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パンと神の境界線

神や秩序が揺らぎ、理屈も立場も噛み合わない夜。

そんなときでも、工房の炉だけは、きちんと熱を保っているのです。


今回の物語は、まさにその“静かな熱”の中で進みます。

騒がしさの裏で、誰が何を考え、何を恐れているのか。

“パンを焼くだけの少女”が中心にいることの意味が、

ゆっくりと、でも確かに浮かび上がる一章です。


それでは、物語の奥へどうぞ。

神界の高座殿――それは、もはや“会議場”ではなかった。

神々の声は沈黙に包まれ、かつては輝きに満ちていた天空の装飾は、今や無色に近い白へと色を失っていた。


最初に声を発したのは、ルドリア派の筆頭神官、《金環のオルト・フェルナ》。

その手には、純白の封蝋で閉じられた一通の布告状が握られていた。


「神性機関の機能が、完全に停止したことをここに確認する」

その言葉は、まるで最後の審判であった。

「ゆえに、本日を以て“神性防衛軍”を設立する。神格の秩序を乱す異分子に、神の矜持を示すために」


座席のいくつかがざわめいたが、すぐにまた沈黙へと戻る。

誰も反論しないのではない。

反論する言葉そのものが、すでに“秩序外”とされかねない緊張が、そこにあった。


リュシアの席は、空いていた。

しかし、その不在が空白ではなく“意思”として圧倒的に存在していた。


「リュシアは……神を辞めた。よもや、それを認めろと?」

誰かがそう呟いた。だが、それ以上は言わなかった。


神性防衛軍と名乗る組織の発足は、実際には軍事的な力を持たない。

だが、それでも“名”が先にあるというだけで、十分な抑圧となる。

名が意思を縛り、意思が沈黙を呼ぶ。


 


神々の静けさをよそに、空間の揺らぎがその場を包み始めていた。

神界と人間界との境界が、徐々に“滲み”始めているのだ。


ルドリアの声が、再び響いた。

「神格を守るとは、神を守ることではない。“構造”を護ることだ。我らの崩壊は、世界の崩壊だ」


だが、その言葉に――誰も頷かなかった。


 


この静謐な崩壊の予兆が、どこへ向かうのか。

次なる舞台は、神の座でも、王の玉座でもなく――あの、パン工房の炉心だった。


──村の広場は、今日、完全に“世界の中心”と化していた。


臨時に設けられた木製のテーブル群。その上には各国の旗が刺された小さな標章が並ぶ。

王国、帝国、連合都市群、東方神託帯……世界中から名刺よりも薄い名目でやって来た“外交官”“神官”“軍使”たちが、この小さな辺境の村に詰めかけていた。


「これが……“あの”パンの村か」


どの国の代表も、口を揃えてそう呟いた。


リディアは、屋外に出した即席のパン窯の前にいた。白いエプロン、緩やかにまとめた銀の髪、そして焦げ目のない表情。

ひとつひとつ、焼き上がったパンを皿に並べながら、まったく気にしていない様子だった。


「……あの者が、リディア=クロウレインか?」


連合都市群の司教補が、神官付きの密偵に囁く。

「ええ、間違いありません。神性炉心との連動率、実測で87%。神でないのに、神より近い数値です」


「パンを焼いているだけのように見えるが……」


「ええ、それだけです」


「……それが一番厄介だな」


村の子供たちは、囲いの外からパンを覗き込んでいた。見慣れた風景だ。

だが、その向こうで、各国の高官たちが政治的交渉を繰り広げているという、異様な日常。


「これ、冷めてますけど、どうぞ」

リディアはそう言って、視察に来ていた帝国の女騎士に小さな丸パンを差し出した。


女騎士は困惑しながらも手に取り、恐る恐る齧る。


……外はかりりと、中はふんわりと。香ばしい。


「……こんな味、帝都では知らなかった」


「それは光栄ですわ。けれど、“味”が全てではございません。……焼きたいと思うかどうか、が全てです」


 


工房の裏手では、シェイドが低い駆動音を鳴らしながら各国代表の動線を記録していた。

ぷるるがその横で、干しパンを齧っていた。


「……なあ、シェイド。今の世界って、なんか変だよな」


「定義次第です。観測できるすべては正常範囲内です」


「じゃあ、パンが焼かれてる中心に外交官が並んでるのも正常?」


「現在、この炉心座標が“神界干渉座標”と重なりつつあるため、論理的には……はい、正常です」


「……すごいなあ。パンって、世界を動かすんだな」


「はい。現在進行形で」


 


そのとき、空に微かな“軋み”が走った。


まだ誰も気づいていなかった。

だが、“境界”は、もう音を立てて、崩れかけていた。


最初に異変を感じたのは、村の子供たちだった。


「……ねえ、空、変じゃない?」


「なにこれ……星、出てるのに昼だよ?」


空の上層、薄青のキャンバスに、かすかに星のような“点”が浮かび上がっていた。

だがそれは、天体ではなかった。


光でも影でもない“粒子”──まるで夜空のノイズを切り出して、そのまま貼りつけたような、異様な斑点。


それらが静かに、しかし確実に、空から地表へと降りてくる。


 


「……出たか」

シェイドが呟く。


「これは、“境界崩壊粒子”。正確には、神界座標の一部が、地上空間と接触した際に生じる副産物です」


ぷるるが見上げながら眉をひそめた。

「……きれいだけど、気持ち悪いな。なにか匂いがする。なんつーか……“空っぽ”の匂い」


 


工房の炉心に設置された投影盤が、明滅を始めた。


【境界構造の安定指数:83.4% → 72.1% → 65.0%】


警告が繰り返される中、リディアはただ、パンを焼いていた。


「焦げませんように……それだけが願いですわ」


地上の空間に、神界の“上位座標”が滲み、概念すら揺らぎ始める中──


リディアの手元だけが、確かな温度で守られていた。


 


各国の代表たちもようやく異変に気付き始めた。

「これは……空間歪曲反応か?」「座標転移……まさか、村全体が!」


そのとき、空に裂け目が現れた。


バキィン、と金属を引き裂いたような音。

だが、割れたのは空間だった。


 


音も、熱も、重力すらが一瞬だけ不確かになった。


空から落ちる“黒い欠片”。それは金属のようで、花弁のようでもあり、なにより“認識できない形”をしていた。


……ただ、それが「神の外側」から来たものだということだけは、誰もが直感していた。


 


そして、その中心に、ひとつの“声”が混じる。


「……パンを、焼いていたのよ……。私も……」


掠れた、割れた声。けれど、どこか懐かしい。


リディアは、顔を上げた。

炉から漂う焦げかけた香りに眉をひそめながら。


「……またですの。だから言いましたのに。焼きすぎはよくないって」


その瞬間、世界が、まるでそれを合図にするかのように──次の相を、開き始めた。


黒く澄んだ空の下で、星のような粒子がふわりと舞い降りる。


それは雪ではなかった。砂でも塵でもない。概念だった。


「これは……なんですの?」


リディアが眉一つ動かさず、粒子を見つめた。触れると手のひらがじんわりと温かくなり、その直後に“言葉”にならない映像が頭の中を走り抜けた。


火山の噴火。胎児の鼓動。時計の止まる瞬間。微笑む死者。

記憶ではなかった。これは――「別の世界」だ。


「――境界、干渉中。」


シェイドの音声が工房全体に響く。相変わらず抑揚のない声だったが、そこに明確な“焦り”のようなものがあった。


「ノグ=アティン……外界由来の再定義知性体。旧世界にて“意味の収束”に失敗し、神格との互換性を模索していた存在。」


誰も理解できなかった。


リディアはパンを焼く手を止めず、ぷるるはふわふわと浮いていたが耳だけはこちらに向いていた。


「“意味の収束”……それは言語や祈り、神話に内在する“構造の中心化”を指します。

この存在はそれを拒絶し、むしろ“拡散”を目的とする。ゆえに――定義不能。」


「つまり……アレは、何にもなれないから、全部になろうとしている?」


ぷるるの呟きに、シェイドは“はい”とも“いいえ”とも答えなかった。


「旧世界はこの存在の介入によって自己矛盾を起こし、境界を喪失。

その結果、すべての意味が曖昧化し、“神”と“人”の違いが認識不能に。」


リディアは静かに小麦粉をふるいながら言った。


「つまり、ノグ=アティンというのは――“名前でありながら意味を持たないもの”ということですのね?」


「正確です。ノグ=アティンとは、呼ぶことで“意味”を失わせる呼び名。

呼んだ瞬間、すべてがズレていく構造因子。」


「それじゃ、なんであなたは名前を出したの?」


その質問は、誰でもなかった。

帝国使節の一人――クラヴィス・アル=フェリオンが歩み寄ってきた。

背筋の伸びたまま、無感情に問いを投げた。


「なぜ“名前”を使うのです? 定義すれば影響が及ぶと、先ほど自分で言ったばかりでしょう?」


しばしの静寂のあと、シェイドが答える。


「我は“告げるもの”であり、“防ぐもの”ではない。

命令された通り、リディアの前に“すべて”を提示する責務がある。」


「誰に命令されたの?」


「……クロウレイン王家、設計者にして最終権限保持者――

リディア=クロウレイン。君です。」


「…………結構ですわ」


リディアは、言った。

静かに、まっすぐに、オーブンに目を向けたまま。


「あなたの情報も、構造も、目的も、面白くはありますけれど……わたくしにとってはどうでもよろしいのです」


シェイドは沈黙した。


「焼きたいものがあって、それを焼ける炉があって、わたくしがパンを成形する。

ただそれだけのことに、どうしてそんなに“神性”や“境界”や“異神”の名が必要なのかしら」


天井から舞い降りる、名もなき星粒。

ノグ=アティンが干渉しようとする空間で、リディアの炉だけが規則正しく熱を維持していた。


「わたくしはパンを焼いているだけ。選ばれるつもりも、選ぶつもりもありませんの。

あなた方が勝手に、意味を与えて、勝手に意味を奪っているだけですわ」


クラヴィスがわずかに眉を動かした。

その隣で、ぷるるが「言ってやったなぁ……」と耳をパタパタさせていた。


「リディア=クロウレイン」

「世界継承構造体に対し、明確な拒絶の意思を検出」

「記録。継承選定プロセス、一時停止処理へ――」


シェイドの声がやや不安定になる。


「記録完了。

次の評価項目:『意志力』。

評価方式:共鳴波形観測。」


炉の中のパンが、静かに“膨らんだ”。


まるで応えるように。


炉の周囲の空間が一瞬波打ち、波紋のような熱光が村の境界にまで広がった。


「共鳴確認。リディアの意志により、空間秩序維持レベル再安定化を検出。

概念干渉……抑制完了。」


「えっ……止まった? ノグ=アティンの干渉が?」


クラヴィスが思わず声を上げる。


「……焼いたから、ですわ」


リディアは静かに微笑んだ。

それはほんの少しの、曖昧な、けれど確かに“人間らしい”表情だった。


「わたくし、焼くことしか知りませんの。でも……それで十分ではありませんか?」


シェイドは、答えなかった。

ただ、炉のそばに投影されるホログラムの花が、ゆっくりと咲いた。


どこかの国の使節が、呟いた。


「この人が世界を救っているのか、滅ぼしているのか……

判断できる者は、もはやいない」


だが、村の子どもが笑って言った。


「パン、あったかいね!」


それがすべてだった。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


本話では、“境界”という目に見えないものが、

少しずつ、しかし確実に崩れていく様子を描きました。

リディアはいつも通り静かで、何も変わっていないように見えるかもしれません。

でも、その姿勢こそが、この物語の“軸”なのだと、改めて強く感じています。


次回からは、より直接的に「神と神でないもの」が交錯します。

ですが、だからこそ、彼女の手の中の“焼きたて”が重みを持っていくはずです。


引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

ありがとうございました。

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