拒絶された未来、選ばれなかった道
いつか選ばれるはずだった道、あるいは誰にも選ばれなかった可能性。その狭間で、語られることのなかった思いが、静かに浮かび上がります。本話では、日常と秩序のはざまに芽吹いた“ある香り”を、どうか感じ取っていただけたら幸いです。
心より感謝を込めて。
前回、リディアが「香りで繋ぐ」ことの意味を静かに語り終えたとき、炉心の奥で機械音が低く唸りを上げた。振動が床を這い、工房全体の空気が数度、呼吸のように脈打った。
「……開くぞ。第六層、臨時開放措置を開始する」
シェイドの言葉と同時に、炉心正面に設置された巨大な観測壁がひときわ鋭く光を放った。幾何学的な紋章が走り、封印文字が一つずつほどけていく。それはまるで、沈黙の神殿が目を覚ますかのようだった。
リディアはその場に立ち尽くしていた。背筋を伸ばし、何も言わず、ただその光を受けていた。機械的な起動音の中、炉心の奥から、ひとつ、またひとつ──声のようなものが浮かび上がった。
「ここは“選ばれなかった記憶”の保管領域です」
シェイドは静かに告げる。
炉心の内部には、記録の残滓が浮遊していた。輪郭を持たない人影。未完成の言葉。書かれかけて消された名簿。すべてが「未決定」と「拒絶」の名のもとに集められたものだった。
その中心に、一つだけ鮮明な記録が浮かんでいた。紫の衣を纏った少年。名を呼ばれることのなかった少女。光の王冠を拒絶し、火の海を背に立ち去る影。かつて継承者となるはずだったが、そうならなかった者たち──否定された未来がそこにあった。
「未来は、選ばれるものではない」
リディアがぽつりと口にした。
その声に、記録の光が一瞬だけ揺れた。だが、応える者はいない。
「……私たちが“未来を書き換えない”ために、クロウレインは設計された。
定義に抗わないことが、我々の最大の選択だったのです」
シェイドの声は、どこか遠くを見ていた。
炉心の気温がわずかに下がる。空気は澄み、静寂が深まった。
そしてそのとき、光の中からひとつの輪郭──誰かの目が、確かにリディアを見ていた。
光の幕が緩やかに広がっていく。そこは過去でも未来でもない、“継がれなかった記憶”の座標だった。
声がした。
「私は……選ばれたことが、一度もないんです」
映像の中に、少女が立っていた。年は十四、いや十三か。リディアにどこか似た顔立ち。だが、目が違う。濁りも濁りの反転もない、ただ「見ない」という意志があった。
「……これは記録です。応答はできません」
シェイドが言った。だが、リディアは首を振った。
「記録にも、焼きたての匂いは残りますわ」
少女は、透明なパンを焼いていた。生地は膨らまず、熱は加わらず、香りもなかった。すべてが“不完全”だった。けれど、手の動きは確かだった。
「誰も……私のパンを食べなかったの。
だから私は、焼くのをやめました。
そして……選ばれないままでいることにしたのです」
リディアはじっとその動きを見ていた。
何も言わない。何も問い返さない。ただ、見ていた。
「それでも……あなたは、焼き続けているのですね。
……すごいな。選ばれないままで」
ふいに、もうひとつ影が現れた。今度は少年だった。赤銅色の髪、整った口元。彼もまた、炉心の奥でパンを焼いていた。けれど、火が強すぎた。焼き上がる前に、黒く焦げる。
「失敗した者の記録が、これほど多いとは……」
シェイドが呟く。
リディアは前に出た。ゆっくり、炉心の境界に手を伸ばす。そして、その空白のパンに、小さな香辛料を一振り、振った。
「それでも、いい匂いになれば……少しは救われることもあるでしょう?」
影たちは返事をしなかったが、空気が少し、甘くなったような気がした。
リディアの指先から、香辛料の粒が宙に落ちていく。その軌道を描く光は、確かに過去の誰かが焼きたかった“祈りの香り”と同じものだった。
「匂いは、残りますのね……」
工房全体が静かに振動した。まるで、その言葉に反応するかのように。
炉心の床が一部開き、淡い蒸気のようなものが上がった。立ちのぼるそれは、どこか懐かしい、焦がしバターのような匂いだった。リディアはそっと目を閉じた。
「これは……」
ぷるるが鼻をひくつかせて言った。
「昔、ばあちゃんが作ってくれたパンの匂いと、同じだ」
周囲にいた村人たちも次々に反応する。
「うちの親父が帰ってくるときに焼いてくれた香りだ」
「私は……遠足の日に包んでもらった朝の匂いだわ」
炉心は、記録ではなく、記憶を再生していた。
パンという物質ではなく、パンという“体験”が、
魔導でも神力でもなく、“香り”として残っていたのだった。
「……これは、技術じゃない。祈りだ」
シェイドがぽつりと呟いた。
リディアは、うっすらと微笑んだ。
「記録された祈りは、必ずしも声である必要はありませんもの。香りは、いつだって……ひとの記憶の中で、正しく生きていますわ」
そう言って、彼女は再び、生地に手を伸ばす。
一つひとつの動作に、過去に焼かれた“名もなきパン”の想いを込めて。
焼くという行為が、今、かつての無数の“選ばれなかった人々”と、静かに繋がった。
「……なぜ、そんなものを大事にするの?」
その声は、工房の天井から滲むように降ってきた。
振り向くと、光の粒子の逆流とともに、フィリアの姿が現れる。空間を逆に滑るように、彼女はリディアの目の前に降りてきた。
リディアは、手を止めずに生地を練りながら、静かに言った。
「大事にしているのではありませんわ。残っていたのです。それだけのことです」
フィリアの目に、かすかな苛立ちが灯った。
「あなたは――なぜ、選ばれなかったことを悔やまないの?」
リディアは一度、手を止めた。
「選ばれたかったと思ったことが、一度もありませんでしたもの。私、誰かの上に立つより、焼きたての香りを手渡すほうが、ずっと幸福なんですの」
その瞬間、空気が少し軋んだ。
フィリアは一歩、踏み出す。彼女の足元に、黒い亀裂のような影が滲んでいく。
「それは、現実から逃げているだけよ。否定される痛みから、目を逸らしているのと同じ」
リディアは小さく首を横に振った。
「違いますわ。私は、否定されたからこそ、自分の場所を見つけられたんですのよ。選ばれることが、すべてじゃありません。誰かに“選ばれなかった”ことが、私を“選ばせて”くれたんですわ」
その言葉に、フィリアは返せなかった。
代わりに、周囲の空間が歪み始める。炉心の外壁に、無数の“否定の記録”が浮かび上がっていく。拒絶された発明、廃棄された論文、忘れ去られた詩、滅びた祈り――それらが、黒い軌跡となって天井へと昇っていく。
フィリアは、その光景を背にしながら、最後にひとことだけ呟いた。
「……自由って、痛いわよね。だから、私はそれを壊すの」
そうして彼女は、再び闇の向こうへと姿を消した。
リディアは、再び生地に手を戻しながら、小さく息を吐いた。
「ええ、本当に痛い。でも……焼けるんですのよ。痛くても、焦げても」
生地がふくらみ、あたたかな香りが再び工房の中心に満ち始めた。
工房の天井に残る“否定の記録”の残光が、ゆっくりと消えていく。暗い空間に、かすかに残るのは――パンの焼ける香りだった。
シェイドが炉心側から戻ってくる。袖に細かな煤をつけ、表情は複雑だった。
「フィリアの軌跡を辿ったが、座標が歪みすぎていて追えない。おそらく……異神との接続を通して、次元干渉を得ている」
「つまり……何もできなかった、ということですの?」
リディアの口調はいつもどおりだったが、その中に一抹の疲労が混じっていた。
シェイドは黙って頷き、続けた。
「だが、“第六層”に新たな兆候が現れた。君の焼いたこのパンに――記憶反応が出ている。しかも、“複数の記憶”だ」
リディアはパンを見つめた。まだほんの少しだけ、温かさが残っていた。
「……選ばれなかった人たちの、記憶?」
「そうだ。選ばれなかったことで否定された存在たちが、何を感じ、何を願ったか。その断片が、焼き上がる熱の中に浮かんでいた」
リディアは無言でパンを切り分け、そっと一つを手に取る。
「温かいですわね。……思っていたよりも」
扉の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。開いたのは、あの少女だった。以前、村の区画整理に戸惑っていたあの子だ。
「リディアさん……今日もパン、焼いてる?」
リディアは笑顔で応える。
「もちろんですわ。まだ、焦げてもいませんのよ」
少女は嬉しそうに頷き、言った。
「ここに来ると……昨日の夢を、少しだけ思い出せる気がするの。焼ける匂いが、ね」
その言葉に、シェイドはそっと目を伏せた。香りが記憶をつなぎ、否定された断片を、ほんの少しだけ肯定に変える。
それは決して派手な勝利でも、戦略的成功でもない。
だが、“焼き上がった香り”は、確かに誰かの心に残る――そんな小さな奇跡だった。
炉の奥から、小さな“キン”という音が響く。次のパンが、焼きあがった合図だ。
リディアは軽やかに腰を上げ、言った。
「さて、もうひとつ。次のパンは、少しだけ甘くしてみましょうかしら」
そしてその香りは、工房の外へ、空へ、世界へと広がっていった。
焼き上がる香りが、記憶や願いをつなぎ留めることがあるのなら――パンはただの食べ物ではないのかもしれませんね。否定と肯定の輪郭をなぞるような回でしたが、読んでくださったあなたに、小さくとも温かな何かが届いていたなら幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。




