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神なき世界の朝

ようこそ、再びこの世界へお越しくださいました。

静けさは、いつも変化の始まりを内包しています。

神も、奇跡も、祝福の言葉すらも消えた朝。

それでも湯気は昇り、パンは焼かれるのです。

この回では、“なにも起きない”ことの中にある、確かな違和を感じていただけたら幸いです。

夜が、終わっていた。

それに誰も気づかぬほど、朝は自然に満ちていた。


ひとつ、鳥の声が空を切った。

寝かされた屋根の上で、羽ばたきの音がして、しばらくして風が微かに舞い込む。

灰色がかった空の端、森と空の境界線が、すこしずつ青みを帯び始めていた。


リディアが住む旧工房の裏手――地面の湿気がじわじわと立ちのぼり、かすかな靄のように村を包む。

石畳の隙間から生えた草が露に濡れ、朝日を一粒ずつ受けて、光の粒を抱いていた。


どこかで、小さな水音。井戸から釣瓶を引く音。

誰かが薪を運ぶときの、ぎしりと鳴る荷車の軋み。

乾いた布がはためく音。そして――


こねる音。

ぶつ、ぶつと、掌で打ちつけるようなリズム。

小麦粉の膜が手に吸いつき、また放される、その粘着質な音が、工房の中から繰り返される。

生地の呼吸。酵母の眠りを呼び覚ます音。


パン窯が、ごぅ、と低くうなる。

鉄と石と火の匂いが、静かな朝を下から支えていた。


神々はいなかった。

もう、誰もこの世界に神の名を刻む者はいなかった。

けれど、音があった。

誰かの気配。焼かれるパン。水を運ぶ足音。


それはまるで、誰にも気づかれぬままに、

世界が静かに“活動を続けている”証そのものだった。


村はまだ眠っていたが、音だけは確かにそこにあった。

神の祝詞ではない。

奇跡の鐘ではない。

ただの、生活の音――。


それが今、確かに世界の骨組みを支えていた。


「今日は、バゲットですわよ」


工房の扉が開き、焼きたての熱を一気に含んだ空気がふわりと外へ流れ出る。

リディアはごく自然にそう言って、トングをくるりとひと回し、焼きあがった生地を台へと運んだ。

彼女の動作には一切の緊張も、決意も、芝居じみた儀礼もなかった。

ただ“いつも通り”、それだけだった。


朝露に濡れた靴を履いた少年が一人、窓際に顔を出す。


「なぁリディア姉ちゃん、昨日は丸パンだったのに、今日は棒のやつ?」


「“バゲット”と申しますの。断面に気泡ができるのが特徴ですわ。

……でも、食べ方は変わりません。ちぎって、熱いうちに召し上がれ」


そう言いながら、リディアは焼き網の上に順々にバゲットを並べる。

香ばしさの中に、ほのかに甘さを含んだ香りが、工房の屋根を越えて村へと漂っていく。


少年の背後から、別の子供が現れる。

背中に木の剣を背負った、小さな騎士のような風貌の子だ。


「リディア! おれの分、端っこがいい!」

「硬いところがお好きとは、将来有望ですわね」


リディアがくすりと笑って切り分けると、二人はまるで祝福でも受けたかのようにぴょんと跳ねる。


窯の近くで、ぷるるがのそのそと這い出てくる。

ふにふにと波打つ身体から、かすかに湯気のような気配を立てながら、炉の隅にくっつくようにして震えていた。


「……神様、いなくなったんだよね?」


唐突に、少年の一人が呟いた。


誰に向けたわけでもない、ただ空に向けた問いだった。


「だったらさ――なんで朝って、来るの?」


リディアは一瞬、手を止めた。

けれどすぐに、振り向くことなく答えた。


「それでも、生地は膨らみますの。

火があって、小麦と酵母があって――時間があれば」


それだけで十分、という言い方だった。


けれど、それより早く。


「焼いたからだろ」

炉の脇で、ぷるるがぼそりと答えた。


一瞬、空気が止まる。


リディアは、ふっと扇の骨を鳴らした。

「……全くもって、その通りですわね」


子供たちが笑う。

ぷるるは何も言わず、ふるふると小さく震えた。

それは言葉ではなかったが、どこか誇らしげにも見えた。


パンの香りが、さらに村の奥へと流れていく。


パンの香りが、さらに風に乗って広がる。

空気はすでに、焼きたての熱と甘い焦げの匂いで満たされていた。

まるで、村そのものが“湯気立つ朝食”になったかのようだった。


石畳の道に一歩、また一歩と人が出てくる。

小屋の扉が音を立てて開き、窓のカーテンが風に揺れる。


「……お前、ルネだったよな?」


「え……あ、ああ。お前は……ルカ?」


「そうそう、ルカだ! なんだよ、おれの顔忘れてたのかよ!」


「お互い様だって……もう、ずいぶん話してなかったもんな……」


そんなやりとりが、あちらでも、こちらでも起きていた。


名前が、呼ばれている。


思い出したというより、“香りで蘇った”ようなそれは、誰かの声とともに、かすかな記憶を揺り起こしていた。

まるで、この香りが、それぞれの“自分の輪郭”を取り戻すスイッチになっているかのように。


「あたし、ラフィって名前……だったの、たぶん」

「ラフィ。うん、そうだった。おれ、ずっと“あの人”って呼んでたけど……」

「なんか、すごい変ね。思い出すの、パンの匂いと一緒なのよ」


「それ、たぶん……この香りのせいよ」

リュシアがパンを割りながら、誰に言うでもなく言った。

「“名前”も“記憶”も、“定義”されてたのよ。神に」

「でも今は……呼びたきゃ呼べる。呼びたくなきゃ、黙っていられる」

「――自由って、そういう匂いじゃない?」


その言葉を聞いたリディアは、一切反応を返さなかった。

ただ、パンを一切れだけ子供の手の上に置いてやる。

子供はその手を見て、ぽつりとつぶやいた。


「ぼくの名前……なんだっけ」


「食べたら、思い出しますわよ」

リディアは言う。声に抑揚はなかったが、根拠のない自信はあった。


少年はバゲットをかじる。

パリッという音の直後に、熱と香りが顔を覆い――一瞬、目を細めた。


「……アロ」

ぽつり、とその名がこぼれる。

誰に教えられたでもなく、そうとしか思えなかったように。


リディアは頷く。

それはまるで「焼き具合、ちょうどよかった」という確認にも似ていた。


神の名は消えた。

でも、呼ばれるべき“あなた”の名は、ここにまだあった。



香りが、空を揺らしていた。

それは神託ではない。ただの、朝の匂いだった。


工房の裏手、風向きが変わった。


ふとした間に、村の空気がひと息、深く吸い込まれたように沈黙する。

焼けた小麦の香りに紛れて、焦げのような、鉄を擦るような匂いが鼻先をかすめた。


ぷるるが、窯の脇でぴたりと動きを止める。

リディアも同じように、手を止めた。


空を見上げる。

曇りがかった白の広がりのなか、一部だけが“逆光”に見えた。


それは錯覚のようでもあり、しかし明らかに、太陽の向きとは関係のない光の濃淡だった。

ほんの一瞬、世界の彩度が落ちたかのように、色の境界がぼやけていた。


ごぅ……という低い風の音。

焦げた紙が遠くで燃えたような、乾いた音も混じっていた。


リディアはトングを持ったまま、静かに動かず、目だけを遠くへ向ける。


「……」


一秒、二秒――彼女は何かを見つけていた。

それが“何か”までは、言葉にされなかった。

紫の瞳が、空ではなく地平線のわずかなうねりを見つめていた。


けれど、彼女は何も言わなかった。

ただ静かに、パンをもう一度掴み直し、台に戻す。

まるで、見なかったことにするかのように。

あるいは、“今じゃない”と判断したかのように。


窯の音が、ふたたび落ち着いた呼吸を取り戻す。

風の軋みも、しばらくすると消えていった。


工房の入り口で、それを見ていた老人が、ふとつぶやく。


「……また、何か始まるのかな」


その声に、誰も返事をしなかった。


けれど、誰もがほんの少しだけ、無意識に空を見上げていた。


リディアは何も言わず、扇を閉じる音だけを響かせた。

その音は、すぐにバゲットの“パリッ”という割れる音にかき消される。


焦げた風はもうなかった。

ただ、焼かれた香りが地面に残っていた。


パチン。


扇の骨がひとつ音を立てたのと同時に、窯の中からカリ……と表皮が鳴いた。

リディアはごく自然な手つきで鉄の扉に手をかけ、ふたたび焼成室を開く。


ふわり、と香りが世界にあふれた。


湯気をまとった焦げた皮。

きつね色の斜め切り。

香ばしさとともに、甘やかな麦の残り香が空気の流れに乗って、屋根を越え、村へ流れていく。


「焼きたてですわ。お行儀よく召し上がってね」


リディアは淡々と告げながら、焼き網から一本のバゲットを持ち上げる。

熱を通して、手袋ごしにも柔らかい反発が伝わってくる。


パンの受け取りを待っていた少年が、はにかんだように手を差し出した。


「ぼく、ちゃんと手洗ったよ」


「それは素晴らしいことですわ。安心して、罪なくいただけますの」


冗談とも皮肉ともつかぬ口調に、子供が一瞬ぽかんとする。

でもすぐに笑いながら、両手でパンを受け取った。


「ちぎろう! まんなかからだぞ!」

「おれ、さきっぽー!」


小さな手と手が、パンに伸びる。

勢いよく引き裂かれた断面から、ふわりと白い湯気が立ちのぼる。

空へ、空へ、湯気は細くしなやかに昇っていった。


「おおお……すっごく、あったかい」

「……うまそ……」

「なぁ、こういうの、神様いないと無理って思ってたけど……別に、いたころと変わんねーじゃん」


リュシアが頬杖をついて、それを聞いていた。


「……変わんないんじゃなくて、気づかなかっただけなんだよ、たぶん」


ぷるるが炉の下で、ぴょん、と跳ねる。


「神様がいようがいまいが、朝は来るし、パンは焼ける」

「焼く奴が、ちゃんと起きてればな」


リディアは新しい生地をこね始めながら、振り返らずに言った。


「奇跡とは、火加減と時間と手の感覚ですわよ。パンは、神の御業ではなく、私の焼成によるもの」


「リディア、それ言い方ー!」


「事実ですもの」


また、子供たちが笑う。

村人たちが、笑う。


名を呼び合い、湯気を分け合いながら、朝を食べている。


そして、風が吹いた。

焦げた皮の香りを乗せて、遠くへ、まだ目覚めぬどこかへ。



神は去った。

だが、朝は来る。

焼かれたものが、ここにある限り──

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

華やかさも、魔導も、断罪すらないこの朝に、もし何かが残ったとしたら――

それはたぶん、“日常が息を吹き返す音”だったのかもしれません。

次回は、より柔らかく、より曖昧で、けれど確かな“余韻”のような時間をご案内いたします。

どうぞ、またお立ち寄りくださいませ。

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