ、リディアさん」


呼びかけた声は、まっすぐだった。


リディアは止まり、少しだけ首をかしげた。


「旅に出るの?」


その言葉に、リュシアが眉を上げる。

返事をする前に、リディアが笑った。


「パン生地が騒いでますのよ」


「……は?」


少女は目をぱちくりさせた。

リュシアはもう何も言わず、両手で顔を覆いながら肩を震わせていた。


「“騒ぐ”って……?」


「この村の空気、少し飽和してますわ。たとえば、イースト菌が働きすぎたみたいな……。

なので、すこし涼しい風に当てる必要があるかと」


「それって……パンが逃げたがってるってこと?」


「まあ、そんなところですわね」

リディアは少女に微笑みかけた。「あるいは、焼かれる前に少し膨らんでみたいのかも」


少女は考え込むように黙り込んだあと、ぽつりと聞いた。


「じゃあ、帰ってきたら――何を焼くの?」


リディアは少しだけ空を見た。

空には何もなかった。ただ、焼かれていない空気だけが浮いていた。


「お行儀のいいものか、めちゃくちゃなものか……」

「……え?」


「風次第ですわね」


そう言い終えると、リディアはくるりと身を翻し、歩き出す。


リュシアが小声で呟く。

「……またそういうこと言う……だから気づかれるのに……」


少女はぽかんとしながら、石畳の上に落ちていたパンくずをひとつ拾った。

それを口に入れ、もごもごと噛みながら、ぽつり。


「……帰ってきたら、ちゃんと“めちゃくちゃなやつ”がいいなぁ……」


その願いは、誰にも伝えられなかったが、

石畳の隙間にほんの少しだけ残った、バターの香りとともに、風に乗っていった。


工房の奥、通常は誰も足を踏み入れない扉のさらに先。

地下へと続く石段を降りると、空気が変わる。

湿り気と熱が入り混じったその空間は、“焼かれる前”と“焼かれた後”の狭間のようだった。


シェイドはそこでひとり、立っていた。

照明はない。代わりに、壁の内側から発せられる柔らかな青白い光が、

彼の顔をほのかに照らしている。


目の前にあるのは、“第七層シリンダー”。


完全には起動していない。

半ば露出した筒状の装置が、わずかに振動している。

低い呼吸のような音が空間に満ち、それだけが音だった。


彼は黙っていた。

手を伸ばすことも、近づくこともせず、ただ目で見ていた。


表面には、言語化不能な刻印が浮き出たり沈んだりしている。

あれが“パン”ではないことは、誰の目にも明らかだった。

だがそれが“香りのためのもの”であることは、どこか確信として染み込んでいた。


階上では、リディアとリュシアの声がかすかに聞こえた。

笑っている。軽口を交わしながら、夕食の買い物でもしているのだろう。


だがここには、それとは別の“時間”が流れていた。


その時間の中で、シェイドは一切の言葉を持たず、

ただ、封印されかけた構造の“眠り”を見つめていた。


香りは、この階には届いてこない。

けれど、届かないことが異常であるとは、誰も指摘しなかった。


この部屋は、香りから外れていた。

そして、香りの届かぬ場所にだけ、“何か”が始まる予感が残っていた。


村の東側を流れる細い道を、リュシアとぷるるが並んで歩いていた。


太陽はまだ高かったが、光にはもう午後の気配が混ざりはじめている。

畑の間を抜けるこの道は、朝にはパンの香りが吹き上がり、

夕方にはそれが静かに土へ沈んでいく、そんな場所だ。


「……ねぇ、今日って、なんかおかしくない?」


リュシアがつぶやくと、ぷるるが小さく跳ねた。

液状の身体が道にぽとりと音を立てる。


「おかしくないよ」


「……いや、そこはさ、“なんで?”とか聞いてから否定しない?」


「“おかしくない”ってことが、おかしいって言いたいんでしょ?」


リュシアは足を止めて、ぷるるをじっと見た。

その目には、ほんの少しだけ焦りが滲んでいた。


「事件とか、何も起きてないのに……なんか、ざわざわしてんの。

空気が……こう、パンが焼かれる前の生地みたいに、膨らんでる感じ。分かる?」


ぷるるは答えなかった。


その代わり、少し先を歩いていた農夫が落としたパン袋から、粉が一筋こぼれ落ちた。

風がその白い筋を拾い、ふわりと舞い上げる。


リュシアとぷるるの目の前を、ゆるやかに漂いながら――粉は空へ消えていった。


「……何かが始まってるのかな」


リュシアの声は、誰にも届かないくらいの小ささだった。


すると、ぷるるがぽつりと返した。


「言わなくていい。でも、どうせ“始まる”んだろ」


「なにそれ……それが“予言”ってやつ?」


「ううん、違う」

ぷるるはぴょこっと跳ねながら進む。


「予言って、“始まる”って言っちゃうことでしょ。

でも、“言わないで始まる”やつの方が、本当のやつだよ」


「……それ、リディアに教わったの?」


「ううん。パンの香りに聞いた」


リュシアはあきれて笑い、頭を軽く振った。


道の先に、細い影が伸びていた。

夕方の光ではない。ただ、何かが“遠ざかっている”影だった。


何も起きていない。

だからこそ、それが妙に気になる。


日が少し傾きかけたころ、村の中心を囲む石造りの家々が、金の縁取りをまといはじめていた。


通りには人影がちらほら。

夕食前の買い物を終えた人々が帰路につき、子どもたちは一足先にパンくずのついた紙袋を抱えて駆けていく。

その時間帯は、いつもの香りが――

そう、あの、バゲットやブールのあたたかな香りが、村全体を包むはずだった。


けれどその日は、違った。


香ったのは、どこにもないパンの香りだった。


それは、村の窯で焼いたことのない“甘さ”だった。

焦げ色ではなく、香辛料と果実を焦がしたような、濃密な焼きの香り。

それでいて、生地の発酵具合はやや控えめで、表面は薄い皮のような食感を思わせる。


「……今日、この匂い……焼いてたっけ?」


誰かがぽつりとつぶやいた。

立ち止まり、空を見上げる。けれど煙突のどれも、湯気を上げてはいなかった。


「……さっき工房見たけど、リディアたち、もう作業終えてたよ」


「誰か……他に、焼いてる?」


「……どこで?」


ざわめきは生まれず、ただその“問い”だけが、地面を這っていく。


リディアはその通りの角で、ふと立ち止まっていた。

誰とも目を合わせず、誰にも見られていないと思っていた。


香りが、風に乗って届く。


リディアは鼻先に指を添え、そっと目を細める。

ひと息吸い込んで、香りを確かめる。


その眉が――ほんの、わずかに動いた。


だが、それだけだった。

彼女は何も言わず、何も尋ねず、何も決めず――

ただ、袋の口をしっかりと握り直して、再び歩き出した。


近くでそれを見ていたリュシアは、何も言わなかった。

けれど、彼女の目の奥にも微かな緊張が滲んでいた。


その背後で、通りの石畳に落ちた一枚の紙切れが、ふっと風に舞った。

それは、レシピの断片だった。

名前のないパンの、名前のない行程。


そしてその夕暮れに、誰も知らぬ香りだけが、静かに村を満たしていった。

今回も、最後までお読みいただきありがとうございます。

パンも、空気も、時間さえも歪みそうな、なにげない一日でした。

でもその“歪み”の中に、何かが少しずつ動いていたのかもしれません。

次回は、音のない高鳴り――世界全体が静かに変わる、その瞬間をお届けします。

焼きたての“あの匂い”が、きっとまたどこかで……。

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