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裁定なき神々

いつもご覧いただき、誠にありがとうございます。

今回の話では、「神であること」「人として在ること」という、物語全体を貫く問いが、静かに立ち上がり始めます。

リディアの変わらぬ日常が、思わぬ形で神々の領域に触れ始めるこの一幕。

けれど彼女自身は、きっとまだ、それがどれほど“特別なこと”なのかを知りません。

あなたと共に、その揺らぎを見つめていただければ幸いです。

透明な大理石が敷き詰められた神界の議定殿。その中心には、座したまま光を放つ秩序神ルドリアの姿があった。すべての言葉が静かに沈み、天井に揺れる水鏡のような光のうねりだけが、会議の緊張を映していた。


「女神リュシアは――神性を、自ら棄てたのです」


重く、刺すような声が殿内に響いた。神々の席に座す者たちが、一斉にざわつく。天候を司る神、死を見守る神、言葉を紡ぐ神、それぞれの気配が一拍遅れて動揺を伝える。


「自らを人間と称し、神域を離脱し、下界に降り立った。このような背信が、神として看過されてよいはずがない」


ルドリアは端正な顔を一切揺らさず、ただ声だけで会議の空気を支配していた。言葉そのものが天上の律であるかのように、周囲の空間がかすかに波打つ。


「神罰裁定会の発足を、ここに提議します。彼女を神籍より除外し、異端として審理すべきです」


その言葉に、空気が冷え込んだ。


「異議あり――」


反対側の席、やわらかな銀光に包まれた女神エルメリアが立ち上がる。その声は穏やかだが、深く深く沈んだ泉のような力を持っていた。


「リュシアは、選びました。神であり続けることではなく、人と共にあることを。私は、それを尊重すべき意思だと考えます」


「尊重? 神の本分を放棄した者を?」ルドリアはかすかに目を細めた。


「信仰とは選択です、ルドリア。彼女が選ばれたのではなく、自ら選んだのです。あの地――地上にいる少女リディア。彼女は奇跡を起こすわけではない。けれど、あの娘を信じる民がいます」


光と影の交錯が、天上のドームを駆け巡る。反論を恐れぬ者、口を閉ざす者、静観する者。


そのときだった。殿の高天井がかすかに鳴った。――ピシィ、と。


亀裂だ。音すらないその亀裂は、空に咲いた細い白線となり、誰もが息を呑んだ。


神界の構造が、揺れ始めている。


「リュシアの選択は、神界そのものを危うくしている」


ルドリアは静かに言った。

「ゆえに、裁定が必要です。さもなくば――秩序は崩れる」


光の柱が会議場を貫き、次の審判の始まりを告げていた。


ぐぐぐ……という低い唸り声のような音が、工房の地下炉心から響いていた。

パンを成形していたリディアはその音に手を止め、片眉をわずかに上げた。


「またですの……?」


炉心の魔導盤が、焼成温度よりも高く反応している。だがパンは焦げない。それどころか、表面はちょうどよい光沢を帯びていた。ふわりと膨らんだ生地からは、ほのかに蜂蜜のような香りが漂っている。


「焼成時間、二分二十秒……本来ならこの高さでは無理なはずですわ」


リディアが呟くと、脇に浮かぶシェイドのホログラムが淡く瞬いた。


「神界座標と炉心の同期が進行中です。現象学的に申しますと、炉心の“概念熱”が物理的焼成に影響を与えています」


「神界がオーブンになったってことですの?」


「……否定できません」


その返答に、リディアは小さく息を吐いた。


「まったく、神界でも焼きすぎは困りものですわ」


天井の魔導結晶が、わずかに紫に染まっていた。これは“概念密度の変調”の兆しだ。炉心が神界座標の影響を受けている証拠でもある。


工房の外では、村の子どもたちが遊んでいたはずだ。だがその笑い声すら、どこか歪んで聞こえる。音速が少しだけ、違う。空気の密度が、違う。


「おい、リディア」


階段のほうから、ぷるるが顔を出した。


「なんか、外の空気、むず痒くないか? それにパンが……いつもより、でかいぞ」


リディアはため息をついた。


「膨らんだだけでなく、言語化も困難なふわふわ感が出ていますの。これはもう、物理というより詩ですわね」


「……神界パンか」


「ええ、非常に哲学的ですわ」


炉心がまた低く鳴った。天井の紫が、一瞬だけ黒に染まり、すぐに戻る。


「シェイド。工房は、神界との干渉に耐えられますの?」


「結論から言えば、クロウレイン炉心は“概念変換”に強い設計です。現在の干渉は想定範囲内ですが、これ以上進むと座標が固定化され、“神域指定”を受ける可能性が――」


「パンが冷めますわ。報告は簡潔に」


「……了承」


リディアはパンを取り出した。湯気の立つそれは、確かに神々しいほど美しい膨らみだった。


「まるで……世界の重力を忘れてしまったかのよう」


リディアがぽつりと呟いたとき、天井がもう一度、微かに鳴った。


上で、何かが起きている。神々の会議の声が、炉心の熱に染み出していた。


「本当に膨らみすぎて割れてるんだよな……」

ぷるるがぽそりと呟いたのは、昼下がりの工房。村の有志や、クロウレイン工房の技術班たちがパンを囲んでいた。炉から取り出された一群のロールパンは、明らかに“焼きすぎ”ではない。だが、常識を超えていた。


「……空気含有率34%。通常の倍以上だ。しかも、比重が逆転してる。浮かぶかと思ったぞ、これ」

計測担当の青年が眉をひそめて言う。


リディアはテーブルの端で、静かにナイフを入れた。刃は吸い込まれるように入り、断面からは湯気と共に光粒子のようなものが漂い出る。


「ふわふわですわ」


彼女の声に、誰も返さなかった。誰もが、この“ふわふわ”をどう定義するかに迷っていた。


「なあ、つまりこれは……神のパンってことでいいのか?」

ぷるるが誰にともなく投げかけた言葉に、場が微かにざわつく。


「いや、逆じゃないか」

工房主任が低い声で返す。「これは“神の力が必要なくなったパン”だ。温度も、時間も、素材も、意味を超えてる」


その言葉に、誰かが震える声で言った。


「信仰って……要るのか?」


一同が息を呑む。村の者たち、そして工房員たちすらも、その問いを“冗談”として処理できない空気だった。


「言ったはずですわ」


リディアがパンを一切れ、皿に載せた。湯気が立ち上るその向こうで、彼女の声は落ち着いていた。


「私は、信仰を壊したくて焼いているのではありません。ただ、焼きたいから焼いているだけですの」


誰も、何も返せなかった。いや、返せなかったのではない。ただ、パンの香りがあまりに圧倒的で、何も言葉が出てこなかったのだ。


炉の奥で、また小さく唸りが響いた。


天井の結晶が紫から、微かに銀に変わった。


リディアが目を細める。


「……神界の温度が、また変わりましたわね。次のパンは、もう少しだけ低温で試しましょうか」


「パンの話で、神界を測るなよ……」

ぷるるの呟きは、小さなため息と共にパン屑の中へと消えていった。


「裁定、否決……だと?」

秩序神ルドリアの声が、神界の議定殿に重く響いた。

「それが、今の神界の総意です」

静かに答えたのは、リュシアの名を継ぐ共存派の若神、セレイナだった。

「“パンを焼くだけ”の人間を、なぜそこまで恐れる?」

「恐れているのではない」ルドリアが睨みつける。「見ているのだ。我々が見てきたすべての歴史をな」


その視線の先には、地上の座標記録映像。

工房のパン窯が発した光が、神界座標と重なり、空間の一部が“概念”として不安定になっている。物理と因果の継ぎ目が、パンの蒸気に吸われていくのだ。


「これが、パンの焼ける空間か」

神の一柱がぼそりと漏らした。


「何もかもが、柔らかく、ほどけるように、意志から解放されている……」

「それをこそ、神は拒絶すべきだ!」

ルドリアが天槍を床に叩きつけた。光が波紋となって広がる。


一方、地上――工房。


「炉の出力、また変動してます」

「神界との接続が断続的に……いや、これは一時的な“共鳴抜け”だ。危険ではない」

工房員たちが忙しなく動くなか、リディアは炉口を見つめていた。


「この温度。焼き上がるのは、もうすぐですわね」


「リディア様」

いつの間にか隣に立っていたのは、神界から降りたばかりのリュシアだった。


「あなたは、何も求めていないのですか? 神にも、世界にも、正しさにも」


リディアは、パン窯の中からふわりと香る匂いを吸い込み、目を細めた。

「ええ。私は、ただ焼くだけですわ。善も悪も、裁定も、世界も、その外で……美味しいパンは必要とされますもの」


リュシアが小さく笑った。

「なら、私は……そのパンを選びましょう。裁定の代わりに」


窯の中から“ふくらむ音”が響いた。


パンの焼ける音。それは、神々の会議よりも、明確で、誰にも否定できない答えだった。



ーーー



神界の議定殿では、光の柱が消えていく。

「棄権六。賛否拮抗。裁定不成立」

使徒のひとりが結果を告げると、空間が静まりかえった。


ルドリアの目が細くなる。

「――ならば、我は我が信じる秩序を貫く」

光の衣を翻し、彼は議定殿から姿を消した。


議定殿の上空には、わずかに“割れ目”のようなものが生じていた。

向こう側には、神でも見たことのない構造の空と、ぼやけた香りの粒子が漂っていた。


そのころ地上、工房の中。


「パン、焼けましたわ」

炉から取り出したリディアの声が響いた。

皿の上には、きつね色のふっくらしたロールが3つ。香ばしさが部屋に満ちる。


「発酵時間は……想定の7割でしたね。座標干渉の影響かしら」


リュシアがそのパンをじっと見つめたあと、少し笑う。

「裁定は、要らないのかもしれません。温度と香りが答えだとしたら」


ぷるるが机に顔をのせながら言う。

「神会議よりパンのほうが分かりやすいな」


リディアはただ小さく頷いた。

「理屈も、理由も、世界の争いも……焼きたての前では、脇役に過ぎませんわ」


パンから湯気が立ち上る。その湯気は、神々が揺らぎ、議決を出せなかった空へと、そっと漂っていった。

ここまでお読みくださり、心より感謝申し上げます。

神々の会話が交わされる裏側で、焼きあがるパンひとつが世界の重さを量っているような回となりました。

本作では「静けさの中にある緊張」と「優しさの中に潜む不安定さ」を何より大切にしています。

どんなに世界が揺らいでも、変わらぬ笑みでパンを焼く人がいる──そんな物語を、これからも描き続けていけたらと思います。

また次話でお会いしましょう。

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