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辺境に響くパンの香りと世界のざわめき

今回もお読みくださりありがとうございます。


辺境の片隅で、ただパンを焼いただけ。

けれど、その香りは風に乗り、誰かの記憶を揺さぶり、世界のどこかへ届いていきます。


これは、誰の目にも留まらなかった場所が、ゆっくりと“地図に戻っていく”物語。

今話では、その最初の余波をお楽しみいただければと思います。

風が変わった。森の木々がざわめき、空気の流れが微かに渦を巻く。それは単なる風の向きではなく──香りの通り道だった。


辺境の廃村に設置された、古代の魔導炉。再起動したそれは、熱と風を利用し、周囲へと熱波を放出していた。その熱に乗って──焼きたてのパンの香りが、森の隅々まで広がっていく。


「……あ?」

森を彷徨う旅人が、鼻をひくつかせて立ち止まった。革鎧に野営の荷を背負った、見るからに傭兵風の男だ。「まさか……焼きたての……パン?」

彼は足元の地面をじっと見下ろす。野獣の通り道のような痕跡。その先から、確かに“焼きたて”の芳香が漂っていた。「こんな辺境に……ありえねえだろ……」

そう言いながらも、彼の足はすでに香りの先へ向かっていた。


一方、獣人の少女は木陰から顔を出し、鼻をくんくんと動かしていた。猫の耳がぴこぴこと揺れ、尻尾がふるふると膨らむ。「んん〜〜〜!? ……焼きたて! しかもバター混じり!」

目を輝かせた少女は、樹上から音もなく跳ねて地面へと着地。そのまま二足歩行のまま、すごい勢いで草をかき分けて走っていく。


そして魔物までもが。森の奥に潜む亜獣種、魔力に敏感な“影跳び”が、パンの香りに反応し、ふらふらと誘導されるように廃村の方向へと移動していく。

不気味な動きだが、それは“引き寄せ”というより“眠っていた記憶の反応”に近い。魔導炉の香りは単なる料理の匂いではなく、魔素に干渉する“波形”を帯びていた。


その中心にいるリディアは、相変わらず淡々としていた。炉の前に腰を下ろし、皿の上に三つのパンを並べている。「……発酵、ちょうどよく進みましたわね。ふっくらしていて、香りも豊か。合格ですわ」

顔を近づけて香りを吸い込み、ひとつちぎって口に運ぶ。「……ふふ。これなら、辺境で“生きていける”気がしますわね」


その背後──村の入口近くに、木の枝をかき分ける音がかすかに響いた。けれど、彼女はまったく気づいていない。ただ、“パンの焼き加減”しか見ていない。


焼きあがったパンの香りが、炉の通風口から再びふわりと舞い上がった。その香気は、すでにただの料理の域を超えている。魔導炉の熱風流とルーン回路が絡み合い、香りが“魔素情報”として拡散されていた。


それに最も反応を示したのは、例のスライムだった。


「……ぷるっ」


普段はのんびりとした動きしかしなかった彼(?)が、今はぴょん、ぴょん、と小気味よく跳ね回っている。まるで小動物のような動き。炉の熱風に合わせてその身体がぴかりと光った。


リディアは一口パンをかじりながら、それを横目で見ていた。


「興奮状態? いえ、活性化……ですわね。香りを媒体に、魔素を取り込んで……」


そう呟きながら、彼女は立ち上がり、炉の裏側にある小さな制御窓を開いた。内部でサブルーン──補助運転回路が自動的に起動していた。


「……なるほど。香りの拡散を感知して、自動で送風範囲を広げたようですわね。自己拡張型とは、随分と……融通の利く設計ですこと」


その瞬間、村の上空に薄い“光の帯”が浮かび上がった。空気中の微粒子が魔素に反応して発光し、ゆらゆらと揺れながら地表へと降りていく。まるで、土地全体がゆっくりと“目を覚ました”ような光景だった。


スライムがそれを察知したのか、炉の前からくるりと跳ねて村の外れへ向かう。とことこ、とまるで誰かを出迎えに行くかのような動き。


「……あら。まるで“案内役”みたいですわね」


リディアはパンをひとちぎり、炉の上に残してから、スライムの後ろ姿に扇を向けた。


「迷子は玄関で出迎えるのが礼儀ですわよ。お行きなさい」


それに応じるように、スライムは“ぷるん”と跳ねた。


まるで言葉を理解したかのように、真っすぐ村の外れ──香りに誘われて歩いてくる者たちのもとへ向かっていく。




「全域に再反応波……? 馬鹿な、古代魔導炉の同期信号なんて……!」


王都・中央魔導研究塔。その地下観測室に、怒号と足音が飛び交っていた。

十重二十重に設置された観測魔具が、一斉に狂ったように振動していた。


「測定誤差じゃないのか!?」「計器はすべて正常値だ! 本当に“起動した”としか──!」


壁に埋め込まれた立体魔導図が、辺境の地を赤く染めて脈動している。

その中心に“F-Z73(旧フェルディア東遺跡群)”という文字が点滅していた。


「再起動、確定。フェルディア式炉心の反応波、旧規格ながら完全一致」


「それ、禁書級の記録だろ……あの炉って、もう二百年も……」


研究員たちの背筋が一斉に凍りつく。

知識ある者ほど、その意味が分かっていた。



一方、研究塔に隣接する王都軍参謀本部では、報告書を叩きつけるように読み上げる若い士官の声が響いていた。


「……辺境で魔導炉と思しき反応が観測されました。地脈異常、魔素分布の再構築、観測対象は未確認ですが……人為的な起動の可能性が高いと」


将軍たちは重苦しい沈黙の中で顔を見合わせる。

第一反応は「ありえん」という無言の拒絶だったが──数秒後には全員が黙って頷いていた。


「……対応は?」


「現地調査部隊を編成中ですが、王族筋への報告が先に必要です」


「……宰相派と王子派、どちらに伝える?」


「……両方、ですな。避けられん」



そして、王城の中。


エリオット=アールヴァイン王太子は、机に積まれた書状を睨みつけていた。


「辺境で……再起動? なぜ……“あの地”で……?」


文面には“婚約破棄後に追放したクロウレイン令嬢が、該当地域に送致済み”との記述もあった。

その文字を見た瞬間、エリオットの顔が引きつる。


「まさか……いや、まさか……リディア、お前が……?」


手元の書類を握る手が、不自然なほどに強く震えていた。


リディアの名が、王都に、軍に、そして“脅威”としての記録に刻まれようとしていた。


「うん……いい具合に冷めましたわね」


リディアはパンを手に取り、焼き色と表面の艶を確認していた。指で軽く叩けば、コツンと澄んだ音。下部の焼き焦げも均一で、美しい。


「これなら、あと五分寝かせても美味しいと思いますけれど……待てませんわね」


そう言って、ひと口。

目を細め、噛み締める。

香ばしい皮、もっちりとした中身、鼻に抜ける微かな蜂蜜の香り──


そのときだった。


玄関の外から、微かな足音と土を踏む気配が聞こえた。

ひとつ、ではない。二つ、三つ──否、それ以上。


リディアはパンを持ったまま、そっと立ち上がり、扇を片手に窓辺へと移動する。

カーテンを指先で少しだけめくり、外を覗いた。


森の方角から、旅人風の男がひとり、荷物を担いでこちらへと歩いている。

その後ろには、猫耳の獣人少女。さらにその後ろには、ひと目で傭兵と分かる粗野な男──

そして、そのさらに後方に、まだ影があった。


「……これは、どういう風の吹き回しですの」


思わず零れたその声に、玄関口から「ぷるっ!」と音がした。

スライムだった。扉の前で上下に跳ねながら、訪問者に向かって“出迎え”の動作を繰り返している。


まるで、「ここが目的地です」とでも言いたげに。


「……あなた、使い魔の自覚があるのかしら」


扇で口元を隠しながら、リディアは息を吐いた。

そしてもう一度、外の空気の変化に耳を澄ます。


草を踏む音、遠くで鳥が飛び立つ羽ばたき、獣の唸り声……

すべてが、香りに引き寄せられた結果だ。


リディアはパンをひとちぎりし、炉の上に残してから静かに言った。


「──余計なことになりましたわね」


まるで、焦げたパンを見つけた程度の口ぶりで。


塔の上に、光が灯った。


それは辺境の廃村──もう地図にも記されていない場所に残されていた古代の制御塔。

その頂上に設けられた“魔導信号炉”が、来訪者の接近を検知して自動的に起動したのだった。


塔の胴体に埋め込まれたルーンが順に点灯し、魔素による情報波が空へと打ち上げられる。

発せられたのは、古代式の魔導発信コード──しかも、すでに廃棄されたはずの王国前代の標準規格。


その波は、地脈を伝って広がり、雲を貫いて遠方へ届く。



まず最初に感知したのは、隣国の神殿。

祈祷師の少女が、儀式中に急に額を押さえ、よろめいた。


「……いま、何かが……こちらを見たような──いえ、呼ばれたような……?」


祭司は目を細め、魔導炉の指標石に目をやる。

長く沈黙していたその石が、微かに脈動していた。



さらに、魔導塔連合の観測衛にその信号が引っかかる。

当初は「廃信号」として自動破棄されるはずだったが、解析が間に合わず、緊急アラートが作動した。


「……解析不明。発信源:旧フェルディア式制御炉」


「旧!? そんなもの、動くはずが……!」


驚愕と混乱。

だが、否定するには、反応が明確すぎた。



王都・神殿。


聖女ユリナは再び微熱を感じ、無意識に自分の胸元を押さえる。


「やだ……なに、これ……また、あの女の……」


彼女の中で、“誰かの存在”がまた微かに波立ち始めていた。



そして──神々の座の一角。


静かに時を数える存在が、ほんのわずかに目を細めた。


「……再び動き始めたか。あの子が、無意識に」


神の声は、驚きではなく、どこか──愛しむような響きだった。


「ならば……もうすぐ、世界は気づくだろう」



辺境の村。

リディアはパンを焼きながら、扇で涼を取っていた。


外から訪れる気配が増えていることは、うっすら感じていた。

けれど彼女にとっては、まだ些細な“空気のざわつき”でしかない。


次に焼くのは、全粒粉の黒パンか、それともハーブ入りのバゲットか。

その思案のほうが、よほど重大だった。


──世界はまだ、“あの令嬢”の再登場を知らない。

ご覧いただきありがとうございました。


音もなく、しかし確かに広がる波紋のように。

パンの香りとともに、辺境の村が静かに息を吹き返していきます。


そして世界は、まだ気づいていません。

名もなき村の片隅で、失われたはずの力が、目を覚まそうとしていることに。


次回からは第2章へ。

“日常”と“非日常”が混ざり合いながら、少しずつ物語の輪郭が見え始めます。

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