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世界は誰を望むのか

ようこそ、今回もお読みくださり本当にありがとうございます。

この第三十五話は、第七章の締めくくりとなる静かな節目のお話です。


「誰が世界を継ぐか」ではなく、「誰と世界を生きるか」。

そんな問いが、村の日常の中に溶け込んでいきます。

魔導でもなく、神でもなく、パンの温度で世界が揺らぐ瞬間を、どうか楽しんでいただければ幸いです。

村の工房の朝は、焼きたての香ばしい匂いと共に始まった。けれど、今日はその香りにまぎれて、いつもよりも焦げた匂いが鼻をついた。


「……ぷるる、今朝の火加減は誰が調整を?」


「ぷるぷる(おれじゃないぞ)」


「では、この焦げは……」


リディアが静かに天井を見上げる。そこには、まだ村に滞在している“もう一人の継承候補”、クラヴィスが設置した熱制御端末の冷却板が、薄く光を放っていた。


「効率を最優先すれば、予熱は不要ですから」


クラヴィスが工房の扉を静かに閉じて入ってくる。艶のない金髪を後ろに結び、白い指先に何枚かの数値表を携えていた。


「ですが、焦げてしまっては本末転倒ですわ。人は、数字だけでは食事を楽しめません」


「それでも、冷めたパンよりは早く提供できる」


リディアは返事をせず、トングで一つ、少し焦げたパンを手に取った。そして奥のテーブルへと歩き、静かに座っていた一人の少女の前に差し出す。


「……冷めてますが、それでも良ければ」


「うん、リディアさんのパンなら、あったかいよ」


その言葉に、工房内の時間が少しだけやわらいだ。


クラヴィスは一歩後ろに退き、少女とパンを見つめる。


「温度は数値で測れますが、心の温度は測れませんから」


リディアが静かに言った。


クラヴィスはふ、と息を吐くように言う。


「……私にはその言葉の意味が、まだ理解できそうにありません」


リディアは微笑まないまま、次のパンを窯に入れた。


外の空では、季節外れの風がそっと工房の煙を攫っていった。


「ねえ、クラヴィスさんって、なんでいつも難しい顔してるの?」


工房の脇にある小さな畑で、水やりをしていた子どもが、クラヴィスに向かってぽつりと尋ねた。


「顔の筋肉を動かすのは、エネルギーの無駄ですから」


「え……えぇ……」


子どもはじっと彼女を見つめ、土の中に埋めたジャガイモを心配そうに掘り返した。


クラヴィスはその様子を見ながら、一歩そばへと近寄る。


「……だが、感情を持たぬわけではない」


「ふーん、じゃあ、リディアさんのパン……好き?」


「好みは定義上存在しません。しかし、あのパンは……誤差の少ない安心を与えてくれる」


「わかるような、わかんないような……」


子どもがぽりぽり頭をかくと、向こうの工房からリディアの声が響いた。


「本日分のカンパーニュ、焼き上がりましたわ。焦げていない分は数に限りがありますので、お早めにどうぞ」


その声に、わらわらと村人たちが集まり出す。


クラヴィスも、ふと立ち止まる。


パンを受け取って微笑む村人たち。それぞれが違う温度と言葉を携えて、それでも同じ場所に並んでいる。


「……あの人は、魔導炉よりも効率が悪い」


ふと口にした言葉に、シェイドの冷ややかな音声が応じた。


「ですが、共鳴率は貴殿を凌駕し続けています」


「理由は?」


「……それを解明するために、継承はあるのかもしれません」


クラヴィスは返答をせず、工房の中へと歩き出した。


香ばしい匂いと、誰かの笑い声が、彼女を包んでいく。


「こちら、バターを添えたものですわ。少しだけ特別な配合にしてみましたの」


リディアが無表情のまま差し出す籠に、ほんのりと湯気の立つパンが並んでいた。小麦の香ばしさとバターのまろやかさが混じり合い、空気を甘く包む。


クラヴィスはその中から一つを取り、じっと見つめた。継承炉の起動に伴って村の各所に設置された“選定端末”が、彼女の掌中のパンに呼応して淡く光った。


「……波形の偏差、0.003以内。まるで……神経反射のようですね」


「それはつまり、パンがおいしいということでは?」


リディアは端末の光には目もくれず、まるで「焼き色」を判断するかのような顔でクラヴィスの反応を観察していた。


「……焼きたての温度は、最適でした」


「それは良うございました」


村人たちも一斉にパンを手に取り始める。誰もが自分の手の中で小さな奇跡が起きたように、静かに、だが確かに笑っていた。


「神の奇跡とは違う。ただの、日々の営みだ。でも……だからこそ、信じられるのかもしれませんね」


クラヴィスのその言葉に、リディアは「ふうん」と小さく息を吐く。


「パンは、裏切りませんもの。焼けば、膨らむ。それだけですわ」


クラヴィスは返事をしなかった。ただ、手の中のパンを一口、静かにかじった。


選定端末の波形が再び揺れ、工房の天井に投影された魔導式の紋様が、微かに煌めいた。


「リディアさま、さっきのパン……私、おかわりしても……」


子供が恐る恐る言いかけると、リディアはすでに別の籠を手に取っていた。まだ温もりの残るパンをそっと差し出す。


「冷めてますが、それでも良ければ」


少女はぱっと顔を輝かせて、それを受け取ると小さな口でかじった。


「……あったかい」


「温度は下がってますけれど」


「でも、あったかいよ」


ぷるるが子供の足元からぴょこっと現れ、見上げた。


「温度は心だって、おっさんが言ってた」


「誰のおっさんですの?」


「うちの村にいたパン屋のじいさん。ひげぼーぼー。いつも焼きながら言ってた。“パンに心を入れろ”って」


リディアは少しだけ眉を上げ、目を細めた。感情の起伏を見せることの少ない彼女にしては、ずいぶんと優しい表情だった。


クラヴィスは少し距離を置いた場所でその様子を見ていた。


「……なるほど。私は焼き上がりのカロリー量しか見ていなかったかもしれません」


「そういう観点も、まあ間違ってはおりませんわ」


「けれど、子供があなたのパンを選ぶ理由は、それとは違う」


リディアは少しの間だけ何かを考え、視線を天井に移す。投影された継承装置の紋様が、二つの波形を織りなすように揺らいでいた。


「選ぶ世界ですのね。誰かが世界を背負うのではなく、誰と一緒にこの世界を生きたいか……」


「……それが、あなたの解釈ですか?」


「少なくとも、私はそう信じてパンを焼いてきましたわ」


「その信念、嫌いじゃありません」


クラヴィスはそっと片手でメモを取りながら、ふと、リディアのパンをもう一つ手に取った。


「これは……ぶどう入り?」


「気付きましたのね。今日は“少しの幸せ”をテーマにしたパンですの」


「それは……やっぱり、狂ってます」


「褒め言葉として受け取りますわ」


ふたりの言葉の応酬のあと、工房の中に小さな笑いが漏れた。どこか、平和で、どこか、静かな決意が芽吹いていた。


魔導炉の奥で、シェイドの目が微かに光った。

今回も最後までお付き合いくださり、心から感謝いたします。


派手な戦いや衝突ではなく、“想い”と“静けさ”で綴った物語の一幕でした。

クラヴィスの理知的な視線、リディアの揺れない手つき、そして子供の素直な一言。

それらが重なり、「継承者とは何か」という問いに、少しずつ輪郭が見え始めてきたように思います。


次章からは、いよいよ第一部のクライマックスへ向けて加速していきます。

この章の“温度”を胸に、それぞれの選択を見届けていただければ嬉しいです。


それではまた、次回でお会いしましょう。

いつも読んでくださるあなたに、心からのありがとうを。

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