聖女の覚醒、光の暴走
ようこそ、第二十四話へ。
今回は、これまでの“静かなる歪み”が、ついに一線を越える回となります。
信仰とは何か、神とは誰のものか――そんな問いが、人物たちの行動を通して浮かび上がる瞬間が訪れます。
けれど、どうか怖がらないでください。
この物語は、最後まで“人の心”にこだわって描いていきます。
では、ページをめくりましょう。
きっとあなたも、誰かの“信じたもの”に触れることになるでしょう。
感謝を込めて。
──静寂の聖堂。ステンドグラス越しに差し込む光が、床の大理石に柔らかく揺れている。
その中央に跪くのは、かつて“神の声を最も近くに聞く聖女”と讃えられた少女──ユリナ・セリステリア。
白金の髪が肩を滑り落ち、膝の上で組まれた手は微かに震えていた。
「……また、今日も……」
彼女の唇から漏れるのは、空虚な祈り。
光はある。だが、あの“温もり”が──かつて感じていた“リュシアの気配”が、完全に消えて久しい。
「リュシア様。どうして……私に、何も……?」
その問いは、誰にも届かない。
銀細工の灯火皿がほのかに揺れ、祈りの香の煙が彼女の頬を優しくなぞった。
「私……何も、間違っていないはずなのに……。信じていた、のに……。どうして……あの女には……」
再び現れるのは、あの銀髪の面影。
リディア・クロウレイン。
追放されたはずの令嬢。パン焼き女。笑われていた、無力な庶民の象徴。
けれど今や──神の名に代わる“癒し”を生む異端。
ユリナの脳裏で、その姿が光を遮るように立ち塞がっていた。
「光を……遮っているのよ、あの女……!リュシア様が見えないのも、感じないのも、きっと……!」
立ち上がると同時に、祈りの珠が床に落ちて弾けた。
淡く輝く珠が、まるで砕けたガラスのように冷たい音を立てる。
──彼女は、今も祈っている。
けれどそれは、もう“信仰”ではなかった。
“証明”への渇望。
“奪還”への執着。
“正統”であり続けるための、存在の証明。
彼女は静かに聖堂を出ると、誰にも気づかれぬように、奥の書庫へと向かっていった。
祭壇裏に、誰も触れぬ“封印の書架”があることを──彼女だけが知っていた。
聖堂奥、重く封じられた黒鉄の扉が、軋んだ音を立てて開かれる。
その先は、光すら届かぬ教会最深部──封印の書架。
ここは神殿が“管理対象外”と定めた旧神術と禁忌知識の保管庫。
許可なく足を踏み入れれば、聖女であろうと異端審問の対象となる。
だが今、ユリナは何の躊躇もなかった。
「……やっぱり、残っていたのね」
棚の隙間に埋もれるように置かれた、一冊の古びた書。
《光軸擾乱式・断章》。
その背表紙には、警告の刻印──“使用者に神格の保証なし”の文言が刻まれている。
彼女はそれを両手でそっと持ち上げ、表紙にそっと触れる。
「神の声が届かないなら……この手で引き戻してみせる」
小さく息を吸い、ページをめくる。
すると、文字がまるで息を吹き返したように、赤く輝いた。
──《代行の式》。
《光の位階を一時的に保持し、神の断絶を超えて力を通す》
《使用者の精神安定度により結果変動》
《副作用:侵蝕、光熱圧縮、神格同調暴走の恐れあり》
「私には、それだけの覚悟がある……。だって……私は聖女ユリナ。リュシア様の代行者なのだから」
その瞳に、かつての柔らかい慈愛はなかった。
あるのは、焦燥。証明欲。自壊的信仰。
彼女は祭壇に書を広げ、術式を構築しはじめた。
光の環が、静かに足元に浮かび上がる。
──その瞬間だった。
低く、囁くような“別の声”が、書の奥から滲んだ。
《……ようやく……見つけた……空いた座……誰が……代わる……?》
「……え?」
ユリナが顔を上げた時、書の中心から吹き上がる白光が、わずかに黒を帯びはじめていた。
「……これは、リュシア様の……力じゃ……ない……」
ユリナの震えた声が、光の渦の中に消えた。
祭壇を中心に膨れ上がった光輪は、通常の神託と違い、輪郭が歪んでいた。
中心にあるはずの聖印──リュシアの紋章──は浮かばず、代わりに黒い“点”が脈打っている。
「この声……誰なの……? リュシア様じゃない……じゃあ、いったい……」
だが答えは返ってこなかった。
代わりに、“黒の祝詞”がユリナの耳へと流れ込んでくる。
《光を奪え。均衡を乱せ。座は空いている。力を与えよう、代行者よ》
「違う……これは……違う……!」
拒絶の言葉とは裏腹に、術式は止まらない。
光輪は次第に黒に蝕まれ、ユリナの髪の先がほんのわずかに、霜のような白に染まっていく。
──それでも、ユリナの両手は止まらなかった。
「……奪われたままなんて……嫌……!」
彼女の心にあったのは、ただ一つ。
「証明しなければならない」という、焦燥と執着。
その瞬間、白黒混濁する光が一閃し、天井を突き抜けて空へと昇る。
王都全域が、一瞬にして白昼のように照らされ、
……そして、次の瞬間、半径三百メルスの範囲が、凍結した。
氷の静寂とともに、神殿に響く警報。
「緊急神格干渉反応――正規系統外の信号! 識別不能! 再試行、無応答!」
僧兵たちが騒然とする中、一人の神官が顔を引き攣らせてつぶやいた。
「まさか……これは、“外”だ……!」
別の存在。
神々ですら制御できぬ、神界の外側──“外なる神格”。
それが、ユリナの招いた“奇跡”の正体だった。
凍りついた大広間の床を、ユリナの衣が擦る音だけが響いていた。
壁沿いに控えていた神官たちは、距離を保ったまま、誰も口をきけずにいた。
そのうちの一人が、意を決して進み出た。
「ユリナ様……その光……“聖女の系統”ではありません。
神界の指紋認証が通らず、解析も不能です」
ユリナはその言葉に、顔だけをゆっくりと向けた。
微笑んでいた。
「では、私が“神”と認められなかっただけですね?」
「いえ、そうではなく――」
「ええ、わかっています。私に、神が微笑まなくなった理由。
……全部、あの女のせいだわ」
言葉の端に、焦げたような情念が滲む。
拳を握ったユリナの足元で、白く霜が広がった。
「“パン”で癒され、“技術”に祈り、“火”に救いを求める。
リディア・クロウレイン。あなたは、信仰を奪った」
再び光が奔り、背後に浮かび上がったのは、三叉の聖槍――しかしそれは、リュシア神の神具とは全く異なる、暗銀色のものだった。
それを見た神官たちは思わず一歩退く。
「……ユリナ様、それは……」
「“神”の槍です。“神”が私に力をくれたのです。
だから私は、それを使って“偽神”を討つだけ」
宣言とともに、三叉の光槍がユリナの手に収束する。
周囲の空気が凍り、白い霧が彼女の周囲を包む。
光の中に混ざる、かすかな黒。
それは、彼女が信じた“神の証”ではなく――
――“外なるもの”が囁いた、力の残滓だった。
「私が神であることを、あの子に見せつけなければ……!」
王都の上空を、三重の光輪がゆっくりと回転し始める。
聖都リュゼリアの空に、“異端の奇跡”が天幕を描いた。
「聖女ユリナ様、どうか、お考え直しを――!」
侍従長の声を背に、ユリナは振り返らなかった。
荘厳な神殿の門を越え、煌々と照らす三日月の光の下で、ただ一歩、また一歩と前へ進む。
その背には、装備を整えた審問官部隊が無言で従っていた。
彼らの目に映るユリナの背は、信仰か、それとも畏れか、どちらか判然としないものを纏っている。
「私の神託は消えても、光は消えていません。
“あの女”が信徒を惑わせるのなら――私が、信仰を取り戻すだけです」
呟くその声に、震えが混じっていたのは、寒さのせいではない。
彼女の中に宿る力は、今や自身の制御を外れつつあった。
白銀の衣が夜風にたなびくたび、その裾からは淡い光粒がこぼれ落ちる。
だが、その光の一部が淡く墨を垂らしたような影を持っていることに、気づいている者は少なかった。
馬が並び、道が開ける。
王都を出る列車のように、整然と、そして静かに。
――やがて、ユリナは馬車に乗り込むと、薄く目を閉じた。
「リディア・クロウレイン。
あなたの偽りの奇跡を、この手で――終わらせる」
審問部隊、総勢四十。
その全員が、神の正義の名のもとに、辺境を目指していた。
そして、彼らの出発を遠く離れた神界の片隅で、誰かが静かに見つめていた。
「……人の器に、もう一つの声……。なるほど、門は開かれていたのだな」
その者の姿は明かされぬまま、ただ虚空へと溶けていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この話では、登場人物それぞれの“正義”がすれ違いはじめます。
ただ、善悪を一刀両断する物語には、しません。
世界は複雑で、信じるという行為もまた、人によってかたちを変える。
リディアの静けさと、ユリナの叫びが交差するそのとき、
あなたが心を寄せたのは、どちらだったでしょうか?
次回、物語はひとつの山場を迎えます。
よろしければ、もう少しだけ、お付き合いくださいませ。
それではまた、次の回でお会いしましょう。
心からの感謝と共に。




