パンを焼いたら村が覚醒した
今回もお越しいただき、ありがとうございます。
追放された令嬢がたどり着いたのは、誰も住まない辺境の廃村。
けれど、彼女はそこで静かに“暮らし”を始めます。
パンを焼き、スライムに語りかけ、穏やかな時間が流れていく――そのはずでした。
しかし、何気ない行動の中に、思いもよらぬ力が眠っていたなら?
物語は、静かに加速を始めます。
「……随分と、お寝坊さんですのね」
リディアは黒曜石の台座に指先を這わせ、魔導炉の表面に付着した苔をそっと削ぎ落とした。
表皮にはびっしりと刻まれた細密なルーン。煤けて見えなかったそれが、ひとつひとつ蘇っていく。
地面に這いつくばるようにして動くスライムが、時折「ぷるっ」と音を立てて彼女の周囲を跳ねる。
瓦礫を押したり、塵を吸い込んだり、明らかに“補助”の役割を担っていた。
「手がかからない補助者って……こんなに素敵でしたのね」
ごく自然に、リディアは炉の周辺配線を点検していた。
通常の魔導炉であれば、動力線は外部の魔素を直接吸収し熱変換する構造だ。
だがこの炉は違った。基底部に存在するルーン配列は、明らかに“相転移制御”を前提にしていた。
「……可愛らしい構造ですこと。幼稚な改造跡すら見当たりませんわ」
褒めているのか呆れているのか分からない口調で、リディアは手早くコアユニットを調整する。
炉心は完全な死骸ではなかった。うまくいけば、簡易動力としては十分使える。
彼女は、荷物から取り出した金属板の焼き網を設置した。
次いで、携行保存していた干し麦粉と酵母、少量の蜂蜜──
指先でふわりと混ぜ合わせると、丸く成形した生地が三つ、掌の上に並んだ。
「“パン”というより、“蒸し玉”ですわね。でも、香りさえ立てば十分」
それを炉の内部、修復した焼成区画にそっと並べる。
スライムが「ぷるぷる」と目を細める(ように見えた)。
最後に、ルーン点火式の魔力導線をひとつ、炉心の側面へ──カチリ。
炉が、かすかに唸った。
音のような、風のような、低い“始動の気配”。
台座の下部に埋め込まれたクリスタルの小窓が、仄かに赤く灯る。
その瞬間、炉上の表示盤に一行の文字が浮かび上がった。
──【余熱完了】
リディアは、息をついた。
そして、ゆっくりと腰を下ろした。
「さあ、あとは焼き上がるのを待つだけ、ですわね」
ふつふつと、小さな音が炉の奥から立ち上り始めた。
それはパンが焼ける音──ではない。
もっと低く、深く、鉄と石が震えるような響き。
かつて“動いていた”機械が、眠りから目を覚ますときの、あの嫌に懐かしい金属のうなりだった。
「……あら?」
リディアが、ふと顔を上げる。
炉の台座に、見慣れない亀裂がゆっくりと走っていく。
いや、それは“破損”ではなかった。
光だった。
亀裂のように見えたそれは、台座の下からにじみ出る古代ルーンの発光。
赤、青、そして紫が絡まり合いながら、呼吸するように明滅していた。
「……感応式……?」
リディアの声が一段低くなる。
「そんな技術、理論上は存在したはず……けれど、“実在した”とは聞いていませんわね」
炉の心臓部──彼女が触れていた台座の中央──そこに、小さな石のくぼみがあった。
その内部で、微かに脈打つ“何か”がある。
彼女はそのくぼみに、そっと指先を差し込んだ。
カチ。
接触した瞬間、何かが反応した。
炉の外装全体がふるりと震え、
スライムが驚いたように「ぷるっ!」と飛び上がる。
その身体が光を帯び──いや、光を“吸っている”。
炉の表面に刻まれたルーンが一斉に輝きを放ち、回路のように走り始めた。
リディアは扇を取り出す暇もなく、じっとそれを見つめていた。
「動いてますわね……本気で」
その声は、驚きではなく、観察者のそれだった。
目の前で“歴史”が呼吸を再開しているというのに、彼女の視線は淡々としている。
かつて誰も再現できなかった古代魔導の中枢。
ただのパンを焼こうとして、令嬢はそれを無自覚に“再起動”させてしまったのだ。
最初に変化が起きたのは、空だった。
崩れた屋敷の上空に浮かぶ灰色の雲が、ほんのわずかに──
青く、きらめいた。
続いて、丘の中腹に残されていた石塔。
かつて“制御塔”と呼ばれていたその遺構の先端に、ぽつん、と光が灯った。
まるで火を点けられたロウソクのように、小さな一点の光。
しかし、それが合図だった。
塔の中腹に埋め込まれていた魔導灯が、ひとつ、またひとつと連鎖的に点灯する。
空気に浮かぶ粉塵が光を反射し、村全体に“息吹”が戻り始めた。
枯れた風見鶏が、キィィ、と音を立てて回り出す。
風ではない。これは“循環機構”だ。
地中の熱を動力に、村の全域に微細な魔力を流す古代のエネルギーシステム。
既に滅んだとされた技術が──音もなく、命を吹き返す。
そして──
制御塔の内部、腐食した音声拡張器が突然ノイズを帯びた声を発した。
「……起動シーケンス確認……フェルディア式魔導炉心、同期中……」
「──再起動確認。動力制御、第Ⅰ層接続完了」
村中に、その無機質な音声が反響する。
リディアは、パンの焼ける香りに満ちた炉の前で、その声を聞いていた。
片手に扇、片手にトング。
「……一応、警告は鳴らすものですわよ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
スライムがぴょんと跳ねて、炉の側に張りつくようにふるふる震えていた。
まるで“目覚めた主”を喜ぶ忠犬のように。
パンは、こんがりと香ばしく焼き上がりつつあった。
すべての現象の原因が“これ”であることを、本人だけが認識していない。
空気の揺らぎは、確かに──届いていた。
それはまず、風に敏感な者の肌に。
魔素に馴染んだ魂に。
あるいは、“神域”に片足を踏み込んだ者たちの直感に。
──世界のあちこちで、目が開いた。
ーーー
辺境を旅する老いた神官は、くずれた街道脇で火を囲んでいた。
静かに祈りを捧げていたその最中、炎がふっと揺れた。
「……風ではない。今のは、“震え”か」
天を仰ぎ、灰色の空のさらに向こうをじっと見据える。
しばらくの沈黙の後、ひとつだけ言った。
「起きたか。いや──“起こされた”か」
ーーー
フェルディア王国・王都。
中央魔導研究塔、地下第六層。かつて封印された“動かぬ遺物群”の並ぶ部屋。
そのひとつ、魔素制御球が突然、光を帯びて回転を始める。
技師が悲鳴を上げて駆け寄る。
「な……なんだ!? エネルギー供給してないはずだろ、あれ!」
数値が狂い、警報が鳴る。
動かぬはずのものが、眠ったままの機構が、全域で“感応”を始めていた。
ーーー
王都・神殿。
祈祷室にて、聖女ユリナが神前で座していた。
彼女の額──正確には、隠された金色の神紋──が、かすかに熱を帯びた。
「……なに? あったかい……」
ユリナは驚いたように指先を額に当てる。
その直後、ふいに誰かの姿が脳裏をよぎった。
──銀髪の、無表情な女。
その名を、口に出す前に打ち消す。
「そんな……まさか……」
ーーー
そして──神界。
星と理を司る柱廊、その奥に眠る一柱の存在が、長い眠りから目を開ける。
女とも男ともつかぬ声で、そっと呟いた。
「起きたか……“あれ”が。封じたはずのものが、なぜ、今……?」
神の視線が、下界の一点──
地図にも残らぬ辺境の、名もない村を見つめていた。
ーーー
パンの香りが、確かに“完成”の合図を告げていた。
炉の小窓に黄金色の表面が見える。
ふんわりと膨らみ、外は軽くパリッと焼けているようだった。
リディアは火かきを手に、炉の開口部を慎重に開いた。
熱気が顔を撫で、スライムが「ぷるっ!」と飛び退く。
中から取り出されたのは、三つの小さなパン。
丸く、艶やかで、焼きむらもなく、美しかった。
彼女はパンを並べて冷ましながら、ふっと目を細める。
「……この程度の発熱制御で、ここまで焼けるなんて。
ほんとうに、古代の技術って素直で可愛らしいですわね」
誰に向けたでもない言葉だった。
スライムは香りに引き寄せられて、炉の縁をぺたぺた這っている。
その動きに、リディアは小さく笑った。
「食べたいのかしら? でもあなた、どこに口が──いえ、考えるだけ無駄ですわね」
小さなパンを一つ取り、ちぎって口に運ぶ。
──ほくりとした食感。甘味もほんのり。香ばしさも、申し分ない。
「……ええ、うまく焼けましたわ」
彼女がそう呟いた瞬間──
村の中央塔が、ひとつ、低く唸るような音を鳴らした。
鐘の音にも似た、地下から響く“何かの起動音”。
リディアはそちらを一瞥し、またパンに目を戻す。
そして、言った。
「これが“無能”の成果に見えます?」
──再起動完了。フェルディア式魔導炉、起動しました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
パンを焼いただけ。
けれど、その行為が何かを目覚めさせ、何かが再び動き出しました。
誰も見向きもしなかった村で、誰もが理解できなかった力が、形を取り始めています。
それが“奇跡”なのか、“計算された再起動”なのか――それを判断するのは、きっとまだ先のこと。
次回、彼女のもとに風が吹き、さざ波のように変化が押し寄せます。
どうぞ、引き続きお楽しみくださいませ。