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異端の名はリディア

「クロウレイン……だと?」


古びた神殿議事堂に、重々しい声が響いた。聖務録の朗読が終わると同時に、聖導官たちは各々の席で視線を交わした。


中央卓に立つ老大司教が、重く口を開いた。


「この名が記されたのは、およそ百七十二年ぶり。我々が恐れてきた血脈が……再び現世で灯ったという報告だ。」


「パン職人にすぎぬ女が、“神の奇跡”を模倣していると……?」別の神官が訝しげに眉をひそめた。


「模倣などという次元ではない。回復、浄化、治癒、気象制御に結界展開……いずれも“信仰”ではなく“魔導技術”で再現されている。しかも、それが“喜捨”ではなく“日常”として行われているのだ。」


静寂の中、誰かが息をのむ音が響いた。


「このままでは……神への信仰が、パンと結界の前に敗れる。」


「異端審理委員会より報告書が届いております。」


若い司書が震える手で書簡を差し出した。老大司教はそれを一読し、ゆっくりと頷いた。


「……“魔導による日常奇跡は、信仰の特権を破壊する”。記すまでもない。“神の座を脅かす者”は、“神敵”として討つ。それが我らの法だ。」


重々しい沈黙のあと、金色の蝋を垂らした封蝋が焼かれた。


「神敵“リディア・クロウレイン”に対する、“正義の審問”を発令する。」


その言葉を聞き、誰よりも早く動いたのは――


「わたくしが参ります」


ユリナだった。


その場の視線が一斉に彼女に注がれた。


真っ白な聖衣に身を包んだユリナは、卓の中央に立ち、光を宿した瞳で老大司教を見つめた。


「神託が途絶えた理由も、信徒たちが惑う理由も……全てあの女にあります。神の座を騙るなら、わたくしが真の光を示してみせましょう」


「……その意志、確かに受け取った。だがユリナ、これはただの異端審理ではない。貴様の感情ではなく、神の名のもとに……」


「神は、信徒を見捨てません」


ユリナの口調は穏やかで、笑みすら浮かべていた。


だがその背に――金糸の光輪が“黒”を滲ませていることに、誰も気づかなかった。


彼女は一礼すると、くるりと踵を返した。


広い聖堂の回廊を、ただ一人で歩く。


その歩みに合わせて、外套が揺れ、光粒子がきらきらと散っていった。


だが――その足元には、誰にも見えぬ“影”が一歩ずつ重なるようにして寄り添っていた。


リディアの名を、唇の奥で呟きながら。

「……クロウレイン砲が、起動したと?」


その一言が落ちた瞬間、荘厳な大聖堂の空気が揺らいだ。高窓から射し込む光が彩る円卓の中心、教会最上位評議会。十二名の大司教が並ぶその場で、誰もが同時に口を閉ざした。


「観測記録はこちらに」

記録官が一歩進み、卓上に投影結晶を並べる。淡い光とともに、辺境上空に立ち昇る雷光柱の幻影が浮かんだ。それは、神託の時にしか現れぬ“神域の徴”と寸分違わぬ輝きを放っていた。


「発信源は……辺境、クロウ村南端。農村区画に設置された工房より発せられたと見られます」


「だがクロウ村は放棄予定の準無人領ではなかったか?」


「いいえ。記録上、追放令嬢――“リディア・クロウレイン”の名が登録されています」


沈黙が落ちる。


最年長のラフィーネ大司教がゆっくりと口を開く。「クロウレイン――古王家の名だ。過去に神域砲を生み出した“神敵にして設計者”の血統だと記憶しているが」


「神の奇跡を、人の手で模すなど……異端を超えた“冒涜”だ」

保守派のヴァール大司教が口を尖らせる。「それがたとえ病を癒し、命を救っていたとしても、だ」


若い補佐官が控えめに手を挙げた。「あの……その工房、付近の病村で“無償の癒し”を提供しており、死亡率が激減したとの報告も……」


「沈黙を」

ラフィーネが冷たく言い放った。


「神がなさることと、似たような結果を人が出すことは、違う。奇跡とは信仰の果実。技術の模倣とは似て非なる、“偽果”だ」


記録結晶が音もなく収束し、静寂が訪れる。誰もがそれぞれに、世界が揺れたことを感じていた。


「議題は一点――この“神を模す異端”を、教義に照らしていかに裁くか」


そして、ついにその名が正式に声にされた。


「異端候補、リディア・クロウレイン。討伐対象として、議案提出を要請する」


十本の羽根筆が一斉に紙面を走った。名も知られぬ辺境の工房に、今、教会最大の審問の火種が落とされたのだった。


「このパン、病人に食べさせたら……熱がすっと下がったのよ」

「私の子なんて、もう寝たきりだったのに……昨日、自分で立って――」


王都北部の第五市場区、古びた礼拝堂の裏庭。簡素な机の上に並べられた焼きたてのパンは、見るからに地味で、祈祷も祝福も受けていない。にもかかわらず、列は長く途切れない。


「祈っても祈っても癒えなかったのに、このパン一つで……」

「神の御業じゃなくて、あの“工房の娘さん”の技術なんだって」


ささやきは風のように民の間を這い、信徒たちの心を揺らし始めていた。礼拝堂の若い神官が眉をひそめながら、信者の会話に耳を傾ける。


「……癒しの御光は、神の手によってもたらされるもの。パンなどが、それに代わるなどと……」


だが口にした瞬間、自らの言葉に不確かさを覚える。あの子供の顔――あの笑顔と回復した姿を見た者たちは、“奇跡”という言葉の意味そのものを再考し始めているのだ。


「工房のパンがすごいんじゃない。あの人が、誰よりも人の苦しみに向き合ってくれた。それだけだ」

「じゃあ、それが神様と、何が違うっていうのさ?」


神官は答えられなかった。


やがてその報告は、ふたたび教会中枢へと届く。


『民の信仰、対象転移の傾向あり。リディア=“癒しを齎す象徴”として独立信仰化の兆候』


この“静かな革命”が、やがて炎に変わることを、まだ誰も知らない。


……ふわり、と光が揺れる。

視界いっぱいに広がる白い光は、優しいぬくもりではなく、どこか冷えた、空虚な明るさだった。


「……あなたは……誰?」


ユリナは夢の中で問いかけていた。目の前に立つ“誰か”に。だが、その背は見覚えのないようで、どこか見覚えがある。――長い銀髪が、ゆっくりと風に揺れていた。


その者は振り返らない。ただ、彼女に背を向け、静かに立っているだけ。


「返して……」

ユリナの唇がそう動いた。自分でも気づかぬほど自然に。

「私の“光”……私の“場所”……全部……」


声にしたとたん、空が裂けるような耳鳴りが走る。周囲の白が、ひび割れたように黒ずんでいき、世界は崩れ始めた。


「違う……私は……私は、リュシア様の聖女……誰にも、奪わせない……!」


目を覚ますと、天蓋の垂れ布が汗で貼りついていた。手のひらには、爪が食い込んだ痕。


「……あの女……また、夢に……」


布団の端を握り締め、ユリナは震える唇で小さく呟いた。


「なんで……あんな、ただの……追放されただけの……女に……」


窓の外、夜明けの前の鈍い空が、何かを告げているように重く、静かだった。


「このままでは――神の座を脅かす、偽なる光が教会を覆い尽くす」


高位聖堂会議の一室。荘厳なステンドグラスの光を受けながら、年老いた大司教の声が硬く響いた。


数名の枢機卿がうなずく。前線から届いた報告にはこう記されていた。

《辺境より“神格干渉に酷似した波動”が繰り返し検知されている。》

《現象源は不明。ただし“クロウレイン砲”稼働時期と一致。》


「その女……リディア=クロウレイン。確かに“神を名乗った”記録はない。しかし、現象が“信仰”を生むならば、現実がどうあれ異端だ。」


「しかし……」

唯一反論の姿勢を見せた若い神官が手を挙げた。「彼女は神に祈ったことも、信者を集めたこともないと聞きます。信仰とは、本人の意図より民の心が……」


「だからこそ、恐ろしいのだ」

年長の枢機卿が切り返す。「意図せぬ神性。無自覚の支配。――それは正規の神格よりも、遥かに異質で、危険だ」


「……我らの神を模して“救い”を提供するなど、それは神への冒涜に他ならぬ。形式ではなく、現象が信仰を汚染するのだ」


会議の空気は冷たく沈みきった。そして、机の上に一枚の令状が滑らせて置かれる。封印の蝋が、赤黒く滲んでいた。


「『神敵審問特例法 第八条:信仰を模す術式を用いし者に対し、異端審問を経ずして討伐執行を可とする』」


──署名、全会一致。


審問を飛ばし、即時討伐。


名目はこう記されていた。


「リディア・クロウレイン:神敵指定。討伐対象者第一号」


「クロウレイン……だと?」


古びた神殿議事堂に、重々しい声が響いた。聖務録の朗読が終わると同時に、聖導官たちは各々の席で視線を交わした。


中央卓に立つ老大司教が、重く口を開いた。


「この名が記されたのは、およそ百七十二年ぶり。我々が恐れてきた血脈が……再び現世で灯ったという報告だ。」


「パン職人にすぎぬ女が、“神の奇跡”を模倣していると……?」別の神官が訝しげに眉をひそめた。


「模倣などという次元ではない。回復、浄化、治癒、気象制御に結界展開……いずれも“信仰”ではなく“魔導技術”で再現されている。しかも、それが“喜捨”ではなく“日常”として行われているのだ。」


静寂の中、誰かが息をのむ音が響いた。


「このままでは……神への信仰が、パンと結界の前に敗れる。」


「異端審理委員会より報告書が届いております。」


若い司書が震える手で書簡を差し出した。老大司教はそれを一読し、ゆっくりと頷いた。


「……“魔導による日常奇跡は、信仰の特権を破壊する”。記すまでもない。“神の座を脅かす者”は、“神敵”として討つ。それが我らの法だ。」


重々しい沈黙のあと、金色の蝋を垂らした封蝋が焼かれた。


「神敵“リディア・クロウレイン”に対する、“正義の審問”を発令する。」


その言葉を聞き、誰よりも早く動いたのは――


「わたくしが参ります」


ユリナだった。


その場の視線が一斉に彼女に注がれた。


真っ白な聖衣に身を包んだユリナは、卓の中央に立ち、光を宿した瞳で老大司教を見つめた。


「神託が途絶えた理由も、信徒たちが惑う理由も……全てあの女にあります。神の座を騙るなら、わたくしが真の光を示してみせましょう」


「……その意志、確かに受け取った。だがユリナ、これはただの異端審理ではない。貴様の感情ではなく、神の名のもとに……」


「神は、信徒を見捨てません」


ユリナの口調は穏やかで、笑みすら浮かべていた。


だがその背に――金糸の光輪が“黒”を滲ませていることに、誰も気づかなかった。


彼女は一礼すると、くるりと踵を返した。


広い聖堂の回廊を、ただ一人で歩く。


その歩みに合わせて、外套が揺れ、光粒子がきらきらと散っていった。


だが――その足元には、誰にも見えぬ“影”が一歩ずつ重なるようにして寄り添っていた。


リディアの名を、唇の奥で呟きながら。

ここまでお付き合いくださり、誠にありがとうございます。


“神を模した者”として、パン職人の少女が断罪の俎上に上がる――

理不尽と執念の輪郭が、徐々に明らかになってまいりました。

ですが、彼女自身はまだそのことを知らず、きっと今も生地をこねていることでしょう。


次話では、物語の核となる存在が地下でそっと目覚めます。

引き続きご覧いただければ幸いです。

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