婚約破棄、聖女、そして断罪
ようこそ再び。
舞踏会という名の檻の中で、いよいよ“宣告”の時間が迫ってまいります。
王太子の口から放たれるのは、恋か、断罪か、それとも――
一人の令嬢を前にした王族と聖女の思惑が、華やかな場に影を落としていきます。
彼女は何を失い、そして何を微笑んで手放すのか。
今話も、静かに見届けていただけましたら幸いです。
扉が閉まり、空気が収束する。
王太子エリオットが高座に戻り、右手をゆっくりと上げると──
「法務侍従、用意を」
その言葉に応じて、銀の巻物を抱えた年若い侍従が進み出た。
胸に王家の双獅紋をつけ、緊張した面持ちで壇の中央に立つ。
「只今をもって、リディア=フォン=クロウレイン嬢に対する『婚約破棄および爵位剥奪』の正式手続きを開始いたします」
ざわ、と貴族たちが湧く。
いや、“歓声”だった。
侍従は巻物をほどき、文言を読み上げる。
「王国法第六十七条、貴族婚約破棄条項に基づき、
当王太子は、正当なる理由を以て──令嬢リディアとの縁を断つものとする」
語られる“正当なる理由”は、冷たく、淡々と、無感情に並べられた。
「……聖女ユリナへの執拗な嫌がらせ」
「……神託を否定する発言」
「……魔力測定値“ゼロ”による貴族不適格」
「……王家の面目を損なう行為の数々」
そのたび、会場のあちこちで「うんうん」「当然だな」と頷く者たち。
演説のような法読みに、王子が重ねて言葉を発した。
「我は、聖女ユリナこそ、この王国における“真の加護”を受けし者と信ずる」
その名が出た瞬間、スポットライトのようにユリナへ視線が集中する。
彼女は白いハンカチで目元をぬぐい、小さな声で囁いた。
「わたくし……王子様に庇っていただけるなんて……申し訳なくて……」
涙に濡れた睫毛、伏せ目がちの表情、そしてそっと王子の腕を握る細い指先。
すべてが舞台女優のように“完璧”だった。
「リディア様は……ただ、わたくしが……邪魔だったのだと思いますの……」
言葉のたびに空気がヒートアップする。
貴族たちの表情は次第に“嗜虐”の色すら帯びはじめた。
だが、その只中にあって──リディアはただ沈黙していた。
舞台中央の椅子に腰掛け、扇をぱた、ぱた、とゆるやかに動かす。
視線も言葉もない。ただ、どこかを見ているようで何も見ていない。
ふと、呟いた。
「……退屈ですわね」
その声は誰にも届かず、届かせるつもりもなかった。
まるで──この劇場が、既に価値を失っているかのような声だった。
扇の骨を、ぱた、と鳴らす音が消えた頃──
王子が、まるで舞台の主役のように壇上から一歩、踏み出した。
「……皆の者。今宵、我が婚約者──否、元婚約者リディア=フォン=クロウレインの“罪状”を、改めて列挙する」
リディアが罪人であるかのような語調に、貴族たちはすでに“断罪ショー”の観客であることを受け入れていた。
拍手が、やや早すぎるタイミングで巻き起こる。
「第一。聖女ユリナへの嫌がらせ、陰口、排斥──」
「正義の名を借りた私的な迫害。これを我は、決して見過ごせぬ」
その言葉に、ユリナがハッと顔を伏せる。
涙の粒が床へと落ちた。わざとらしく響く音。
「第二。神託への疑念と否定──」
「真に神に選ばれた者を信じられぬ者に、王妃の資格はない」
ユリナは唇を噛み、震える指でハンカチを握りしめる。
まるで“処刑台に上がる姫”を演じるかのように。
「第三。測定不能な魔力量──いや、ゼロという結果」
「すなわち、王家と並ぶ者に最も必要な『力』が、君にはないのだ」
歓声。
「納得だ」「当然だ」「ついに決着か」と、会場の貴族たちは一様に膝を打ち、扇を掲げる。
観劇用の祝祭だ。もう誰も、婚約破棄が“政治的演出”に過ぎないことを隠してすらいない。
そんな中、ユリナが、王子の腕にしがみつくようにして顔を上げた。
「わたくし……こんな私が……王子様に守られるなんて……」
「それだけで、もう十分でございますのに……」
涙で潤んだ瞳。揺れる睫毛。かすれた声。
「でも……どうしても、リディア様のことは……っ、黙っていられなかったのです……」
「わたくし、ずっと……怖くて、毎晩泣いて……っ」
王子はその頭を優しく抱き寄せ、言った。
「我が妃に相応しきは、民に愛され、神とともに歩む者──そのような者でなければならぬ」
その姿に、会場からは嵐のような喝采が巻き起こった。
「これぞ理想の王子」「ついに悪が滅んだ」と、口々に騒ぐ。
そんな歓声の中心で、ひとりだけ──まるで別の場所にいるかのような者がいた。
リディアは椅子から動かず、ただ扇を閉じた。
その表情が、ほんの一瞬だけ引きつった。いや──“呆れ”とも“失笑”とも取れる微細な動き。
(……は?)
口元がわずかに動いたが、すぐに押し殺された。
誰にも見られていないと思ったその表情を──ただ一人、老侯爵だけが見ていた。
だが彼も、何も言わなかった。
なぜなら、ここは“喝采の場”であり、“正義の演劇”が続いていたからだ。
喝采の余韻が広がるなか、壇上に控えていた侍従が小声で告げた。
「……魔力量測の儀式は、明朝の予定にございますが──」
エリオットは首を横に振った。
「不要だ。今ここで行え」
その一言に、場がふたたびざわつく。
貴族たちの目が輝く。まるで、断罪に“最期の一刺し”が加えられるのを心待ちにするような熱気。
「この場で魔力“ゼロ”を見せしめにするとは!」
「さすがは王子殿下、“聖女の守護者”と呼ぶに相応しい!」
どこからか祝福の扇が高々と振られ、誰かが杯を掲げる。
壇下で控えていた公的測定士たちが急ぎ装置を運び込んでくる。
金属の台座に、精緻なルーンが浮かび上がった透明な測定球。魔力量を可視化する、王宮直轄の公器だ。
「準備完了しました!」
測定士が手袋を整えながら、リディアの方を見た。
「クロウレイン令嬢──いや、元令嬢。台座にお立ちください」
測定球が青く淡く脈打つ。
魔力を持つ者が触れれば、球内に数値が浮かび上がる仕組みだ。
だがリディアは立ち上がらない。
ただ、椅子に座ったまま扇を閉じ、その骨をゆっくりと指先で回す。
「……面白いことをなさいますのね」
測定士が眉をひそめる。「拒否されるなら、それ相応の──」
「拒否ではございませんわ」
ぴたり、と言葉を遮ってから、リディアはようやく立ち上がった。
静かな所作。まるで舞踏会の最初の一歩のように優雅に、彼女はゆっくりと歩く。
「“無能”を証明することで、皆様の娯楽となるのなら──どうぞ、お楽しみくださいませ」
その皮肉は、誰の耳にも届いていたはずなのに、誰も返さなかった。
まるで、“勝ちが確定した相手”にわざわざ噛みつくほどの価値を感じていないかのように。
リディアは測定球の前に立ち、そっと手をかざした。
淡い光が、彼女の手の平をなぞり、球の奥で数字がじわじわと……現れ──
──そして、止まった。
「……ゼロ。確認しました」
測定士の声が響く。
その瞬間、場が歓声に包まれる。
「はっはっはっ、本当にゼロとは!」「これは伝説に残るぞ!」
「魔導貴族の恥さらしだ!」
杯が高く掲げられ、誰かが「今夜は祝杯だ!」と叫ぶ。
リディアは測定球を見下ろし、小さく──ほんの小さく──目を細めた。
(……随分と、静かな数値ですこと)
だが、それ以上の言葉はなく。
彼女は再び、無言で一歩、後ろに下がった。
測定士の言葉が、広間の空気を完全に支配した。
「リディア=フォン=クロウレイン嬢──魔力量、確定ゼロ」
その響きは、判決の鐘だった。
会場は爆ぜるような歓声に包まれる。
「ゼロだ!」「まさか本当に!」「あれで今まで貴族気取りとは!」
貴族たちは一様に笑いながら杯を掲げ、椅子から立ち上がり、祝福する。
誰もが“誰かの不幸”を最高の娯楽として受け入れていた。
「見ましたか? あの目──完全に折れたわ」
「むしろ、あの無表情が滑稽でたまらない」
だがそのどれも、リディアの耳には届いていないようだった。
彼女は一歩、後ろへ下がり、測定球から離れると、そのまま扇を開き、そっと顔元にかざした。
エリオット王太子が前へ出る。
その目に、ようやく「憐憫」という装飾が浮かび始める。
「……もはや何も申すまい。リディア=フォン=クロウレイン。
貴女は魔力を持たず、貴族に相応しからず──」
──そして、その場にいた全員が知っていた。
これが、“追放”の前置きだと。
「本日をもって貴族籍を剥奪し、全ての爵位、土地、権限を無効とする。
追って王命により、辺境エルガル村への転送を命ずる──」
そこまで言ったところで、ユリナが王子の袖をそっと掴んだ。
「王子様……お願いです……私からも……」
目元に涙を浮かべ、下唇を噛む。声を震わせながら。
「リディア様が……たとえこんな仕打ちをしてきたとしても……わたくし、もう恨んでなどいませんの……」
「むしろ、どうか幸せになって……と、願っておりますの……」
貴族たちが再び歓声を上げる。
「聖女にして天使!」「慈悲深さが桁違いだ……!」
「これはもう、王妃に相応しい!」
リディアはしばらく黙っていた。
ユリナを一瞥する。ふわりとした髪、濡れた睫毛、震える肩。
そして、静かに息をつき、ひとこと。
「……測定とは、便利な免罪符ですこと」
その声に、何かがぴたりと止まった。
王子が眉をひそめる。「……今さら、何を言い訳する気だ」
「言い訳? 違いますわ」
リディアは扇を閉じ、その音とともに口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「──“真実”を問う声すら封じられるのですもの。
せめて少しは、うまく仕組んだつもりでいてくださいな。
そうでないと、愚かしさが際立ってしまいますもの」
言葉は、淡々としていた。
だが、そこには燃えるような激情も、涙も、怒りもなかった。
ただただ、“知性”と“諦念”と、そして“見下ろす視線”があった。
歓声は頂点に達していた。
「いやあ、見事な断罪劇だったな!」
「聖女と王子の愛、悪役令嬢の末路──完璧だ」
「今夜は飲み明かすとしよう!」
貴族たちは舞踏会という体裁を完全に脱ぎ捨て、“悪を裁いた英雄たち”の気分に浸っていた。
舞台の中心では、王太子とユリナが並び立つ。
ユリナはやや身を寄せ、王子の袖に指を添えるようにして小さく笑った。
「……本当に、わたくしでよかったのですか?」
囁くような声が、王子の胸に届く。
「ああ、誰よりも──お前が相応しい」
エリオットはそう言いかけて、ほんの一瞬だけ迷いを見せた。
視線の先で、リディアがまだ壇上に立っていたからだ。
彼女は、静かに頭を下げた。
扇を閉じ、その動作ひとつにすら気品が宿る。
一礼。それだけで、すべてを終わらせた。
歓声の中を通り抜け、彼女はひとことも発せずに会場を背に歩き出す。
誰も声をかけなかった。誰も、触れようとすらしなかった。
「……さようなら、“悪役令嬢”」
誰かのつぶやきが空気に溶ける。
そのとき、リディアの歩みにわずかな揺れが生じた。
ふと──彼女の視線が、ユリナの額に向いた。
そこに、ほんの刹那だけ、きらりと金色の紋様が揺らいだ。
神聖紋。
神に選ばれし者にのみ与えられる刻印──
本来なら、祝祭の場で高らかに披露されるべき“聖なる証”。
(……やはり、“神”に似すぎていますわ)
その思考も声にせず、リディアはただ瞼を伏せた。
何も知らぬ者のように、再び踵を返す。
扉へ向かうその背を、誰も見送ろうとはしなかった。
ただ一人、老侯爵だけがぽつりと呟いた。
「──あれが、“無能”と呼ばれた女か」
彼の声は、誰にも届かなかった。
リディアの影が扉の向こうに消えた時、舞踏会の空気は“勝者の祝祭”として完成していた。
お読みいただき、ありがとうございました。
形だけの愛、都合の良い正義、声の大きい涙。
それらがひとつの断罪として、堂々と宣言された舞踏会でした。
けれど、断罪される者が本当に“敗者”なのかどうか。
その答えは、静かに扇の陰で笑う彼女自身が、ゆっくりと示していくことでしょう。
次回は、断罪のその後――“追放”という名の新たな自由へ。
どうぞ、次の章でもお会いできますように。