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継承炉、選定を始める

皆さま、今回もご覧いただきありがとうございます。


本話では、静かに広がっていく変化と、それに向き合う人々の小さな揺らぎを描いてみました。どこまでも日常で、けれどどこか非日常。その境目を感じ取っていただけたら嬉しいです。


焦げた匂いも、温かな香りも、すべてが物語を構成する一片として、静かに立ち上がっていきます。どうぞ、ごゆるりとお楽しみください。

工房の炉が小さく唸るような音を立てた。パンの焼き上がりではない。魔導炉の奥から響くそれは、何かを起動する低周波だった。


「——告示します。継承選定フェーズへ移行します」


声は工房の中だけでなく、村の通り全体にまで届いた。いつの間にか、街灯のように立てられた小さな柱からシェイドの音声が広がっていた。


リディアは淡々とトングで焼きたてのバゲットを台に並べながら、小さくため息をついた。


「……また、パンが冷めてしまいますわね」


その隣で、ぷるるがうずくまるようにしながら不安そうに辺りを見回す。


「ぷるぷる……これ、なんか……目玉みたいで、ぞわっとするぞ……」


彼が見つめていたのは、村の井戸の脇に設置された銀色の球体だった。手のひら大ほどの大きさで、光沢のある金属でできている。中央にひとつだけ黒い縦線が走っており、まるで睨みつけてくるような印象を与える。


「継承端末です」と、再びシェイドの音声。


「本日より、村の各所に端末を設置します。対象者の“日常的活動”、及び“交わり”を記録し、波形判定を行います。強制力はありませんが、継承候補双方の活動が評価対象となります」


「……それはつまり、パンの焼き方も含めてってことですか?」


クラヴィスの声が、静かに空気を割って入ってくる。彼女は魔導記録装置を手に、工房の隅からこちらを見ていた。


「食事、会話、思考傾向、感情発露、他者からの影響度合い。すべて評価対象です」とシェイドは即答する。


「感情まで……評価対象?」と、リディアが小さく目を細めた。


「はい。神を失った世界が求めるのは、統治者ではなく“同伴者”であると推定しています」


シェイドのその一言に、クラヴィスの指がピクリと止まった。


「……非科学的ですね」


「ですが、世界の揺れはその“非科学”によって安定している。現実です」


ぷるるはその場にへたり込んだ。


「ぷるぷる……なんか、選ばれるとかそういうのって……こっちが選ぶ方がいいよな?」


「どちらでもありませんわ」リディアはそっと笑った。「パンの焼き上がりは、窯が決めますの。私たちは、ただ見守るだけでしてよ」


その言葉に、どこか遠くで鐘が鳴った気がした。


選定の時は、もう始まっているのだ。


「……焼成時間、5分47秒。火力均等。膨張率、理論値に一致」


クラヴィスは淡々と工房の操作盤を指で叩きながら、小麦生地を整えていく。彼女が着ているのはいつもの帝国軍制服の上にかけられた、シェイドが用意したエプロン。青銀色の機能布地に、控えめな帝国紋章が刺繍されていた。


「そんな顔でパンを焼いても、美味しくなりませんわよ」


リディアが後ろからのぞき込むと、クラヴィスは眉を寄せずに答えた。


「温度と湿度を調整すれば、味は保証できます。感情は、不要です」


「それは、レシピの理論上の話ですわ。パンは――」


「……焼き加減、ですか?」クラヴィスが先に言った。


リディアはふっと口角を上げた。「ええ、そこがすべてですの」


タイマーが鳴り、クラヴィスのパンが炉からせり出す。表面はきっちり焼かれているが、香りがやや乏しい。外側が早く仕上がりすぎて、水分が抜けたような気配があった。


「成分比としては正しい。だが……」クラヴィスは眉根を寄せた。


「熱の逃げ道が“芯”を崩しましたわね。水蒸気が逃げる間がなかった。職人の目は数値より早いのですわ」


リディアはすでに次のパンを炉に入れていた。


そのとき、炉の上に設置された端末が音を立てた。浮かび上がる二本の波形。リディアのパンの焼成中に浮かぶ淡い橙の曲線と、クラヴィスのパンで現れた冷たい青の直線。


「これは……?」


「神格共鳴波形。現在の焼成反応による“情動投影”結果です」とシェイドの声。


「パンの温度が、神格を計る……?」


クラヴィスは目を細めた。


「いいえ、パンは心を写す鏡ですわ」とリディアは言う。「どれだけ正しく作っても、どれだけ計算されていても――想いがないものは、焼き色でわかります」


二人の間に一瞬だけ、沈黙が流れた。


「あなたにとって、パンは……なんなのですか?」クラヴィスが問う。


リディアは真顔で返す。「――戦場ですわ」


そして炉からパンを取り出す。美しく焼きあがった黄金色のクラストが、周囲に香ばしい香りを放っていた。


「でも、勝ち負けより、温かさのほうがずっと大事ですのよ?」


その言葉に、クラヴィスは返さなかった。ただそのパンを見つめていた。


「選定端末? これが?」


ぷるるが指差したのは、工房のカウンター脇に設置された水晶のような半透明の筒状装置だった。中にはパンの欠片がひとつ浮かんでおり、淡く金色の光が内側をめぐっている。


「魔導波形受信中……“心象温度”、リディア個体:43度。安定継続中」


シェイドの声が淡々と告げると、クラヴィスが即座に反応した。


「心象温度。……それは、神格の成熟度合いか?」


「情動と理念の一貫性、それに共鳴する世界の“気配”も含みます」と返された声は、むしろ楽しげだった。「神々が失ったものを、数値化するという試みです」


「……面白い」とクラヴィスはつぶやいた。


その隣で、リディアは素知らぬ顔でパンにシナモンをふりかけていた。


「シェイド。クラヴィス候補の波形も測定中で?」


「もちろん。測定項目は三つ――味覚刺激への応答、発話傾向、他者からの印象です」


「最後は、世論調査ではなくパンでやるのですね」


「合理と感情の狭間を探るプロジェクトですから」


そんなやりとりの横で、村の子どもたちがパンを持って走り回っていた。


「クラヴィスさーん、さっきのカリカリのやつ、冷めるとめっちゃ硬いよー!」


「焼成設定は間違っていません。が、食感設計には再考の余地あり」


「パンが爆弾みたいって言われてるぞ」とぷるるがつぶやく。


クラヴィスはちらりとリディアを見る。


「……この状態で、私が選ばれたら不服ですか?」


リディアは静かに答えた。


「誰が選ばれてもいいんですの。ただ、あの子たちが“ちゃんと食べられるパン”を焼ける人が、世界を持つべきだと思っているだけですわ」


「“選ぶ”のではなく、“選ばれる人になる”……か」


クラヴィスは口の端をほんの少しだけ上げた。


そのとき、端末がひときわ強い光を放ち、波形が一瞬揺れた。


「感情応答:初動の共鳴発生。選定進行、27%に到達」


選ばれる者は、論理ではなく温度で測られる。

誰が正しいかではなく、誰と生きたいか。


工房の空気は、オーブンの熱と同じように静かに、しかし確実に熱を帯びていった。


「焼きたてをどうぞ」と、リディアは籠を差し出した。


朝の工房。湯気の立つパンに、バターを溶かした匂いが混ざり、村の空気を満たしていた。


「やっぱり、ここのパンは柔らかいね」「温かいと、なんだか気持ちまで落ち着くなあ」


「それは……室温管理の成果かもしれませんね」クラヴィスがつぶやいた。

だが、その声は、どこか敗北を噛みしめるような響きだった。


「パンの温度が人を和らげるとは、設計書にはありませんでした」


リディアは、オーブンの中を覗きながら答える。


「……設計だけでは、焼きたての意味は伝わりませんわ」


「伝わる必要がありますか?」


「必要ではありません。ただ……伝わってしまうのですわ、焼きたてって」


クラヴィスはその言葉に対し、数秒黙ったのち、首をかしげた。


「やはり……不確定要素が多すぎます」


「不確定こそ、選ばれる要素だと存じますわ」


そのとき、シェイドの声が響いた。


「選定端末、村民の“共感波形”に変動あり。現在、リディア候補への偏位:+4.7%」


村人たちは、いつの間にかその数字を見ていた。

だが、誰もそれについて声を上げなかった。

代わりに、少年が一言つぶやいた。


「……でも、どっちが世界を守るかじゃなくて、どっちとパンを食べたいかだよね」


リディアは微笑まないまま、静かにその言葉を受け取る。


クラヴィスはふと、窓の外に目をやった。


「……この村の空は、なぜこんなにも澄んでいるのでしょう」


「冷めたパンを、誰かが温め直す場所だからですわ」


オーブンが、次の焼き上がりを告げる音を鳴らした。

それはどこか、鐘の音のようでもあった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


リディアたちの日々の中には、少しずつ形を変えながら流れていく“何か”が潜んでいます。それは確かな選択の気配かもしれませんし、あるいはただの気まぐれな風かもしれません。


今回の物語が、皆さまの心に小さな問いや余韻を残せていたら、とても光栄です。次回も変わらぬ日常と、かすかな兆しのその先へ。よろしければ、またお付き合いくださいませ。

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