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女神の接吻、受理待ちですわ

ようこそ辺境の工房へ。

村の片隅で静かに焼かれていたパンが、なぜか神々や王族を巻き込む事態になってまいりました。今話では、訪れる側と迎える側の“温度差”が、特に鮮明になります。

物語がどれほどスケールアップしようとも、彼女は今日もパンを焼き続けます。

ほんの少しの香ばしい驚きを、あなたの読書に添えられますように。

――遠くの空が、ひとすじ、裂けた。


裂け目からあふれる光は白銀に輝き、まるでこの世のものとは思えない神聖な粒子が大気を洗っていく。音もなく風が止まり、村の時間が凍る。


「……な、なんだあれ……!」


最初に声をあげたのは、村長だった。工房裏の畑にいた彼の両手が、鍬を持ったまま宙に浮いていた。畑の隅で洗濯していた老婆は膝をつき、言葉もなく祈りのような手を組む。


空に――それはいた。


柔らかな光の環を背に、宙に浮かぶ女神。

髪は流れるような白金。まなざしは朝焼けのごとく、けれどその中心には言葉にできぬ熱と痛みを抱えていた。

女神リュシア。その姿が、辺境の村に降臨していた。


「光の神……っ、女神様、直々のご降臨……っ!」


騎士のひとりが叫んだ。

その声が合図となったように、村人、神官、見物人――すべてが膝をつき、ひれ伏した。


祠の神職たちは金属製の鈴を振り、聖句を叫び、涙すら浮かべている。

女神の出現は神託の時代ですら稀であり、ましてや辺境などという場に直接現れるなど――神話級の出来事だった。


「女神様……!」


「まさか、我らがこの目で……!」


「これが、伝説の“恋愛神託”か……?」


村の空を、白い羽が舞っていた。光の粒子が空気にしみ、まるで世界が祝福に満たされていくような錯覚を与える。


しかし――


「……あら、気圧が下がってきていますわね。酵母が暴れそうです」


そう呟いたのは、ひとり工房の中。

リディア・クロウレイン。


窯の前にしゃがみ込み、頬杖をつきながらパン生地を睨みつけていた。


彼女の表情は真剣そのもの。だが、その目に神も羽も入っていない。


「この湿度と光量……紫外線干渉も高め。膨らみが想定より十二パーセント速い……困りましたわね。形が崩れるかもしれません」


その傍らには、いつものスライム、ぷるる。

工房の窓から外を覗き込み、声もなく震えていた。


「ぷる……ぷるる……(あれ神だぞ……神そのものだぞ……)」


「何か言いました? 気圧ですの?」


「……ぷる(なんでもないです)」


そのころ、外では騎士が群衆に向かって叫んでいた。


「これより! 女神リュシア様が! この村にて神託を発せられる!」


「神託!? じゃあ、あの娘は……!」


「もしかして、選ばれし者って……!」


「リディア様が……女神の、伴侶……!?」


見物人の間に熱狂と動揺が渦巻く。

神官たちは懸命に儀式の台座を設け、光のラインを引き始めていた。


その中心――まさに神が降り立たんとする場所は、リディアの工房玄関の真上だった。


それでも彼女は、パンに夢中であった。


「リディア・クロウレイン。」


澄んだ声が村の空に響いた。


それは風のようでもあり、鐘の音のようでもあり、耳に入った者すべての心を震わせた。女神リュシアは静かに降り、工房の扉の前に立つ。周囲は神聖な光に包まれ、世界の色が淡くにじむようだった。


だが──その扉は、開かない。


中では、相変わらずパンの発酵タイミングを見極めようと、リディアが指先を小刻みに動かしていた。


「……この温度では、外殻がやや硬くなりそうですわね……もう少し下げたいけれど、開けたら風で崩れる……」


ぷるるがじわりと滲むようにリディアの肩にのぼり、耳元で囁く。


「ぷる……(開けた方がいいと思うぞ……今、世界の中心になってるの……お前だぞ……)」


「風が強いのですか? 困りますわね……焼き加減が難しいんですのよ」


「……ぷる(違う、そっちじゃない)」


外では、すでに女神が工房の前に立ち、手を扉にそっと添えていた。リディアの名を再び呼ぶ。


「リディア。私は、あなたに恋をしました。」


村が、世界が、凍りついたように静まり返った。


あまりに唐突で、あまりに真剣な、神の告白。


兵も村人も、膝をついて祈る者も、誰もが女神のその言葉に心を縫いとめられた。光の神リュシアが、人間に対し、はっきりと「恋」という言葉を使った。それだけで宗教革命すら起こしかねない瞬間だった。


けれど──


工房の扉はまだ、開かない。


ぷるるが、リディアの頬をぺちぺちと叩いた。


「ぷるっ!(おい、あけろ!!)」


「……もしかして、何か来てるんですの?」


リディアはようやく顔を上げ、扉へ近づいて、そっと開けた。


差し込む光。


そこに立つ、完璧な神性を纏った少女。


女神リュシアは静かにほほえんだ。


「リディア・クロウレイン。私は、あなたを──一人の女性として愛しています」


一瞬、リディアのまなざしが揺れた。


けれど彼女は、まっすぐに返した。


「申し訳ありませんが……申請順に対応しておりますの。お名前とご所属、提出していただけますか?」


リュシアのまなざしが、一拍、止まる。


「……え?」


「今、パンが焼ける時間帯でして。恋愛の優先順位は、三十七番目に設定されておりますの。番号札、お持ちです?」


ぷるるが、懐からちぎれた番号札を掲げた。「ぷる(神様でも例外なし)」の目である。


リュシアは──まるで、神としての尊厳を忘れたかのように、顔を真っ赤に染めた。


「なっ……!」


その叫びと同時に、彼女の背後で空に大輪の虹が広がった。空気が弾け、光が村中を包む。

それは“恋愛神託の虹”──女神の想いが受理された証であり、信徒たちは一斉に土下座した。


リディアだけが、ぽかんとした顔でその空を見上げた。


「……今日の空、彩度が強いですわね。焼き加減に注意が必要です」


ぷるるが、うなずいた。


「ぷる(パンは神をも超える)」


「あなたを、一人の女性として――愛しています」


女神リュシアが言い終えた瞬間。

辺境の空に、神聖光輪が重なるように幾重にも広がり、白銀の羽根がふわりと舞い始めた。


それは光の祝福か、あるいは神界からの喝采か。

村人たちは誰ひとり言葉を発せず、膝をついたまま神の動向を凝視していた。


が。


「……ああ、なるほど。やはりこの低気圧、影響が出てますわね」

リディアはパン窯の前から一歩も動かず、神の告白に「空気の乱れ」の原因を見出していた。


「ぷる……(そこ!?)」

スライムがじと目で見上げたが、リディアは窯を開け、焼き加減を丹念に確認しながら首を傾げる。


リュシアは一瞬、その場で硬直した。

視線は、己の言葉ではなくパンへ。

返答ではなく、焦げ目の深さを見つめるその銀の瞳に、女神は初めて「人としての羞恥」を知った。


「い、いま……愛を……っ。わたくし、あなたに、勇気を……」


「そのお気持ちはありがたく、焼きたての香りと共に受け止めますわ」

リディアは軽く会釈し、トレイを取り出して丁寧に並べた。湯気の立つパンがひとつずつ神の足元に並べられていく。


「パン……?」

「“恋の神託”に適した配合ですわ。ほら、この酵母、活性化するとき微細な光粒子が生まれるのです。神の祝福にぴったりでしょう?」


リュシアは……言葉を失った。


恋が届かぬのではない。

それ以前に、自分が今、恋文を読んでもらえているという実感すらないのだ。


「わ、わたくしの、思いは……」

「もちろん順番は守って頂きますけれど、早めに申請していただけたのは評価いたしますわ。ぷるる、整理券番号を」


「ぷるぷる(0013番です)」

「ふふ、縁起のいい数字ですわね」

「あ、あの、縁起って……っ、愛とは……っ」


神の声がかすれる中――

村の空に、薄く、虹色の環が浮かび上がっていた。


それは女神の“恋慕の神託”が成就したときだけ現れるという、神界でも希少な現象。

しかし。


リディアは、それを見ながら言った。


「低気圧が反転しましたわね。気圧が上がる前に、あと一釜いきますわよ」

「ぷる(了解)」

「よろしければ、お並びの方々にも配布しますわ。数に限りがございますけれど」


神すらも列に並ぶ者の一人へと変えながら、パンは、焼かれ続けた。


「神託が降りたぞ……!」

「恋の虹環だ!あれは正真正銘、リュシア様の愛の証だ!」


村のあちこちで叫びが上がった。リディアの工房を囲んでいた者たちは次々に膝をつき、涙ながらに合掌する。


「この村は選ばれた!神の花嫁がいる!神の愛が……地上に!」

「神が愛する者、それが救世主クロウレインの継承者だ……!」


しかし、リディアは。


「ぷるる、気圧のせいで生地の発酵速度がまだ不安定ね。配合を微調整しますわ」

「ぷる(この空気でそれが最優先なの、ほんとすごい)」


リュシアは、完全に置いていかれていた。

神官たちは勝手に拝礼し、民は勝手に信仰を語り、リディアだけが「パン焼きの進捗」を冷静に監視していた。


「わたくし……言葉が……届いていない?」

リュシアがよろめきながら一歩下がる。すると、工房の影から、光とは異質の“粒子”がふっと舞い上がった。


「……っ、これは……魔導干渉波?」

女神の視線がパン窯の奥、まるで心臓の鼓動のように脈動する魔力源へ向けられた瞬間――


“……ようやく……見つけた……継承者……”


時間が止まったようだった。


声は工房の中から。

誰もいないはずの、パン窯の影から。

それは神ではない。

神では到底、持ちえぬ“機械の残響”のような声。


「……誰?」リディアが、初めてパンから視線を外した。

リュシアは目を見開いたまま、ひとつ震える吐息を漏らした。


「神ではない……あれは、“神器”……」


パン窯の隙間、赤く光る小さな“瞳”のような機構が、わずかにこちらを見た。


“クロウレイン式……継承者認証……再起動……開始”


そして再び、闇に沈んだ。


「……誰か今、喋りませんでした?」リディアが首を傾げた。

「ぷる……(もう、次元が違う……)」


誰も気づかなかった。

この瞬間が、“神器の人格化”の始動であり、世界の秩序がさらに一段階、揺らぎはじめた予兆であることに。


「……やはり、今のは――」


「申し訳ありません、お客様、少々お下がりいただけますか?」


リュシアが何かを告げかけた瞬間、リディアはそっと手を前に差し出していた。

その指先に握られていたのは、湯気の立つクロワッサン。

見惚れるほど丁寧な折りと焼き色、うっとりするようなバターの香り。


「焼きたてですわ。どうぞ」

「……」

「お口に合うかは分かりませんが、少なくとも心を込めて焼きましたのよ」

「…………えっ」


女神が受け取ってしまった。

告白どころか、自分が“客”として応対されていることに、リュシアはようやく気づいた。


「……あなた……私の話を……聞いて、いない……?」


「失礼、他の方がまだ並んでいますので」

リディアはくるりと身を翻し、パン窯の中を見やった。まだ数分、焼成時間がかかる。


後方では、神官たちが静かに整列していた。

礼服姿のまま、神々しさを保ちつつも、手にはしっかり「パン整理券」。


「まさか……神の使徒たちが、パンの列に並ぶ日が来るとは……」

「仕方ないだろう、公式神託に“受理待ち”と書かれていたんだ」

「我々の信仰の在り方、根本から見直す必要があるのでは……」


列は静かに、しかし厳粛に進んでいく。

まるで神殿の聖餐を求める信徒のように。


その光景を見つめながら、リュシアはかすかに唇をかんだ。


「わたくしは……想いを伝えに来たのに……何ひとつ、届かないまま……パンを渡された……」


スライムが、列の最後尾でメガホンのようなものを構えた。


「ぷるる(本日ぶんの焼き上がり、あと7ロット分ですー)」


リュシアは、焼きたてのクロワッサンを胸に抱いたまま、そっと列の脇に佇んでいた。

神としてではなく、誰よりもただの“ひとりの客”として。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

このお話は、世界の均衡とパンの発酵が同じくらい大事だと思っている、ちょっとずれた主人公が織りなす日常の中の非日常です。

今話では、恋も信仰も国家も、一枚の焼きたてに翻弄される姿を描いてみました。

次回からは、彼女の“知らないところ”で大きな波が動き始めます。

よろしければ、またお付き合いくださいませ。

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