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パンの名を持つ者たち

静かに進行する構造のゆがみのなかで、言葉を持たぬ者たちがどう生きるか――それを描いた一話となります。誰の名も呼ばれないまま、それでも日常は、今日も香るのです。今回もお付き合いくださり、本当にありがとうございます。

「このパンを食べてるときだけ、俺、自分の名前を思い出せるんだ」


少年の声は、小さく、しかし工房の中央に確かに響いた。煤けた頬のその子は、焼き立てのパンを手のひらで包むようにして抱え、ふう、と短く息をかけてから、ちぎるようにして口へ運ぶ。咀嚼する音がわずかに響く間、周囲にいた大人たちは誰ひとり言葉を挟まなかった。


「名前って、毎日言われるもんだと思ってたけど……最近は、あの人のパンの匂いをかぐまで、思い出せなかった」


その言葉を受けて、彼の隣にいた老いた男が、震える手で自らの帽子を取った。


「……わしもじゃ。気がつけば、家の裏手の段差に腰かけて、この匂いを探しておった。そうすれば、昔ここで育ててた犬の名前が浮かんできたんじゃ。ずっと、思い出せなんだのに……」


リディアは工房の奥、炉の前に立っていた。ふと手を止め、二人を見やった。


「まあ。それは、香ばしいお名前だったのではなくて?」


彼女の軽口に、いくらかの笑いが洩れた。けれどその場にいた誰もが、その笑いの奥にわずかに滲む感情を感じ取っていた。


神官のひとりが、村の中心に敷かれた石板に膝をついた。彼は教会から派遣された知識者であり、十数種の神語を使いこなし、式典や儀式で言葉の力を操ることを誇っていたはずだった。


「これは……祝詞ではない。だが……祝詞よりも……」


彼の目が、炎を見つめるように揺れた。


「……伝わってくる。意味が、言葉の前に、香りとして届いてくる……」


リディアは炉の火加減を確認しつつ、そっと唇の端を持ち上げる。


「ふふ。言葉で飾るより、焦げ目のつき具合のほうが、よっぽど伝わることもありますわよ」


それはもはや冗談ではなく、この場にいる誰もが、そこに揺るがない事実を見た。


炉から立ち上るパンの香りが、ゆっくりと、村の空間を満たしていく。名前を忘れた者、記憶を失った者、家族の形を見失った者が、その香りのなかで、ほんの少しだけ“自分”を思い出していく。


パンを焼く音が、言葉を超えて空気を揺らす。


工房の壁際に寄りかかっていたシェイドは、それを無言で見つめていた。


彼の瞳には、ただ焼かれる小麦の香りのなかで、言語以上の“構造”が成り立ち始めていることが、明確に映っていた。


工房の炉心が、一瞬だけ異音を響かせた。機械的なものではない。風でもない。けれどそこにいた全員が、何かが“切り替わった”ことを直感的に悟った。


ふわり、と。


それは、焚き火の煙とも、朝の湿気とも違う。だが確かに、空気の密度が変わる瞬間だった。


リディアが何も言わず、小さなパンの生地に粉を振った。ほんの数秒後、その動作だけで、部屋の隅にいた神界使節のひとりが肩を震わせた。


「……おかしい……。接続が……言葉が……」


男は聖典を開いて、神語のひと節を呟いた。しかしその言葉は、空間に染み込まず、音のまま地に落ちた。反響がない。意味が、拒まれている。


「まるで……祝詞が、“届かない”……?」


使節の声は震えていた。もう一度、神の名を唱える。しかし、何も起きなかった。


「言葉が……遮断されている。違う、違う……上書きされている……?」


彼の隣にいた神界側の記録官が震えた手で聖刻板を取り出すが、それすら文字化けのように歪んだ記号を示すだけだった。


炉の中で、パン生地が小さく膨らみ始める。


ぷしゅっ。


ごくごく小さな、泡が弾ける音。生地が生きている音。


「それ、焼き立てですわよ」


リディアの声が落ち着いて響く。使節たちの混乱などどこ吹く風、という表情だった。


「お困りでしたら、こちらの香りでもどうぞ。文字より、伝わりやすいかもしれませんわ」


彼女はカゴの中から、少し焦げ目のついた小さなパンを取り出し、差し出すように掲げた。


誰も手を伸ばさなかった。ただ、その場にいた者すべてが、パンの香りを深く吸い込んだ。


その瞬間。


言葉が止んだ。記号が消えた。音が消えた。世界の構文が、沈黙した。


シェイドが低くつぶやいた。


「言語遮断フィールド、発動。香気パターンによる認識上書きが……完了しました。これは……記憶言語でも、神語でもない。“香り”による直接的意味伝達です」


ぷるるが壁の上でひっくり返りながら、ふんすと鼻を鳴らした。


「だろー? 言っただろー? パンの匂いって、最強なんだよ」


その調子の抜けた声が、逆に空間の緊張を一段、ほどいた。


だが、世界は確かに、香りによって意味を持ち始めていた。


沈黙こそが、言葉となる。


焼かれたパンの香りが、すべての言葉より先に、意味を語っていた。


リディアは工房の奥に歩を進めた。炉の脇、分厚い金属の蓋を静かに開ける。そこには、小さな布に丁寧に包まれたひとつのパンがあった。とても小さく、焦げ目が微妙にまだらで、形もいびつ。それでも、彼女にとっては唯一無二のものだった。


「これが……私の最初の、パンですのよ」


誰に向けたでもない言葉。それは懐かしいだけの回想ではなく、世界に対する提示だった。リディアはその小さなパンを持ち上げると、炉心へと近づいた。炉は無音で待っていた。まるで呼吸すらやめ、彼女の動作だけを待ち続けているかのように。


「パンは定義ではありませんわ。記号でも、役割でもない。ただ焼き上がって、香りが残るだけのものですわ」


彼女はそう言いながら、慎重にパンを炉心へ納めた。その瞬間、炉の内壁に淡い文様が浮かび上がった。環のように、花のように、あるいは言葉にならぬ何かの象徴として。


炉の奥で、ふっと風が通ったような音がした。誰も火をつけていないのに、炉心の底からやわらかな光が立ち上がる。香りが放たれる。その香りは、“誰かが初めて焼いたパン”の記憶とでも言うべきものだった。どこかで、誰かが、初めて作った、不器用な朝の温もり。


「これは……」


神界の使節の一人が、膝をついた。言葉を喉に詰まらせたまま、ただ肩を震わせていた。香りが意味を超えていた。否、香りが、“意味”そのものになっていた。


「定義拒絶炉、完成」


シェイドの報告が静かに響く。「構造の再定義を阻む基準点、確定しました。香気記憶、登録完了。クロウレイン、再構成不能領域に到達」


「それ、つまりは……焼かれた香りが、世界の書き換えを止めたってこと?」


ぷるるが頭をかしげた。シェイドは静かに肯定の姿勢を取る。


「はい。意味ではなく、感覚によって世界が保たれました」


炉の光が徐々におさまり、香りだけが空間に残る。世界の中枢であるはずの炉が、今や最も“日常的な香り”で満ちていた。誰かの記憶に刺さる、家庭の香り。祝福のない朝の、それでも確かな安らぎ。


そして、その香りを感じた瞬間。


フィリアが、震えていた。


「……知ってる、これ。昔……ほんの一瞬だけ……私も、この香り、知ってたのに……」


小さな声だった。震える唇から、涙のようにこぼれた。


「どうして……覚えてなかったんだろう……」


フィリアの目の前に、空中に漂う一冊の“書”があった。紙でもなく金属でもない、概念の束のようなその書物は、ノグ=アティンの知性の核――“定義の集積”だった。言葉が刻まれていたわけではない。触れれば「意味」が流れ込む。それこそが、この異神の武器だった。


「それは、言葉を焼くための書ですの?」


リディアの声がゆっくりと差し込んだ。


フィリアは振り返らない。だが、彼女の肩越しにリディアは歩いてくる。パンを焼いたあとの香りをまとって。


「この書は……すべての“定義されすぎた存在”を正す……本来あるべき姿へと戻すの……」


「いいえ。戻すのではなく、“焼き直す”んでしょう。焦げ目をつけて、新しい香りに塗り替える。違いますか?」


リディアの声はやわらかく、けれど決して揺らがない。炉心の光に照らされた書が、わずかに揺れた。その表層に、黒いしみのような斑点が浮かびはじめる。焦げ。焼き目。香りが浸透している。


「なに……?」


フィリアが書に手を伸ばす。しかしその手が届くより早く、書はふっと揺れ、輪郭を失い始める。定義が崩壊していく。そこにあった“意味の束”が、香りによって上書きされていくのだ。


「パンの香りが……書を、食ってる……?」


神界の誰かがつぶやいた。


「その書は、選ばれたものの定義を刻む書でした。でも……選ばれない者が焼いたパンの香りには、抗えなかったみたいですわね」


リディアは一歩、また一歩と近づく。誰も止められなかった。


「焼くという行為は、定義よりも深いもの。“なかったはずの記憶”を、香りで蘇らせる。あなたたちが消そうとした世界の痕跡が、香ばしさになってここにいるんですのよ」


書が裂けるような音を立てた。


フィリアの目が、何かを見た。


「わたし……この香り……昔……母の手……」


一瞬、少女だった頃のフィリアの記憶が書の中から漏れ出した。だがそれは、彼女が否定してきたすべて。選ばれなかった自分、愛されることを信じなかった自分、そのすべてを押し殺して“否定者”となった彼女の深層。


書は静かに崩れはじめた。


意味の欠片が文字になりかけ、香りに飲まれ、ただの微粒子となって炉心へと還っていく。


リディアは最後までなにもしなかった。ただ、そばにいて、焦げた香りが立ちのぼるのを受け止めていた。


「意味の焼けた本なんて、読まれないでしょう? でも……香りは、いつまでも残りますわよ」


空は静かだった。書が消えたあとの空間は、どこまでも透明で、どこまでも冷たい。それでも、パンの香りだけが、そこに残っていた。


フィリアは膝をつき、うつむいたまま微動だにしない。


その隣を、リディアはゆっくりと通りすぎていった。両手には、焼きたてのバスケットがひとつ。湯気はもう上がっていない。だが、その香りはなおも空気を満たしていた。


「意味って……焼けるんですね」


そうつぶやいたのは、神界の特使だった。


「焼けるどころか、焦げついて……残るのですわ。だから厄介で、だから素敵なのです」


リディアは、工房の中心に立ち止まった。そこにはもう“書”はなく、異神の気配も微かに揺れているだけだった。


ノグ=アティンの声が響く。


「君は……定義に失敗した……。我が理解できぬ存在。だが……それでも……意味を持ってしまった……」


かつてはすべてを“再定義”するために存在していた声が、今はただの囁きだった。確信でも命令でもない。そこには、確かに“敗北”の色があった。


「意味を持ったのではありませんのよ。私は、意味があってもなくても、焼きたかった。それだけ」


工房の扉が、静かに開く。外には、村人たちがいた。皆、無言でリディアを見つめていた。


ぷるるが笑いながら前に出てきた。


「温かいうちに食べないと、世界が冷めちゃうからね」


リディアはバスケットを開き、ひとつひとつパンを手渡していった。


「今日は、少し焦げてしまいましたの。でも、気持ちはこめてありますわ」


村人の手に渡るたび、その香りが、ほんのすこしだけ空気を柔らかくしていく。


神も、異神も、もういなかった。定義も、契約も、意味すらここにはなかった。


あるのは――パンの香りと、誰かの記憶と、それを焼いた者の手だけだった。


「パンが焼けましたわ。皆さま、温かいうちにどうぞ」


空中王都は静かに地表へと降下していった。風は優しく、空は晴れていた。

名もなく、声もなく、けれど確かに残る“なにか”を信じていただけたなら幸いです。この一話が、読んでくださったあなたにとって少しでもあたたかい余韻となりますように。いつも支えてくださるあなたに、心から感謝を込めて。

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