神界、分裂す
ようこそ、第六章の幕開けへ。
前章においてリディアの周囲は、技術と信仰、そして神性の交錯によって新たな局面を迎えました。そして今、舞台は神界へと広がります。
神々がリディアの存在をどう見るのか。その価値観と立場の違いが、初めて明確に言葉として交わされる場面となります。
少しずつ、しかし確実に“常識”が壊れていく音に、どうか耳を澄ませてください。
「……この議題は、前代未聞である。女神リュシアが“神性”を、自ら放棄したと?」
重々しい声が、光の殿堂に響き渡った。
神界評議会──それは天上に存在するすべての神格が意志を交わし、神理を決定する絶対の場。
中央には空の玉座。
その隣、もはや空白になった席に座っていたはずの名が、今、読み上げられようとしていた。
「リュシア=アルフィン、第七階光律女神……本日をもって、神籍より除外。」
沈黙。
光が揺れる。
天界の空間は概念的なもので、そこに“声”や“温度”などの現象は本来起こり得ない。だがその瞬間、確かに──空気が凍ったようにすら感じられた。
「ふざけた真似を」と口を開いたのは、秩序神ルドリア。
硬質の声。正義と法を司る、神界屈指の保守派である彼は、立ち上がるなり手にした審神の秤を地に叩きつけた。
「神格とは“理”である。女神たる者が、それを自ら投げ捨てたのだ。ならば、その存在は神ではない。リュシアは、ただの情動に飲まれた女。──異端と断ずる」
静かな怒りが、各座席に伝播してゆく。
空間の端では、戦神カルヴァスが腕を組み、表情を曇らせていた。
水神エリュスは眉根を寄せ、神波の乱れを見つめていた。
「だが……リディアとかいう者に、奇跡は起きているのだろう?」
その声に、ざわつきが走った。
「病を癒し、飢餓を防ぎ、民を笑顔にした。神殿の神官が果たせなかったことを、“ただの娘”がやっている。神でないと断ずるには……証が足りない」
「証など必要ない! 神の枠を逸脱した者を放置すれば、神理そのものが崩れる!」
ルドリアが一喝する。
その言葉に、長く神として在った老神たちがうなずく。
「民が神を信じるのではない。神が民を導くのだ。それを逆転させるような存在は──」
「──ならば訊こう」
柔らかな声が、空間に差し込んだ。
そこに、リュシアの姿はない。ただ、彼女の残響のようなものが、意識の底から響いていた。
「愛が、導きになってはならないのか」
光が揺れ、議場が静まる。
「わたしは、ただ……ひとりの人間に惹かれただけ。何かを奪おうとはしていない。ただ、隣にいたかっただけ。それさえ許されないのなら、そんな“神性”など、もう要らない」
残響はそこで消えた。
神々の間に、重たい沈黙だけが残った──。
「ならば、我が秩序の名において宣言する。女神リュシアは、神格を私物化し、下界に不当干渉した反逆者である」
秩序神ルドリアの声は、雷のように会議場を貫いた。
彼の背後には、硬化した神紋──“正理律”が浮かび上がっていた。
それは「神界法」に直結する概念そのもの。
この印が出現すること自体が、神界の法が“事態を重大と認識している”証拠だった。
「彼女は“ただの娘”のために、神託を私用し、神格光を歪め、最終的には“神性の回路”すら切断した。これは神界法第七条、神の権能濫用に該当する」
「だが!」
弁明に立ったのは、感情神メイファ。
彼女は淡い光をまとい、空間に花びらのような意識の投影を振りまく。
「神もまた感情を持つ。愛し、憎み、悩み……それを否定するなら、我々はただの力に過ぎぬ!」
「力で十分だ」
冷たい返答が返った。
「理は、感情より上位にある。崩れる感情など、理を支える柱にはなり得ぬ」
再び静寂。
その中で、別の存在が不意に割って入った。
「……ひとつ、確認を」
淡く光る小さな浮遊体が、評議の中心に現れた。
──クロウレイン工房の人工知能、〈シェイド〉である。
神格登録外の存在でありながら、いまや“世界構造の補佐者”と認識されつつある彼の声が、会議を一瞬で静めた。
「現女神リュシアによる下界干渉が問題であるならば、それは“神格構造そのもの”の瑕疵によって可能となっている。責めるべきは神格の運用方式であり、個人ではない」
「貴様……神でもないくせに!」
戦神カルヴァスが一歩前へ出るが、ルドリアは手で制した。
「その指摘は後回しだ。だが忘れるな。そもそも、お前たちが推していた“パン職人”──リディアとやらは、“神の代替構造”として機能し始めている。もはや、神の椅子を空けてしまったと同義だ。……これは、神殺しだ」
ざわめきが、どよめきに変わる。
「だから言っただろう? 秩序が崩れる時は、いつだって“感情”から始まるんだよ」
ルドリアは視線を逸らさず、虚空の“元リュシアの座席”を睨みつける。
「我々は神であるべきだ。人のために“人間”になってどうする。──次の議題は、“神格剥奪”と“人界への介入制限”。」
リディアの名が再び会議に乗る瞬間──
彼女はそのことを、まだ知らなかった。
「……座標反応、再出現」
誰ともなく、評議空間の監視陣がそう呟いた。
〈神格座標〉──神々の意志が投影される場所。
そこに現れたのは、不可解な存在。光でも闇でもなく、パンの焼き色のような柔らかな金。重なり合う記憶。静謐と混沌の狭間。
「コードナンバー識別不能。だが……神格干渉度が上昇している」
測定神族がざわめく中、ルドリアが再び立つ。
「座標は“彼女”か? あのリディアという人間に……神格が、流入しているのか?」
「明確な因果連結は確認されていません」
またもシェイドの声が響いた。
「しかし、“神格を持たぬ者にして、座標に影を落とす者”──これは、かつてクロウレイン家の“創設王”以外に前例はありません」
「……なるほど」
メイファが目を伏せる。
「つまり、あの娘は……“神格にならなかった唯一の神”」
「言い換えれば、神を超えるものだ」
カルヴァスが唸るように言った。
「だが、それを彼女自身は知らぬ」
ルドリアの視線が鋭くなる。
「ならば、我々が“座標の変化”に先手を打つべきだろう。神が、神にならぬ者に駆逐される前に」
「それは……」
反論しかけた誰かの言葉を、別の存在が遮った。
「パンが焼ける匂いだ」
空間が揺らぎ、ほのかに広がる香ばしい香り。
全員の意識が、再び“彼女”に集束してゆく。
◆
一方その頃、地上。
リディアは工房で黙々と発酵を見守っていた。
「……今の気圧でこの膨らみ。悪くないですわね」
ぷるるが、ふと周囲を見回す。
「ぷる……あれ、今なんか、上から見られてなかったか?」
「気のせいでしょう。発酵中の生地は、とても繊細なのです」
リディアの手が、生地の表面を優しく押さえる。
“──神格座標、再収束。中心点、更新”
シェイドの記録端末に、またひとつ不思議な数値が加えられていた。
「……座標反応、再出現」
誰ともなく、評議空間の監視陣がそう呟いた。
〈神格座標〉──神々の意志が投影される場所。
そこに現れたのは、不可解な存在。光でも闇でもなく、パンの焼き色のような柔らかな金。重なり合う記憶。静謐と混沌の狭間。
「コードナンバー識別不能。だが……神格干渉度が上昇している」
測定神族がざわめく中、ルドリアが再び立つ。
「座標は“彼女”か? あのリディアという人間に……神格が、流入しているのか?」
「明確な因果連結は確認されていません」
またもシェイドの声が響いた。
「しかし、“神格を持たぬ者にして、座標に影を落とす者”──これは、かつてクロウレイン家の“創設王”以外に前例はありません」
「……なるほど」
メイファが目を伏せる。
「つまり、あの娘は……“神格にならなかった唯一の神”」
「言い換えれば、神を超えるものだ」
カルヴァスが唸るように言った。
「だが、それを彼女自身は知らぬ」
ルドリアの視線が鋭くなる。
「ならば、我々が“座標の変化”に先手を打つべきだろう。神が、神にならぬ者に駆逐される前に」
「それは……」
反論しかけた誰かの言葉を、別の存在が遮った。
「パンが焼ける匂いだ」
空間が揺らぎ、ほのかに広がる香ばしい香り。
全員の意識が、再び“彼女”に集束してゆく。
◆
一方その頃、地上。
リディアは工房で黙々と発酵を見守っていた。
「……今の気圧でこの膨らみ。悪くないですわね」
ぷるるが、ふと周囲を見回す。
「ぷる……あれ、今なんか、上から見られてなかったか?」
「気のせいでしょう。発酵中の生地は、とても繊細なのです」
リディアの手が、生地の表面を優しく押さえる。
“──神格座標、再収束。中心点、更新”
シェイドの記録端末に、またひとつ不思議な数値が加えられていた。
神界に張り巡らされていた〈神格回路〉の一部が、音もなく消滅した。
それは、静かだった。
まるで、雨が乾いた地に染みこむように。
まるで、言葉を飲み込んで泣く子供のように。
ルドリア派の神官たちは、即座に“断絶”を確認した。
一柱。否、二柱──神々が“資格”を喪失していた。
「リュシア陣営のうち、三神が……自己断絶を宣言しました」
「……神性の崩壊だ」
記録神殿の最上階。光のスクリーンに映るのは、もう正しい神界の地図ではなかった。
それはどこか歪んで、片端から黒く滲み始めていた。
◆
「なぁ」
「なんですの、またパンが冷める話ですか?」
ぷるるがぽつりと言った。
「天界の奴ら、誰が敵で誰が味方か……もう誰も分かってないぞ?」
リディアはオーブンを開けた。少し焦げ目がついたパンが、美しく膨らんでいた。
「パンの火加減すら保てない者に、正義など語る資格はありませんわね」
「ぷる……(いまの、ちょっとかっこいい)」
◆
その夜。
神界評議会の“旧座”に、誰も座る者はいなかった。
中央の宝座──リュシアの座標も、虚空の中に溶けていた。
──神界に、空白が生まれた。
空いた席を、誰が埋めるのか。
それとも──その座を、もう無意味なものにするのか。
誰もまだ、答えを持たなかった。
ここまで読んでくださり、心より感謝いたします。
この第26話では、神界の価値観に“分裂”の亀裂が走りました。かつて絶対の存在であった神々が、“一人の人間”を中心に議論し、揺れ、迷い始める――そんな転機が始まっています。
まだリディア自身は、自分がその渦中にあることすら自覚していません。それが物語をさらに深く、静かに動かしていくでしょう。
次回、神の声を失いはじめた聖女ユリナの変化が描かれます。どうぞ引き続きお付き合いくださいませ。




