シェイド、封印を解く
いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。
第六章までで「神と人」、「信仰と魔導」、「赦しと断罪」の軸が交錯しましたが、第七章はその“後”の物語です。
今回から舞台は静かに新たな局面へと移り、“選ばれる者”と“選ばれぬ者”の物語が始まります。
本話ではリディアの知らなかった真実が、静かにその扉を開けます。
彼女が日々焼き上げていたものの向こう側には、何があったのか。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。
工房の朝は、いつもと変わらぬ温度だった。
窓辺に光が差し込むと同時に、パン焼き炉の奥で、ぷるるがぐるぐると回りながら粉袋を引きずっていた。
「そろそろ一次発酵ですわね。ぷるる、湿度を見ておいてくださる?」
「ぷるぷる!(まかせろ!)」と得意げに跳ねたそのとき、パン焼き炉の側面に淡い緑の文様が浮かび上がった。
続いて、地下から低い振動音。鈍く、奥に響くような共振が空気をゆらす。
「……また、ですか。ああ、ほんと、落ち着いてパンも焼けませんわね」
静かに生地を叩きながら、リディアは眉ひとつ動かさなかった。だが、工房全体に漂う“圧”は明らかに違った。
「継承率、閾値突破」
地下炉の方から、冷静な声が届いた。「第六層封鎖、条件を満たしました。封印、解除します」
ごぉぉぉ、と低い音とともに、地下炉からホログラフィックの光線が伸びる。厨房の空間全体が、ほのかに蒼く揺らいだ。
ぷるるはビクンと跳ねた。
「ぷ、ぷる……! リディア、なんかすごいぞ、これ! いつもよりヤバめの反応だぞ!」
リディアは生地の表面に優しく十字を入れながら呟いた。
「まったく。今日こそ完璧なクープができると思ったのに、また余計な気を回させるんですもの」
地下炉の気配が強まり、天井近くに新たな円形ホログラムが展開された。そこには文字が浮かび始める。
【第六層:継承候補評価記録 — 開示中 —】
「ふう……」リディアは手を止めた。
さすがに、これは見過ごせない。
リディアは手をぬぐい、エプロンを外すと、炉の奥へ続く階段を下りていった。
背後で、ぷるるが小刻みに震えながらも、ついてくる。
「ぷるぷる……(やめとこーぜ、絶対やべーやつだぞ)」
「案ずるより踏み出すが早いですわ。パンも、冒険も、焼き加減を知らねば始まりませんもの」
地下炉の最深部、封印層の中央に浮かぶ“記録珠”が、かすかに明滅していた。
そしてその周囲には、六角形の記録パネルが円形に展開していく。
中心には、ひときわ大きな“継承評価一覧”が浮かんでいた。
【クロウレイン継承候補・評価プロトコル/第六層記録】
・対象:L-01 “リディア=エンフィールド”
適合率:89.7% 安定係数:A-
因子融合率:86.2%
観測評価:安定傾向にあり、過干渉リスク低
備考:生活志向に偏重、世界干渉意志不定
・対象:L-02 “不明/識別番号C-88-AF”
適合率:97.4% 安定係数:S
因子融合率:94.8%
観測評価:活性傾向高、因果抵抗低
備考:行動理念不定。現在帝国圏観測中
リディアは一読してから、静かに息を吐いた。
「……ふうん。まあ、それはそれとして」
と、ぱちんと指を鳴らす。空間の光が収束し、記録珠が沈黙する。
「私のパン作りに必要な情報は、残念ながら、ここにはなかったようですわね」
「ぷるぷる?(え、気にしないの?)」
「むしろ、腹が立つのは、また生地が過発酵になってしまうことでしてよ」
だがその直後、シェイドの声が低く響いた。
「リディア様。お伝えすべきは、それだけではありません」
彼の声色は、今までよりも一段階、深く落ち着いた音だった。
「L-02、“識別番号C-88-AF”――その因子は既に、起動段階に入っています。
帝国からの来訪者にご注意を」
静寂が流れる。リディアはほんのわずか、眉を動かした。
そして、そっとひとこと。
「……まったく、次から次へと。世界というのは、パン屋泣かせですこと」
帝国首都フェルマ=レイア、中央魔導省・地下第七研究層。
そこは一般には存在すら知られていない、閉鎖された地下迷宮のような魔導拠点だった。
白衣に身を包んだ者たちが、無言で端末を操作する。部屋の中心、巨大な結晶体が微振動しながら光を帯び始めていた。
「共鳴波動、上昇中……対象個体の脳波パターンが、クロウレイン型魔導核と一致し始めています」
「因子活性、96.2……96.9……97.4%。閾値を突破しました」
その声を受け、ひとりの人物が、結晶体に手を触れる。
男装の軍服。白銀のショートカット。
目元は冷徹で、知性の裏に何か“切断された情”を感じさせる。
「……またパンの夢、ですか。奇妙なリンクですね」
クラヴィス・アル=フェリオン。帝国軍所属、次代理論魔導師。
そして今、世界に二人しか存在しない“クロウレイン継承候補”のひとり。
彼女は結晶から手を離すと、部下へ指示を出す。
「本日中に使節団の構成をまとめて。表向きは文化視察。だが実態は……私の“確定”よ」
「確定……とは?」
「継承候補の、最終比較対象。“リディア=エンフィールド”……クロウレインの『もう一人』に、会いに行くのです」
部下たちは一瞬沈黙し、やがて静かに頷いた。
そしてクラヴィスは一人、データ端末に映るリディアの顔写真を見つめた。
そこには、あくまで無表情でパンをこねる姿。真顔でこしらえる生地。
笑わず、焦らず、ただ日常を続ける一枚があった。
「――非合理ですね。でも、見てみたい。
“神を継がず、日常を継ぐ者”とは、いかなる存在なのか」
彼女の目が、ごくわずかに熱を帯びた。
――「変な風が、吹いてきてる気がしますねぇ」
パン生地を伸ばしていたエルシィが、ふと外の空気に鼻をくすぐられて言った。
「……春の匂いにしては、少し金属臭いですわ」
リディアは窓を開け、遠くにうっすら見える雲の流れを見つめた。
工房の外では、早くも植えた作物が芽吹き始めていた。気候は穏やかで、鳥の声も聞こえる。
だが、その静けさの下に、なにか“かき混ぜられている”ような違和感が漂っていた。
「ねぇリディア様、シェイドさんって、さっきから何も言わないのですけど……?」
「ええ。第六層の封印を開けた後、処理が重いようで。ずっと黙っていますわね」
リディアが指差す炉端の魔導端末は、普段ならおしゃべりなほどに饒舌だったAIが、今はただ機械的な光だけをちらちらと点滅させていた。
「まるで……“誰か”を待っているような……」エルシィがぽつりと呟く。
そこへ、玄関ベルが小さく鳴った。
「お届け物ですー!村役場から、帝国の使節団受け入れに関する通達だそうですよー!」
外の声に応じて扉を開けると、村役場の青年が書簡を差し出した。
リディアが受け取ると、その冒頭にはこう書かれていた。
「クロウレイン継承候補との交信を目的とし、文化代表団が当地を視察予定」
「日程:近日中。目的:非公開。要協力」
「……文化代表団、ですって」リディアが目を細める。
「なんか、“使節団”って響きが既にもう不穏なんですが」エルシィが肩をすくめた。
ぷるるが、炉の奥からにゅっと顔を出した。
「ぷるぷるぷる。(これは、パン以外の資格試験が来るぞ)」
「試験……なるほど。味覚ではなく、存在としての評価でしょうか」
リディアは何もなかったように再びパン生地を捏ね始めた。だが、その手の力加減は、いつもよりほんの少しだけ硬かった。
「それでも、変わらずパンを焼き続けるのですか?」と、エルシィ。
「ええ。焼きますわ。どなたが来ようと、パンは――お腹のすいた人のためのものですもの」
リディアは淡々と答えながら、生地の丸みに指先を滑らせた。
「……けれど、“パンの資格”が問われるのでしたら、応える準備くらいは、しておきませんとね」
炉の奥、シェイドのインターフェースが一瞬だけ明滅する。
だがその意図は、誰にも読めなかった。
「来たぞぉー!道を開けぇい!」
山道に鳴り響くのは、村では聞き慣れぬ声。いつの間にか周囲に集まっていた村人たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。
「旗に“帝国標”が……。あれ、帝国軍じゃありませんか?」
エルシィが工房の窓から目を細める。馬ではなく、魔導装輪車が三台、工房前の広場に滑り込むように停まった。
車両から降り立ったのは、深緑と銀の制服を纏った数名の技術将校。その中央にいたのは、短く刈った銀髪と鋭い瞳を持つ、一人の女性だった。
彼女は一礼の後、誰よりも自然に、工房の扉をくぐる。
「あなたが“リディア”ですか」
凛とした声。
「……噂通りの無表情ですね」
リディアは、ほんのわずかだけ目を瞬かせた。
「そしてあなたが、“クラヴィス・アル=フェリオン”ですのね」
「帝国技術統括官、そして……魔導中核との共鳴率97.4%。“継承者”として、貴女と同等の存在です」
クラヴィスは名刺のようなクリスタルプレートを差し出す。工房の魔導炉がその瞬間、淡く共鳴音を響かせた。
「ほう……」
リディアは無表情のままプレートを受け取った。「お菓子はお持ちになりました?」
「いえ。代わりに理論書と報告書を六冊ほど」
クラヴィスはさらりと答え、持参した魔導端末を軽く掲げた。「あなたの工房魔導炉とも互換性があります。試験運用、してみても?」
「……ご遠慮申し上げたいところですが」
リディアがパンの入ったトレイを持ち上げながら返す。
その瞬間、工房の魔導炉が“ブォン”と低く唸り、両者のデバイスが一斉に共鳴。淡い光が天井に走った。
「反応しましたね」
クラヴィスが目を細める。
「……ええ。私のパンと、あなたの機構が。最悪の相性ですわね」
言葉は刺々しかったが、どこかその奥に、リディアらしからぬ熱のようなものがあった。
「クラヴィスさん、パン……焼けます?」
エルシィが思わず聞く。
「一応、栄養効率最大値の焦げなし設定で」
「でも、あの人のパン、全部焦げてたぞ?」
ぷるるが横から口を挟む。
「焼成温度制御には、再検討の余地がありました」
クラヴィスは真顔で認める。
リディアはパンの皿を静かに差し出した。
「食べてみてください。焦げていませんので」
クラヴィスはそれを受け取ると、まるで計測するように一口かじった。
……ほんの数秒の沈黙の後。
「……確かに、焼成時間と水分比率は優れている。……だがそれより、この温度は」
「温度管理には多少、愛情を込めていますの」
ふっと、空気が揺れた。魔導ではない、人の温度で。
「……継承とは、数値では決まらないようですね」
「パンもまた、そういうものですわ」
ふたりの言葉が交錯し、工房にあたたかくも張りつめた気配が漂った。
そのとき、炉の奥で“シェイド”が小さく発声する。
「補足:対話開始……クロウレイン因子、双方に反応……観測プロセス更新」
“二つの鼓動”が、ようやく重なった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
“神”が退場したこの世界に、残された“選択”とはなんなのか。
リディアにとっては日々のパンが全てであっても、世界はその裏で着々と構造を変え始めています。
本話では明確な敵は登場しておりませんが、“揺らぎ”そのものが不穏な兆しです。
続く三十二話では、その揺らぎが輪郭を持ち始めます。お楽しみに。
今後ともよろしくお願いいたします。




