裁かれるべきは誰か
皆さま、いつも本作をご覧くださり本当にありがとうございます。
この第五章の締めくくりとなる第二十五話では、物語の根幹に触れる衝突が描かれます。
力を持つ者、祈る者、守ろうとする者、それぞれの正義と信念が交錯し、かつてない選択が迫られます。
ですが、リディアは何も変わりません。
ただ、自分の手で焼くパンに心を込め、まっすぐに過ごし続けています。
どうか、静かな衝突のその先を、見届けていただけますように。
「リディア=クロウレイン! 我は神の名のもと、お前の偽りを断罪する!」
高台から響いた声に、村の風が止まった。
光の槍が夜空を引き裂くように出現し、先端から粒子が滴り落ちる。
村人たちが一斉に工房前へ視線を向けた。
すでに警告灯が灯っている。工房の屋根の縁に沿って、青白い線がぐるりと走っていた。
ユリナの銀髪は風もないのに浮かび上がっていた。瞳は光に満ち、普段の微笑は消え、怒りと焦燥だけが浮かんでいた。
「神託は絶えた。信者の祈りも、力に変わらない。それはあなたが――」
工房の表面に、まるで氷のような結界が展開される。
一面の透明な光の層に、魔法陣が何重にも重なっていく。
「防衛結界、展開完了。外部攻撃感知。非致死制圧モード、起動」
地下から、シェイドの声が微かに響いた。だがそれは誰にも届いていなかった。
上空で光が凝縮され、ユリナが掲げる槍が震え出す。
「……行きます、リディア・クロウレイン。あなたが、“奪った”ものを、今ここで……!」
次の瞬間、光槍が放たれた。
純白の軌跡が空を割り、一直線に工房の正面へ。
しかし、槍が結界に触れた瞬間――
爆発音は起こらなかった。
代わりに、工房の屋根から、ふわりと光の粒子が舞い上がった。
地面が一瞬震え、次いで、土の匂いと、麦芽の甘い香りが広がる。
「……吸収、開始」
結界の内側、魔法陣の色が白から緑へと変化していた。
村人のひとりが、唖然としたように指を差す。
「……あれ、見て……」
ユリナの放ったはずの光が、地表に降り注いでいく。
だが、それは燃え広がるのではなかった。
やがて、何もなかった荒れ地に――芽が出た。
双葉が、次いで花が咲き、実がなり、わずか数秒で色とりどりの草花が地を彩った。
「なん……で……?」
ユリナの声が震えていた。
彼女が放ったはずの“断罪の光”は、命を奪うどころか、命を生み出していた。
リディアは扉の奥で、ひとつ大きくため息をついた。
「まったく……光熱の乱れで、酵母が不機嫌ですわ」
そして、オーブンの前に屈み込む。
「このままでは……パンの底が、焼き締まりすぎてしまいますの」
扉が静かに閉じた。
「ちがう……こんなはずじゃ……!」
ユリナは目の前で咲き乱れる草花を見つめ、槍を強く握りしめた。
「私が……こんなに願って……なのに……なぜ……命が育つの……?」
声が震えていた。足元に咲く花が、まるで彼女に微笑みかけているかのようだった。
その花の根元で、光粒子がゆっくりと結界の中へ吸い込まれていく。
「魔力変換率、上昇中。植物育成モード:臨時展開中」
工房から流れるのは、もはや“防衛”ではなく、“浄化”と“育成”の光。
村の人々は静まり返ったまま、じっと工房とユリナを見守っていた。
「おかしい……これは、神の力……! どうして……パン焼きの設備に、こんな……っ」
ユリナの唇がわずかに震えた。
「パン……あの女は……ただ、パンを焼いてるだけなのに……!」
と、そのとき。村の老婦人が、ぽつりと呟いた。
「パンじゃないよ。……あの人はね、“手をかける”んだ。種にも、土にも、村人にも。神様よりも、近くでずっと」
ユリナが目を剥いた。
老婦人の言葉は、その場の誰の心にも届いていた。
「祈るだけじゃ……冬は越せなかった。でも、あの人は……パンを分けてくれた。酵母の育て方も、畑の耕し方も、教えてくれた」
「でも……」ユリナが力なく声を出す。
「でも、それは“信仰”ではない。奇跡ではない。……そんなことで、“神”を超えるなんて――」
「……もう超えてるんだよ」
別の若者が、低く言った。
「神様は、遠いままだ。でも、あの人は……俺たちの隣に、いた」
光の槍を握っていたユリナの指が、ひとつ、またひとつと開いていった。
槍はその場に、さくりと刺さり、じわりと緑に飲まれていく。
その背後で、結界の縁がすうっと明るくなった。
その光を見て、空を見上げる者がいた。
「……見て。……あれ……」
誰かが指差した空の向こうに、柔らかな金の羽がひとつ、落ちていた。
そしてその光は、次の瞬間、まるで誰かが“神の衣”を脱いだかのように、白く舞い落ちていった。
羽根の舞い落ちる空を見つめていたのは、村人だけではなかった。
神界、天上の評議座。
半透明の玉座が幾重にも重なり、そこに座す“光の神格”たちが静かに口を開いた。
「聖女ユリナ、信託に従わず、独断で神力の行使を強行。結果、王都の氷結災害を引き起こした」
「魔導による無益な破壊行為の阻止ではなく、“感情”による制裁を試みた疑い」
「この判断……神として、看過できぬ」
「神は奇跡を与えるものであって、“競う”ものではない……はずだった」
その声の響きのなか、光の柱のひとつが明滅した。
そこに立つのは、かつて“奇跡の女神”として語られた存在――女神リュシアだった。
白金の髪は風にほどけ、羽は片方だけを残し、もう片方はすでに燃え尽きていた。
「リュシア……何をする気だ?」
光神のひと柱が問いかける。
リュシアは静かに答えた。
「裁定を待つまでもありません。私は、あの人を“導いた”神でありながら、正義を教えることもできなかった。ならば私は神ではない」
「神格回路、断絶。神権、返還」
言葉とともに、彼女の胸元にあった“神印”が砕け散る。
天の光が、一瞬だけ沈黙に染まった。
「私は……これからは、彼女のそばに、“ただの人”として生きるわ」
評議座にざわめきが走る。
しかし、誰もそれを止めようとはしなかった。
そして次の瞬間、評議の玉座の中心に掲げられた聖句が、新たな文言に書き換えられた。
“神の名を騙り、感情で他者を裁く者は、神にあらず”
“神に代わり、癒しと技術で命を支える者を……我ら、祝福せん”
天の光が変わった。
それはまるで、“時代の向き”そのものが書き換わっていくようだった。
「ふぅ……酵母、今が一番香っておりますわね」
焼き上がったパンの山を前に、リディアは手を合わせて微笑んだ。工房の中はどこか神殿めいた静けさに包まれていたが、それでも彼女はパンを焼き続けていた。
いつも通り。
……ただ、ほんの少し、空気が違った。
「ぷるる、バターの仕込み具合はどうですか?」
「ぷる(泡立て完了。風味上々)」
「うふふ、それは良かったですわ」
扉が軋む音がして、光の中から白い影が現れる。
それはもう、女神ではなかった。
羽根も神印も捨て去ったリュシアが、静かに歩いてくる。
「……終わりました」
リディアはふり返り、微笑んだ。
「おかえりなさいませ」
言葉に重さも、涙もない。
ただ温度だけが、そこにあった。
リュシアは一歩、また一歩と近づいて、工房のパン窯に目を向ける。
「……あなたが焼くこのパン、最初に神聖を感じたのは、私です。けれど、それは“神の力”じゃなかった。……あたたかさでした」
「ええ、パンは命ですから。神ではなくて、そう……少しの配慮と、熱量と、水分調整ですわ」
リディアが微笑みながら語ると、リュシアはふっと小さく笑った。
「あなたは選ばれた者じゃなかった。けれど、選んだのね。“戦う”でも“信じる”でもなく、“焼く”を」
「……選ばれなくても、生きることはできますわ。選ぶことで、誰かを支えることも」
「では、これからは……私も、それを焼く側に立たせてください」
「かしこまりましたわ」
ふたりは並んで、同じパン窯に向き直った。
ひとりは元・神で、
ひとりは異端とされた者。
なのに、工房は静かだった。
パンが焼ける香ばしい匂いだけが、世界の中心だった。
どこからか子供の声が響く。
「ねえ、あの白い人……もう神様じゃないの?」
「……パン屋さんだよ。たぶん」
「ふーん……パン屋さん、かぁ」
その響きに、ふたりは同時に肩を震わせた。
笑ったのだ。
誰にも見せぬ、小さな、心の綻びを。
リディアがパンを取り出すとき、その隣にリュシアの手が自然と添えられた。
「焼き色、どうですか?」
「やや香ばしめですわね。けれど、食感はきっと理想的。……どう思います?」
リディアが尋ねると、リュシアはパンの底を軽く叩いた。
トン、という音が響く。
「……ふむ。神託レベルで完璧」
「それはもう“人間の舌”ではございませんね」
ふたりは声を揃えて、ふふっと笑った。
リディアは、膝に乗ったぷるるを撫でながらぽつりと問う。
「……本当に、いいのですか? あなたの居場所が、ここで」
「“神”としての居場所は失った。でも、“わたし”の居場所なら、もうここにしかない」
「なら、お部屋を一つ増設いたしましょう。朝のパン仕込み、手伝って頂きますわね」
「光栄です。……けれど、私、不器用ですよ?」
「わたくしもパン以外には不器用ですわ。ちょうど良いです」
リディアはそう言って笑いながら、次の発酵用の生地に手をかける。
工房の窓からは、どこか遠くで弾けるような鐘の音が聞こえた。
神殿のそれではない。村の子どもたちが作った、小さな手作りの鐘。
リュシアが振り向くと、窓の向こうに少年たちが跳ね回っていた。
一人が手を振る。
リディアもそっと手を上げた。
その背に、リュシアが静かに言う。
「……あなたがいてくれて、よかった」
「……同じ言葉、わたくしも何度も思いました」
ふたりの影が並んで、パン窯の炎に照らされる。
そこに神はいなかった。
奇跡もなかった。
けれど、その光景は誰よりも温かく、確かな“救い”だった。
そして、
ここからすべてがはじまる。
誰かに“選ばれる”物語ではなく、
自分で“選んで立つ”者たちの、新たな章が。
第五章、最後までお読みいただきありがとうございました。
これまで積み重ねてきた小さな選択たちが、ようやく大きな意味を持ち始める章だったと思います。
何かを得ることで、何かを手放さなければならない――その構図の中で、それでも大切にしたい想いがありました。
激しさの中にも、どこか温かさを残したまま、次の物語は動き出します。
新たな関係、新たな視点。そして、いくつかの再会が静かに近づいてきています。
読者の皆さまへ、感謝を込めて。
また次の章でお会いできることを、心より楽しみにしております。




