失われた神々の午後
本日もこの場所に足を運んでいただき、ありがとうございます。
喧騒が去ったあとに残るのは、静寂でしょうか。あるいは――匂いでしょうか。
今回の物語は、午後の空白と、名前を失った存在たちのささやかな“残り香”にまつわるものです。
なにげない仕草の中に、ふと感じる余韻を、ぜひご一緒に味わってください。
パンを焼き終えた窯の音が、遠くに薄れていた。
午後の村は、静かすぎるほどに静かだった。
リュシアは工房の裏手――焼き場と粉の棚のあいだにある木陰のスペースで、腰掛けていた。
木の椅子ではない。空になった粉袋を三つ重ねて作った、ふかふかした仮の玉座。
彼女はそこに背を預けて、長いため息をひとつ。
「……ねぇ、ぷるる。今、何時?」
「しらん」
ぷるるは石畳に広がっていた。完全に流体化して、まるで影のように。
「だよねぇ……昼かと思ったら、もう夕方みたいだし……でも空の色は昼っぽいし……。
あれ、わたしって昼寝したっけ……?」
自問がそのまま空気に溶けていく。
リュシアは腕まくりしたままの袖をばさばさと振って、乾いたパン粉を払う。
その粉が光に舞って、すぐ足元の土に吸い込まれる。
「……パン粉って、時間に似てるな」
自分で言って自分で笑う。
「気がついたらくっついてて、払ったら跡形もなくなる」
ぷるるは小さくふるふると震えただけで、反応しない。
それが“同意”とも“興味がない”ともとれないところが、彼らしい。
工房の窓から、リディアの横顔が見えた。
粉を量っている。正確な動きで、ほんの少しの誤差も出さずに。
けれど、まったく急いでいない。
そう、この午後には“急ぐ”という概念が存在していなかった。
リュシアは空を見上げる。
高い、柔らかい青。雲はなく、空気に熱が残っていた。
音も、刺激も、命令も、なにもない。
「……これが、“それだけの午後”ってやつか」
ぽつりと呟いたその言葉は、どこにも届かず、地面に吸い込まれる。
焼き終わったパンの香りが、まだ土の表皮にしがみついていた。
それは、焼け跡ではなく――“誰かがここにいた”という証のようだった。
そして、誰もいないのに、リュシアはふと感じた。
ここに“何か”が、通り過ぎようとしている、と。
リュシアが腰を上げたのは、誰かの視線のような気配が背に触れたからだった。
「……ん?」
パン粉をはたいた袖を巻き直しながら、歩く。
午後の陽が石畳に斜めの影を落とし、微かに焼けた空気が道端に残っていた。
人気のない集落の外れ――昔、道具屋だった木造の廃屋の縁側に、誰かが座っている。
男だった。
年齢は……分からない。
痩せているようでもあり、がっしりとしても見える。
ぼんやりと前を向いて、ただじっと座っていた。まるで、ここが生まれた場所であるかのように。
「……あれ。誰?」
リュシアがぽつりと口にしたが、声は届いていなかったようだ。
男は目を伏せたまま、動かない。
リュシアは近づいて、ほんの数歩先で立ち止まった。
「……ねぇ、誰?」
やや強めに問いかけると、男はわずかに顔を上げた。
濁っていない瞳。けれど、どこも見ていない視線。
「……ああ。すみません」
「何が?」
「呼ばれたのが……久しぶりで」
「名前、ある?」
男は静かに笑った。
「昔はありました。いくつも」
「いくつも?」
「“神使”のときは符号の羅列、“啓導者”のときは異界名、“守人”のときは神文。
でも……どれも、誰かに与えられたものでした」
リュシアは眉をしかめた。
その言葉の意味を、ほんとうには理解できなかったが、
男の笑みがどこか“軽く”なったように見えたから、それを否定しようとは思わなかった。
「今は、なんて呼ばれてるの?」
「誰も、私を呼びません」
「……それって、寂しくないの?」
男は目を細めて、首を振った。
「いえ、それが……いいんです」
「私は今、誰にも使われていない。
誰の定義にも属していない。
“誰かの神”じゃない、ただの“私”でいられる。
それが、こんなに気持ちのいいことだとは……思いませんでした」
風が通る。
縁側の木が、きしむ。
リュシアは男のそばに腰を下ろさなかった。
ただ、少しだけ目線を落としながら言った。
「……あんた、たぶん、いい顔になってる」
男は少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに目を伏せた。
そして何も言わず、微かに頷く。
それきり、ふたりのあいだに言葉はなかった。
けれど、その午後に何かが“終わった”ということだけは、確かだった。
風が、村の広場を抜けていった。
子供が蹴り飛ばした木の実が、ころころと転がる。
追いかける声が跳ねると、その空間のすき間からふわりと――何かが、香った。
パンだ。
焼きたてではない。
むしろ、ほんのり温かさの残る……冷めかけのパンの香り。
それも、村の工房では使っていない種類の酵母に似ていた。
「……あれ、リディア、また焼いてる?」
集会所の隅にいた青年が、顔を上げて鼻をひくつかせた。
「え? 今は休憩時間じゃないの?」
「だよな……。でも、これ……」
別の誰かも、同じように風の行方を目で追う。
空は晴れていて、煙もない。工房の煙突からも湯気は立っていない。
「……昨日の香りが、残ってただけじゃない?」
「いや、違う。昨日のはバゲットだった。これは……もっと甘い。
あれだ、あの、子供の頃によく嗅いだ……いや、でも……」
会話がかすれる。
記憶と感覚の隙間を埋められず、言葉がつかえていく。
風はもう一度吹いた。今度は少し強く。
草がなびき、木の葉がわずかにざわつく。
そしてまた、香った――
どこにもないはずの、誰が焼いたとも知らぬ、パンの香り。
子供が空を見上げた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……空にも、お腹ってあるのかな」
誰も笑わなかった。
むしろその一言が、この香りの説明として“もっとも妥当”に思えた。
誰でもない誰かが、どこかで何かを焼いた。
それだけのことが、風に乗ってやってきた。
リディアは工房の窓辺で、その風を鼻先で受ける。
微笑まなかった。ただ、目を閉じて一息――吸い込んだ。
そして、窓を閉めた。
静かに。あくまで、“いまは”気にしない、というふうに。
集会所の裏庭に、簡素な長机がひとつ据えられていた。
村人たちがそれを囲むようにして、ぽつりぽつりと腰を下ろしている。
木の皿に、焼き残しのパンと少しのチーズ。
昼をとうに過ぎた時間なのに、それが“晩餐”のような空気を持っていた。
誰もが黙って食べていた。
賑やかな食卓ではなかった。
むしろ、言葉が邪魔になるような、そんな静かな食事。
パンの香りがまだ空に漂っていた。
風はやや落ち着いて、残り香だけがゆっくりと机の上を撫でていた。
「……思ってたのよ、ずっと」
声を出したのは、年配の女性だった。
腰が少し曲がっていて、銀色の髪を後ろにねじって布でくるんでいる。
「神様って、もっとすごい建物の中にいると思ってたのよ。
天に届く塔とか、光る神殿とかね。
“世界の果て”って、そういうもんだと思ってたの」
誰も返さない。
けれど、誰も止めもしなかった。
「……でも、違ったわね」
女はパンをちぎって、何度か噛んでから、ぽつりと続ける。
「世界の果てって、“誰かの夕食”だったのよ。
……それが、ちょっと焼きすぎてたとしてもね」
机の端にいた青年が、目を伏せて笑った。
誰もが、その言葉を“奇跡”のようには受け取らなかった。
それでも、そこに何か真実が含まれていたことは、皆が感じていた。
そのとき、通りの方から足音。
リディアが、手提げかごを片手に歩いてくる。
誰にも挨拶せず、会話にも加わらず、ただ通り過ぎる。
だが、通りざまにふと、言った。
「今日は風が……少し小麦に似てましたわね」
それだけ。
言い残して、彼女はまた歩き去る。
机に残った誰かが呟いた。
「……ねぇ、あれって誰に向けて言ったんだろ」
「誰でもないんじゃない?」
「……でも、届いてた気はするよな」
その一言に、誰も返さず。
ただ夕焼けの色だけが、机の端のチーズを赤く染めていた。
日が、ゆっくりと傾いていた。
空の色が朱に染まるにはまだ早く、けれど青ではいられない。
境界線のない午後が、そのまま夕方へと溶けていく。
村の建物が地面に長く細い影を伸ばし、道端に干された布がひらひらと風に揺れている。
リュシアは工房の屋根の上にいた。
そこからは、村全体の午後が見渡せた。
屋根瓦のひとつに、まだ微かにパンの香りが残っている気がする。
錯覚かもしれないし、実際に誰かが残したものかもしれない。
どちらでもよかった。
下では、村人が小さな声で話しているのが聞こえる。
「……明日も、あれと同じ味になるかな」
「いや、今日のはちょっと良すぎた。むしろ再現しない方がいいかも」
笑いではなく、声だけで交わされる会話。
そこに“事件”や“祈り”はない。ただ、味についての話だった。
ぷるるが、リュシアの隣に這い上がってきた。
粘性の体が瓦にぺたりと貼りついて、ぐにゅっと音を立てている。
「ねぇ、ぷるる」
「んー」
「神様って、香りより弱かったのかな」
「うん」
間をおかずに、答えが返る。
「……あっさり言うね」
リュシアが笑いながら瓦に寝転がると、ぷるるも横に広がった。
「たぶん、香りは神より強いよ」
「……なんで?」
「だって、焼けた後も、残ってるじゃん。
神様は、名前がなくなったら……いなくなるだけだし」
風が吹いた。
リュシアの袖に残ったパン粉が、一枚、ふわりと宙に舞い上がる。
誰も、それに気づかない。
けれどその粉は、まるで一羽の羽虫のように、午後の空に消えていった。
屋根の上。
ふたりの影は、静かに伸びていく。
言葉のない時間が、確かにここに“続いている”。
午後は、まだ終わっていない。
きっと、このまま、もうしばらく――。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
名前を持たず、声を持たず、それでも“ここにいる”という感覚。
この午後に、どこか懐かしいものを感じていただけたなら嬉しく思います。
次回は、“出発する前”にだけ感じられる、言葉にならないざわめきを描いてまいります。
また、あの香りの漂う場所でお会いしましょう。




