審問官、村に至る
いつもお読みいただきありがとうございます。
この第二十三話では、これまで“のどかな異端”だったリディアの存在が、ついに教会の正規組織と衝突する段階に入りました。
異端というラベルが貼られ、信仰の名を冠した“正義”が動き出す中で、村人たちの心は揺らぎ、リディアの工房は“言葉なき抵抗”を選びます。
神を名乗ることも、戦うこともせず、ただ「パンを焼く」という彼女の姿勢。
それが、この物語の中でどれほどの重みを持ちうるか……ぜひ静かに感じ取っていただければ幸いです。
本編、どうぞお楽しみください。
「……来たぞ。黒衣の馬車だ」
まだ朝の霞が完全に晴れきらぬ村の外れに、異様な列が現れた。黒革で覆われた重厚な車体、曇り一つない銀の紋章、鎖のように静かに揺れる旗――すべてが、“教会の意志”そのものであった。
最初に口を開いたのは、村の老人だった。「あれは……王都の第七神殿直属。異端審問部隊だ。俺の若い頃にも一度だけ見た。魔女を連れて帰った連中だ……」
誰が命じたか、誰のためか。村の誰も、それを口にする者はいなかった。
道沿いの畑で鍬を止めていた青年が、ごくりと喉を鳴らした。「なあ、リディア様が……何か、悪いことを?」
その問いに答えた者はいない。
先頭の馬車から降り立ったのは、黒衣の中でもひときわ白い仮面をつけた男だった。仮面は人間の感情を映さぬよう、無表情を模して彫られている。彼は村人を一瞥し、無感情に告げた。
「この村に、異端の気配がある。信徒の再洗礼と、記録の聴取を行う。協力を拒めば、神法第六十三条に則り――不浄地と認定する」
沈黙。
子供のすすり泣きが聞こえたのは、その直後だった。
「審問は、すぐに始まる」
仮面の男が静かに言った。
そして――村の時間が、少しだけ止まった。
「異端だって……?」
村の広場では、審問官の通達を受けて、噂が雪崩のように広がっていた。
「リディア様が? でもあの方がいなければ、去年の冬は越せなかったのよ……」
「パンで病が癒えるなんて、神の祝福そのものじゃねえかよ……」
「いや、それこそが異端だってことらしい。神を模倣してるとか……」
「模倣? パンが……?」
言葉の綾と感情が渦巻き、村人たちは互いの顔を見合う。信仰の揺らぎが、目に見えぬ波紋となって空気を濁らせていた。
その中央を、黒衣の審問官たちが無言で通っていく。彼らの歩みは速くもなく、遅くもなく。まるで「拒絶が許されない」と身体に刻まれた者たちの足取りだ。
「……工房だな。中心の歪みは、そこにある」
仮面の男がつぶやき、道の先を見据えた。小麦の香りが風に乗って鼻をかすめる。
その香りに、彼の眉がわずかに動いた。
工房前、すでにリディアは窯の火を調整していた。あたりには淡い香ばしさと発酵中のやさしい酸味が漂っている。彼女は、審問官の姿に目もくれず、火加減を睨みながらつぶやいた。
「……外が騒がしいですわね。こんなときに限って、湿度が安定しませんこと」
ぷるるが横から顔を出す。「ぷるぷる(さっきから黒いのが五人くらいこっち来てるぞ)」
リディアはふっとだけ首を傾げ、「あら、パンの配達かしら」とまじめな顔で答えた。
次の瞬間――
「開門を。神法により、異端聴取を執行する」
審問官の声が、工房に響いた。
リディアは……まだパンの生地に指を沈めていた。
リディアがふと顔を上げると、工房の扉の向こうに、黒衣の男たちの影が映っていた。
「神法第七項、異端認定の疑いがある者に対する立ち入り捜査を許可する」
ひとりの審問官が、仮面の奥で口元だけをわずかに動かしながら、無感情に宣言した。
「工房の責任者、リディア=クロウレイン。応答を」
リディアは少しだけため息をつくと、生地を布巾で包んで脇に置き、袖を軽くまくった。
「今は発酵の大事な段階ですの。これ以上、空気を乱されると困りますわ」
と、その瞬間――
《結界起動。認証コード:クロウレイン式防衛網・非致死鎮圧型》
空間が揺れた。
工房の石壁に、淡い金色の光が縁取りのように走り、天井から床、そして扉の周囲にまで――まるで織物のように複雑で繊細な、魔導式陣が浮かび上がった。
「魔導防衛網、展開完了……!」
審問官たちが反射的に身を引く。だが光は攻撃を仕掛けるわけではなかった。
代わりに――空気が、変わった。
工房周囲の気温が、ほんの数度上がったのだ。冬の冷気を和らげるように、じんわりとした熱が流れ、パン窯の前のようなぬくもりが辺りを包む。
「この結界……あったかい……?」
仮面の審問官が低くつぶやいた。
「……非致死の熱伝導式、ですわ」と、リディア。「皆さまが騒がしすぎるので、パンが割れてしまうの。ですから、少しだけ鎮めるように」
その穏やかな言葉と裏腹に、光の繊細な結界はまるで生き物のように波打ち、侵入者の熱量を制御し始めていた。
「神を真似るな……」一人が低く唸った。
リディアは、うっすらと笑った。
「いいえ。私はただ、よいパンを焼きたいだけですの」
その言葉が、村人たちの胸にじわりと響いていた。
「工房前、異端の証拠あり。即時拘束の準備に入れ」
審問官の一人が冷たく言い放つと、背後の黒衣の部隊が一斉に構えた。
だが、村の広場に集まっていた村人たちが、ざわりと波打った。
老婆がひとり、審問官の前に立った。
「待っておくれ。あのお嬢さんがいてくれなかったら……うちの孫は、この冬、きっと越せなかった」
次いで、農夫の男が立ち上がる。
「リディア様のパンがなけりゃ、収穫期に倒れてたやつも多いんだ。あの発酵酵母、体に効くんだよ」
審問官の仮面が、わずかに首を傾げた。
「……民間人の感情は、神法において判断基準たりえません。癒し、救済、祝福――その定義は、神にのみ許された奇跡である」
「けど!」若い母親が叫んだ。「私はこの手で、それを“受け取った”の。奇跡かどうかは知らない。でも、私たちの暮らしを……誰よりも優しく変えてくれた」
ざわ……ざわざわ……と、群衆が揺れ出す。
それは怒号でも抗議でもなかった。ただ、言葉にならぬ「揺らぎ」だった。
信仰を教会に教わり続けてきた民たちが、初めて“別の形の救い”を体感し、その矛盾に声を詰まらせている。
審問官はその様子を見つめ、手の中の小型巻物を開いた。
「それが異端なのだ。技術で民を救おうとする行為は、神の座を奪う試みそのもの。教会は、それを許さぬ」
その声が冷たく響く。
だが、リディアは静かだった。
工房の扉を開けて、外に出てきたリディアが、静かに言った。
「皆さま、どうか、混乱なさらぬよう。私は神ではありませんし、英雄でもありません」
風が、工房の窯の香ばしい香りを運んでくる。
「ただ、日々、パンを焼いているだけの……少し技術のある、職人でございますわ」
その言葉に、沈黙が落ちた。
リディアが言い終えるや否や、工房の壁面に組み込まれていた古代魔導紋が、一斉に淡く輝いた。
「防衛式展開確認」
冷ややかな機械音が響く。
「非致死性鎮圧モード・段階一。気温制御・音波拡散・魔力中和展開準備完了」
工房の屋根から、透明な膜のような結界がぽたり、と村の空間を包むように降りていく。風が収まり、空気がぴたりと澄む。魔力の匂いが静かに中和され、音の粒子さえ丸くなるような静寂が広がっていく。
「っ……! 魔力感知が遮断されていく……!」
審問官のひとりが警戒するように構え直す。
「これは……戦闘ではない」
神官長がぽつりと呟いた。「術式解析……“沈静化構造式”か? こんな緻密な……」
「工房の鎮圧モードが起動してしまいましたの。申し訳ありません、少々音や振動に過敏でして」
リディアがいつもの口調で申し訳なさそうに言った。
「……発酵中のパンに影響が出るんですのよ。皆さまの足音と騒音では、酵母が暴れますの。焼き上がりが不安定になりますし、香りも」
「……これは、魔術か?」
審問官の中で、最も年嵩の者がぽつりと呟いた。「それとも……」
その時、膜の内側にいた村の子どもが、ふと声を上げた。
「……あったかい」
その小さな声は、意外にも誰の耳にも届いた。
たしかに、工房から拡がる防衛結界は、冷たさでも殺気でもなく――
まるで春の日差しのような、ぬくもりを持って、周囲を包み込んでいた。
リディアは言う。
「どうか、お静かに願いますわ。私は戦うつもりはありません。ただ――」
彼女はふわりと笑って、
「パンを焼くだけですのよ」
村人たちが再びざわめき出したが、それは先ほどとは違う。
温もりが、人の心を静かに揺らしはじめていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
この回では、信仰と民意、そして“癒しと鎮圧”という逆説的なテーマをもとに、
リディアの工房が初めて「防衛」を行うという描写をお届けしました。
それは決して攻撃ではなく、彼女の持つ“世界との距離感”を象徴する、柔らかな境界線だったはずです。
次回はいよいよ聖女ユリナの“崩壊の兆し”が明確に描かれます。
焦燥と孤独の中で、信仰の力がどんな変質を見せるのか。ぜひ、続けてお付き合いください。
感謝を込めて。




