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巫女、外なる声に堕ちる

いつも物語をお読みいただき、本当にありがとうございます。

今話では、かつて「聖女」と呼ばれた少女の心の深層に、静かに、けれど確実に入り込んでいた“声”の正体が、徐々に輪郭を持ち始めます。

信仰と執着の狭間で揺れるユリナ。その足元に広がるのは救済か、断罪か――。


一方、リディアのもとでは、神々の分裂によって生じる世界構造の歪みが加速しつつあります。

第六章は、「神の声が届かない世界」における、登場人物たちの選択と立脚点が問われる局面でもあります。

今回も、丁寧に描き切ってまいります。最後までお付き合いいただければ幸いです。

ユリナは今日も祈っていた。薄明かりの中、聖なる水を注いだ銀の盃に、白百合の花弁が浮かぶ。手の甲には微かな震え。目を閉じて、耳を澄ます。だが、何も返ってこなかった。


「……リュシア様……」


声は掠れていた。以前は、名を呼ぶだけで胸の奥に温かい響きが返ってきた。光に包まれ、言葉にならぬ祝福が降りた。けれど、あの日以来——


「……どうして……応えてくださらないのですか……」


聖女の館には、かつて栄光と崇拝の気配があった。神託の間には神官が並び、祝詞の詠唱が重ねられ、祝福と感謝の香が立ち込めていた。今は、誰もいない。空間は冷え、薄暗く、まるで神の光そのものが忌避しているかのようだった。


ユリナの指先が、小さく止まる。


窓の外で風が唸る。冷たい。空が遠い。以前は、空に見えるだけで心が浄化されたのに、今はただ、沈黙が覆う。彼女は盃を持ったまま立ち上がった。足元に崩れる白百合の花弁。それを拾うことすら、できなかった。


彼女の背後には、長く伸びた影があった。蝋燭の火が揺れるたび、その影は微かに形を変える。女のかたちにも、翼にも、あるいは、檻にも見えた。


——私のせい?

——違う。あの女のせい。すべてを奪ったあの“異端”のせい。


心の奥底から、誰のものとも知れぬ声が囁く。否、声などなかった。けれど、確かに、彼女の意識の奥で誰かが立っている気がした。


「……リュシア様……お願いです……わたしを、お見捨てにならないで……」


嗚咽がこぼれた。膝が折れる。銀の盃が倒れ、水が床に広がる。花弁は濡れて、冷たく沈んだ。ユリナの白衣は揺れ、肩が震える。もう一度祈ろうと手を合わせようとするが——指先が、かすかに違う方向を向いた。


“祈るべき神は、本当に同じでしたか?”


再び囁きが、影の奥から微かに。


次の瞬間、盃に落ちた水面が黒く濁った。誰も触れていないのに、水がわずかに震え、泡が一つ、浮かんだ。


前夜の涙が乾く前に、ユリナは眠りに堕ちた。


だが、そこに安らぎはなかった。


暗い闇。どこまでも落ちていく感覚。足元が存在せず、周囲に壁もない。音が消え、色が消え、感覚のすべてが薄れていく。


そして、空中に浮かぶ“扉”。


木ではない。金属でもない。ただ「扉」という概念のような、輪郭だけを持つ存在。そこから、細く長い指が伸びていた。人のものではない。皮膚がなく、骨がむき出しで、しかし生きている。


ユリナはその指に触れられる前に、気づいた。声がする。言葉ではないが、意味が脳に直接叩き込まれる。


「ィ……ァ……サ……ゥ」


発音できない言語。古代語でもない。禁書の祈文にさえ載っていない、文字化不能の“概念音”。それが意味として彼女の中に侵入する。


『光は檻、汝に真理を』


その一言が、心に焼きついた。逃げようとしても、逃げられない。夢の中の意識が明瞭すぎて、まるで“目覚めた意識”がそこにあるかのようだった。


彼女は問う。


「あなたは、誰……?」


答えはなかった。ただ、沈黙の中で扉が少しだけ開き、中から黒い霧が溢れ出す。


その霧は“聖光”と同じ動きをしていた。教会でしか観測されない、神聖魔力の現象——なのに、色が違う。濃く、深く、重い黒。聖性の反転。


次の瞬間、扉の向こうから視線があった。目があったわけではない。それでも、確かに誰かがユリナを見ていた。何千もの目が重なり合っているような、“視線の濁流”。


ユリナは叫んだ。声が出なかった。肺が凍っていた。足が動かず、指が硬直し、心臓の音だけが激しく、鼓膜の内側で鳴り響いていた。


『真理を受け容れよ』


また声。


『おまえは選ばれた。汝の使命は、“偽神”を討つこと。』


——偽神。あの女。あの、パン工房の女。


そう。あれがすべてを奪った。私から、光を。祈りを。神託を。世界の意味を。


ユリナはひとつ、頷いた。


扉が完全に開いた。


霧がユリナの体に触れた瞬間、夢は崩れ去り——


彼女は跳ね起きた。


聖女の寝室。朝靄が差し込んでいるはずの窓は、うっすらと黒く曇っていた。全身が汗で濡れ、心臓が、痛いほど高鳴っていた。


だが彼女は震えながらも、こう呟いた。


「……私は、違う神に選ばれたの……」


「……もう一度。今度こそ」


白い法衣を整え、額に祝祷の印を描くユリナ。寝室の奥、祈祷室。神託の鏡の前に立つ。


かつて何百回と祈り、幾度となく奇跡を起こした聖具。だが、ここ数日、それは応えを返してこなかった。


ユリナは唇を噛む。


「私は間違ってない……。リュシア様、どうか、もう一度……」


両手を合わせ、祈りの言葉を紡ぐ。声は震えていない。むしろ静かで美しい、聖女に相応しい響きだった。


——だが。


鏡が、光らない。


むしろ。


その表面に、ほんの僅かな“染み”が浮かび上がる。


黒い。灰でもすすでもない。完全な黒。


ユリナは気づかなかった。だが、祈祷室の奥でそれを観測していた神官団のひとりが呻く。


「……変質、している……これは、聖光の波長じゃない……」


「魔力……違う。これは……“神格の干渉外”の位相だ……」


ざわり、と場の空気が揺れる。


気配が変わった。


ユリナの周囲の空間がわずかに“たわんだ”ように見える。温度が、重さが、色が、音が、まるで別次元の干渉を受けているような錯覚。


ユリナはまだ気づかず、手を鏡へ伸ばす。


「神は……応えてくれます。きっと……あの女よりも、私に」


その瞬間。


鏡が、黒く塗りつぶされた。


表面に、黒い波紋が広がる。まるで液体のように歪み、深さを持ち、奥から囁きが返ってくる。


『リィ……ディア……』


声だ。名前だ。けれど、発音がおかしい。耳では聞こえず、脳の裏側に直接囁かれるような……音ではなく“意味”として叩き込まれるような感覚。


神官の一人が息を呑む。


「ユリナ様……それは、リュシア様の声では……」


ユリナは動かない。ただ鏡を見つめたまま、そっと呟いた。


「わかってるわ」


静かに、静かに、唇が動いた。


「……でも、私は、選ばれたの」


「たとえその声が、どんな神のものでも……」


「私を、“リディアを殺すため”に導くのなら、それが正義なのよ」


——黒い鏡が、小さく笑ったように、波打った。


「その神は……誰だ?」


祈祷室に残っていた初老の神官が、青ざめた声でユリナに問うた。


だが、ユリナは返答しない。ただ、ゆっくりと振り返る。鏡の黒は彼女の眼にも侵食していた。かつて澄んだ金色だった虹彩は、中心にわずかに“無明の染み”を湛えていた。


「怖いの……ですか?」


彼女の声は静かで、柔らかかった。


「私が、光を手放したことが?」


誰かが後ずさる。その足音に、緊張が一気に膨張する。


「これは神の、違います! 女神リュシアの導きではない!」


「それは我々にもわかっているッ! だがそれは、神でも魔でもない、“何か別の存在”だ……!」


「——異神だ」


ひとりが呟いた。


部屋が凍る。


その単語は、教義上でも禁忌中の禁忌だった。


ユリナは肩を震わせ、小さく笑った。冷えた笑みだった。


「異神……ですって。じゃあ、あなたたちは? リディアの“パン”に救われた信者を“異端”と断じて焼き払おうとした、あなたたちは?」


「どちらが正気か……神なら裁けますか?」


「それとも、“神でない者”が裁くのかしら?」


神官たちが言葉を失う。


その隙に、ユリナは一歩、祈祷壇の外へと足を踏み出す。


と、その背後で——


「……ッ、封印鏡、作動を!」


残っていた若い神官が、護符の束を鏡へと投げ込んだ。


瞬間、白い霊光が散り、祈祷室の鏡は歪みながら“沈黙”に転じた。


しかし、ユリナはそれを見ていない。


彼女の目は、どこか遠くを見ていた。


「あの女……私から、すべてを奪っておいて。平然と……」


「なら、私が正しいって、証明してみせる」


「誰にでもない、“あの女自身”に……!」


彼女の衣が、ゆっくりと揺れる。


白いはずの法衣が、裾から黒に染まり始めていた。


ユリナは祈祷室の扉を背に立ち尽くしていた。


天井から垂れる数本の封印札が、灰になって落ちる。今やこの空間には、神聖な力も、加護の気配も残っていない。ただ、静寂。ぴたりと世界が息をひそめていた。


その静寂の中、ユリナはひとつ深く息を吸い込んだ。


「もう、ここには……用はないわ」


振り返らないまま、彼女は大理石の回廊を歩き出す。聖堂の高窓から差す光すら、彼女の歩む場所を避けるように逸れていた。足音が、冷たく反響する。


その歩みに気づいた者たちが、次々に顔を覗かせる。


巫女見習いが壁に張りついて口を押える。年老いた司祭が震える手で十字の護符を掲げようとしたが、途中で諦めるように下ろした。


「……違う。もはや彼女は“聖女”ではない」


誰かが低く呟いた。


「黒い……翼が」


ユリナの背に、微かな光の揺らぎが見える。それは翼にも見え、ただの影にも思えた。だがそれは、確かに彼女に“異なる力”が宿った証だった。


「あなたたちの“神”ではない。けれど……私を選んだ“存在”は、今、目覚めている」


ユリナの言葉は誰にも向けられていなかった。それは祈りではなく、誓いだった。


神殿の巨大扉が、風もなくゆっくりと開いていく。


外の空は曇り、重く、何かを予感させていた。遠くで雷が鳴る。嵐の前の空。


ユリナは最後に一度だけ後ろを振り返った。


「もうすぐよ、リディア。次に会うとき、私はもう……あなたの“友”ではないわ」


その瞳には、かつての優しさも、嫉妬も、悲しみもなかった。ただ、虚無があった。


彼女は歩き出す。


その足元に黒い花弁がひとつ、風もないのに舞い落ちる。


——ユリナ、聖堂を去る。


——そして、世界の運命は静かに軌道を変え始めた。

ここまでお読みくださり、心より感謝申し上げます。

ユリナという人物の本質には、脆さと強さが常に交錯しています。それが今回、“別の声”によって引き出されたのか、それとも元から存在したものだったのか――その答えを提示するのはもう少し先になります。


“堕ちる”という行為は、単なる破滅ではなく、再定義の始まりでもあります。

この物語が進むほど、彼女の変化がどこに行き着くのかを見届けていただければと願っています。


次回、第28話「クロウレインの系譜」では、工房の地下から新たな“視点”が示され、再び物語の核が揺さぶられます。

どうか引き続き、よろしくお願いいたします。

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