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静寂の中の声

世界が静かになる瞬間。

それは、不穏な兆しの始まりか、安らぎの証か。

今回の物語では、「音の消失」と「語られぬ声」という相反する現象の中に、“理解できないもの”との出会いを描いていきます。


焼き立てのパンのように、一見ほのぼのとした日常が、どこか奇妙な異質さに包まれていく。その境界を踏み越えるきっかけが、どんなに小さな香りや想いでも、確かに存在するのです。

どうぞ、心の耳を澄ませてお楽しみください。

あの言葉が発された直後だった。

ふと、工房の天井が低くなったように感じた。いや、実際には変わっていない。だが、空気の密度が不自然に増し、耳の奥に“押し込まれるような圧”が走った。


「……ぷるる、何か聞こえるか?」


リディアが問いかけたのは、炉の傍にいた小さな影だった。しかし返事はなかった。いや――返ってきたのだ。だがそれは、音にならなかった。


リディアの唇がゆっくり開き、「ぷるる?」と呼んでいる。確かにそう見える。

だが――声がしない。


「……!」


リディアは一歩後ずさった。周囲を見渡す。工房の壁の鉄材が微かに振動している。

あらゆる“振動”が、音に変換されないのだ。そこにあるのに、伝わらない。伝導が遮断されたような、奇妙な現象。


炉心の奥、黒く口を開けた整備孔から、淡い蒼白の粒子が漏れ出していた。

それは光ではなく、かといって霧でもない。目には見えるのに、網膜が認識を拒む。

見るたびに違う形をしており、リディアは思わず目を細めた。


「……シェイド!」


ようやく声を出そうとしたリディアの喉が震える――だが、またしても音が生じない。

全てが“沈黙”に沈んでいた。


そのとき、上部の階段から降りてきたシェイドが、淡く輝く円盤状の装置を手にしていた。

白金色の髪がふわりと揺れ、彼の足音だけが――なぜか聞こえた。


彼は装置を炉心の手前に置き、スイッチを入れると、灰色の立体映像がふわりと浮かび上がった。


「音情報が……記憶単位に再編されています」


かろうじて聞こえるその声に、リディアは困惑の色を濃くした。


「記憶、単位……?」


「空間全体が“音”という概念を破棄し始めているのです。おそらく、ノグ=アティンの干渉です。存在を再定義する初期兆候のひとつ……」


シェイドの口調には、滅多に見せぬ緊張があった。

まるで、“声を奪われること”が、どれほど重大かを知っているかのようだった。


リディアは、自分の掌を見た。動かすたびに生まれる衣擦れの音も、全くない。

それでも――心のどこかで、不思議と怖さはなかった。


静かだった。あまりにも静かだった。


そして、静寂の奥で……何かがこちらを“見ている”という感覚だけが、確かにあった。


――そして、それは“声”として届いた。


“焼くという行為は、定義を剥ぎ、構造を軟化させる。

再構成の第一段階。お前は、その工程を繰り返している。理由もなく。意味もなく。

だがそれこそが、抵抗である。”


言語ではなかった。

思考の形をした、存在の波だった。

それは、リディアの脳に**“意味として直接焼き付けられた”**。


彼女は震えた。が、怖れではない。

“焼くという行為”を語られたことに、むしろ微かな――怒りすら、芽生えた。


(……何を知っているというのかしら? パンを? それとも……私を?)


「……パンは、定義じゃありませんのよ。朝の希望ですわ」


そう言葉にしたつもりだった。

音はない。だが、ノグ=アティンには伝わったらしい。

再び、思念の渦が返ってくる。


“希望。不要な揮発物質。排除対象。

焼くという熱量は、意味の抽出にすぎない。

お前は抽出器官。拒絶は非論理。”


「……生憎ですけどね」


リディアは炉心に一歩近づいた。

黒く不定形な粒子が、彼女の周囲を漂う。まるで“見られている”のではなく、“測定されている”ようだった。


「論理じゃありませんの。香りですのよ。……焼いたら、分かりますわ」


そのとき。シェイドの装置が、甲高い電子音を鳴らした。唯一、聞こえる音だった。


「干渉レベルが閾値を超えました。……リディア、あなたに向けられた“定義付け”が始まっています」


「定義付け……?」


「“あなたとは何か”を、外部の存在が書き換えようとしています。危険です。人格、概念、歴史すら改ざんされかねない」


リディアは目を細めた。

異神は“私を測って”、定義しようとしている。

でも――私が私である理由は、“パンを焼く”からであって、それ以上でも以下でもない。


「じゃあ、焼きますわね」


彼女はいつものように、炉の中に手を伸ばし、生地を取り出した。

シェイドが何か言いかけるが、もう“焼く”という行為は始まっていた。


沈黙の空間に、ただ“香り”だけが広がり始める。


それは、音も、言葉も、意味もなく。

ただ、“記憶”だけに残る、温かな世界の始まりだった。


そしてその瞬間。

工房の内部――炉心を囲む空間が“たわんだ”。


空気が歪み、光が折れ、リディアの影が一瞬――三つに分かれた。


「干渉波が実体変換領域に侵入……リディア、香りを維持してください。今は……それが“座標”です」


シェイドの声は掠れ、波打って聞こえる。

隣にいたはずのぷるるも、一瞬輪郭が滲み、言葉が聞き取れなくなる。


「っ……ぷるるさん?」


「――……ぎっ、ぱ……ぱんっ……」

ノイズのような声が、ぷるるの口から漏れた。だが、その瞳はいつもどおりで、心配そうにリディアを見ていた。


“言葉が通じなくなる。”


リディアの意識に、その恐ろしさがひやりと触れた。

語ることができない、ということは、自分が“存在しなくなる”前段階なのだ。


ノグ=アティンの囁きが再び迫る。


“形に意味はない。

語に本質はない。

お前が“焼いている”というその感覚さえ、再定義できる。”


リディアは答えない。

ただ、焼き続けた。

炉の中でパンは膨らみ、皮が張り、香りが少しずつ空間を支配していく。


やがて。

光と影の境界に、歪んだ“リディア”が立った。


いや、それはリディアではなかった。

同じ服、同じ髪型、同じ顔――なのに、表情がない。


シェイドが息を呑む。


「構造投影……これは、“リディアという概念”の試作定義体……!」


つまり、“リディア”が、外部から仮に定義されようとしているのだ。

異神はリディアを理解しようとしていない。

“利用可能な形”に押し込めようとしている。


「それが、わたくし……?」


リディアは静かに焼きあがったパンを取り出す。

形はややいびつだった。ほんの少し焦げている。


彼女はその焦げた部分をじっと見つめて言った。


「いえ、それは“焦げた模倣”ですわ。

この香りは、きっと……あなたには、永遠に理解できませんのよ」


言った瞬間、歪んだリディアの像が、ひとひらの紙のように風もないのに揺れ、崩れていった。


香りは残った。

空間が、少しだけ――元に戻ったように感じられた。


だがノグ=アティンはまだ、去ってはいない。


再び、無音。


ぷるるの輪郭が回復し、言葉が、意味を取り戻す。


「おい……今の、なんだったんだ……?」


声が戻った――しかし、彼の声には微妙な“違和感”があった。

言葉は正しいのに、イントネーションが微妙にずれている。

世界の音律が変化している。


工房の中心炉心が、金属の軋みのような音を立てる。

それは物理的な機械音ではなかった。


“音という意味そのものが、存在を記述し始めている”。


炉心に浮かぶ“定義の断片”――かつての王の名、リディアの生年月日、パンの焼き温度と時間、レシピ、香り、味――すべてが粒子となり、空間に浮かぶ。


「これは……」

シェイドが顔を青ざめさせ、手を宙に伸ばす。


「“リディアという存在”を、構造体が構文解析しようとしている……。

これが……異神の定義干渉だ……!」


ノグ=アティンの声が響いた。


“存在に名前は必要ない。

思考に意志は不要。

香りさえ、意味でしかない。”


リディアは首を振った。


「違いますわ」

声は震えていなかった。


彼女は炉から、新たに焼き上げた小さな丸パンを取り出し、掌で包み込む。


「香りは、定義じゃありません。

これは、記憶ですの」


ぷるるが息を呑んだ。


リディアはパンを割ると、その内側からふわりと湯気が立ち上り――


その瞬間、全ての干渉構文が崩壊した。


「う、うわっ!」


浮かんでいた“言葉の粒子”が霧のように消え、炉心が沈黙を取り戻す。


リディアが焼いたパン――それは、異神による定義を完全に“無効化”した。


彼女の行為は、意味に依存しない“実体”だった。


ノグ=アティンの囁きは、いよいよ歪み、掠れていく。


“……それは……構造では……ない……

理解……不能……香りは……概念では……ない……

焼く……とは……何か……?”


リディアは笑みすら浮かべずに言う。


「それをあなたが理解する必要はありませんわ。

だって、これは“わたくしの朝”ですもの」


完全なる沈黙。


世界は、リディアの“焼いたパンの香り”によって、再び“静かな朝”を取り戻した。


しかし――炉心の最奥には、まだ何かが“観察”していた。


しん、とした空間。


リディアはそっと丸パンを差し出した。


「……はい、ぷるる。ちょっと焦げてしまいましたけれど、召し上がります?」


ぷるるは黙って受け取り、かじる。


ぱりっ。


外は硬め、けれど中はやわらかく、香りは……いつもの朝だった。


「うん。……これがなきゃ、始まらねぇな」


静かに立ち上がったシェイドが、やや声を落として言った。


「……ノグ=アティンの干渉は、概念の再定義ではない。

“記憶の書き換え”だ」


リディアがそっと眉をひそめる。


「わたくしの記憶を、ですの?」


「いや。世界全体の。

“パンとは何か”

“朝とは何か”

“リディアとは誰か”

それを“別の構文”で書き直そうとしている。君を奪うためではない。“世界から削除するため”だ」


炉心が、どくり、と生き物のように脈打つ。


「わたくし、消えるんですの?」


リディアの声に、いつものような気取りはなかった。


だが――


「それでも、パンは焼きますわよ。

焦げようが、忘れられようが、香りは残ります。

誰かの中に。それがわたくしの記憶ですもの」


ぷるるが噛みしめたまま、小さくうなずいた。


「香りは……記録じゃなくて、記憶、か。うん。そりゃ……最強だな」


遠く、空に微かに歪んだ光。


ノグ=アティンは退いてなどいない。


これは、まだ始まりに過ぎなかった。

無音という現象は、ただの“音がない状態”ではなく、何かが“語られなくなった”という現象でもあります。

そしてそれは、世界が持つ“意味”の崩壊の始まりかもしれません。


今回描いたのは、そうした“始まり”のきざしです。

同時に、リディアが貫く日常の意志――「焼く」という行為の根源に少しだけ触れてみました。

それは武器ではなく、理論でもなく、誰かの中に残る“香り”という、あまりにささやかな形。


次回は、その“香り”ですら届かなくなる空間で、彼女たちがどのように揺れるかを描いていきます。

引き続き、どうぞお付き合いくださいませ。

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