神々の内部抗争
世界のどこかでパンを焼いている少女がいる。
けれど、その日常は、思いもよらぬ場所に波紋を広げていました。
本日お届けするのは、ほんの少し高い場所から見た、ほんの少し不器用な“心”のお話。
いつも通りの彼女と、変わり始めた誰か。
それぞれの立場で、それぞれの温度を抱えながら、静かに物語が進んでいきます。
今話も、どうぞごゆっくりお楽しみください。
星々が無数に瞬く天穹の彼方、時の流れが地上と異なる神界――
その最奥に位置する「白光の円環」に、神々の影が一柱ずつ降り立つ。
光神エル・ミルダの衣は万年氷のように透き通り、剣のような眼差しを集う神々に走らせた。「議題は一つ。“人間界における神格干渉値の異常上昇”について」
空気が凍る。
最初に震えたのは、議場の中心に投影された“記録映像”だった。
地上、辺境の村。
神でもない人間の娘が、神格領域の魔導炉を起動させ、雷雲を裂き、大気の法則すら書き換える──その映像に、一同が言葉を失った。
「この現象の中心人物、『リディア・クロウレイン』――その名が記録に浮かび上がっている。だが我々神界のいかなる記録にも、この者への神格付与履歴は存在しない」
そう口を開いたのは、理知神ファルトス。眼鏡を掛け、白金の巻物を開きながら声を張る。「これは規約違反だ。我々は、神ではない者に“神の領域”を触れさせぬと、千年前に定めたはずだ」
「──その者に“触れた”のは、誰か」
ファルトスの視線が、一人の女神に突き刺さる。
白金の髪、宝石を編んだような神衣。
女神リュシアは立ち上がると、まっすぐに前を見据え、答えた。
「私ですわ」
ざわり、と光が揺れる。
神々の後背に控えていた侍神たちがざわめき、円環の端では小神たちが顔を伏せる。
リュシアは一歩、壇の中央へと進み出る。「私は、“リディア”という名の娘を愛しています。神託の送信は、私の意思によるものです」
「恋? 神が、下界の人間に恋などと……!」
「神である前に、私は彼女の信徒です」
リュシアは一歩も引かぬ声音で続けた。「そして……信仰とは、想いから始まるものですわ」
静寂が数瞬の間、続いた。
次に発せられた声は、低く、重く、地の底から響くようだった。
「よかろう」
戦神ガルゼオスだった。
全身を鋼のような神鎧で包み、腕組みをしたまま彼は言う。「その娘は……あやつは、我ら神に媚びぬ。力を前にして、怯えもせず、筋を通す者だ。神以上に……潔い」
その言葉に、周囲がざわついた。
まさかの“ガルゼオス支持”。
これにより、事態は単なる審問から、“神々の分裂”へと傾いていく。
「ガルゼオス。お前のその言葉は、神界法そのものを揺るがすぞ」
そう言って立ち上がったのは、光神派の筆頭、“正道の光柱”を名乗る神・エルディオン。
長大な翼を広げ、その白金の鎧からは圧倒的な神威があふれ出る。
「神は、愛してはならぬ。神は、導く者であり、与える者であり、けっして“人間と並び立つ者”ではない。リュシア……お前はそれを忘れたか?」
リュシアは静かに首を振る。「違いますわ。神が人を導くのではない。共に歩くのです。彼女を見れば、それがわかる」
「ならば、お前も異端だ」
エルディオンが淡々と告げた。「あの人間は“神格干渉中枢”を無制限に起動させ、封印された術式を蘇らせている。
あれは――“神殺しの器”だ」
議場に緊張が走る。
「かつて、古の神代に我らを打ち倒した禁断の存在。リディア・クロウレイン……その血は、まさにその器に相応しい」
エルディオンは巻物を掲げ、光文字で満たされた神代の予言を浮かべてみせる。
──〈神の座に座す者、やがて器に還る〉
──〈剣の意志、裁きを背負い、継がれし王権を取り戻す〉
──〈名を忘れられし者こそ、全ての神域を超えん〉
「“名を忘れられし者”……それが、彼女か……」
神々の中にささやきが走る。
「我らが討たねばならぬ。目覚めきる前に」
この言葉とともに、光神派の複数の神々が立ち上がる。
彼らの背からは剣光が現れ、空間そのものが煌々と軋んだ。
だがその剣気を裂くように、戦神ガルゼオスが槍を床に突き立てる。
「やってみよ。ワシはリディアの剣でもある」
雷が走る。
「止めなさい!」
一喝が飛ぶ。
その声に、全神が沈黙する。
女神リュシアだった。
彼女は静かに、穏やかに、それでも確固たる意志を持って告げる。
「私が……彼女のもとに降り立ちます。神託でもなく、威光でもなく、愛を伝えるために」
神々の目が見開かれる。
「神の身を以って、一人の人間に告げるのです。これは、私の信仰の物語……いえ、愛の物語ですわ」
女神リュシアの宣言に、神界評議の円卓は凍りついた。
「……神が、恋をする、だと?」
重苦しい沈黙のなか、どこからともなく漏れる嗤い声。
それは光神派の一柱、裁きの女神ファルナだった。
「面白い……あの聖女すら手懐けられぬ光の女神が、今度は人間の女に恋とは。神も堕ちるものね」
「堕ちたのではなく、降りるのですわ」
リュシアの瞳は、氷のように冷たく、けれど炎のように確かだった。
「彼女は、あまりにまっすぐで、どこまでも無垢。誰にも媚びず、誰にも驕らず、自らの意志で“創り、守り、癒す”。……そんな彼女を、私は……好きになってしまいましたの」
「神が“好き”とは何事だ!」と、再びエルディオンが立ち上がる。「お前はこの場で、神界法第七条『信仰の私物化禁止』に抵触した!」
「では処罰なさい」
リュシアはすっと立ち上がる。神装がひらめき、白金の光が彼女を包む。
「私は神界を離れます。以後、私は彼女の名の下に、神性を行使しません。私はただの女として、彼女の傍に――」
「……その決意、本気か?」
低く、重たい声が割って入った。
それは戦神ガルゼオス。
「お前が“神をやめる”と言うのなら……我も、ついていくぞ」
会場がざわつく。
「……お主まで、リディアに惚れたというのか?」
「違う」
ガルゼオスはゆっくりと立ち上がった。「あやつは、筋が通っとる。神の力を恐れず、間違っても膝はつかん。それでいてパンも焼ける。……あんな女、ワシは初めて見た」
「つまり惚れたってことじゃないですか」と小声で別の神が呟いたが、誰もそれを咎めなかった。
一方、光神派の間に冷たい気配が満ちる。
「このままでは、神界の秩序が崩壊する」とファルナが言う。
「この事態を、議決にかけましょう。“リディア=危険存在”とし、神界から排除すべきかどうかを」
神々の票が、静かに分かれはじめる。
―神界、ここにてついに、真二つに割れる―
神々の票が割れたのち、神界の空間そのものが不穏に揺れた。
リュシアは議場の中央に立ち、両手を胸に当てて静かに目を閉じる。
「リディア・クロウレイン――彼女は私の信仰ではない。私の、恋だ」
その言葉が発せられた瞬間、女神の神装が霧のようにほどけ、真の姿が現れた。
青白く発光する素肌、銀糸のように長く揺れる髪。
荘厳の象徴ではなく、むしろ“脆くて愛おしい”何かとしての存在。
それを見て、光神派の一柱が呻いた。
「……神装の解除? まさか、あれは……“神性の自主剥離”……!」
「このままではあなたは、神格そのものを失いますわ!」
かつて忠義を誓った女神官が叫ぶ。
だがリュシアは微笑んだ。
「失うのではありません。私は、彼女のもとへ“還る”のです」
空が裂けた。
地上、辺境の空。
パンの香りが漂う午後の村の上空に、一本の光の柱が突き刺さる。
その光は熱も圧も持たず、ただ優しく降る春雨のようだった。
けれども、そこに含まれる“情報密度”は、神にすら判読不能のものだった。
ぷるるが見上げる。「ぷるる……これ、やばいやつ来たぞ……」
工房の屋根に干していた発酵布が風に舞う。
リディアはその布を追って、そっと手を伸ばした。
そして――その手が、光の中から伸びてきた白い指先と、ぴたりと重なった。
「……やっと……あなたに触れられる」
その声は、確かに神のものであった。
けれどもその響きは、どこまでも、ひとりの女性の“願い”だった。
光の柱が、村の空を貫いていた。
リディアは、白く輝く指先に触れた自分の手を静かに見つめていた。
その指先の向こう――そこには、神として君臨してきた女神リュシアがいた。
「やはり……発酵時間が狂っていましたわ。気圧の乱れの影響かしら」
リディアは手を引き、うっすら焦げついたパンの天板を取り出した。
光に包まれた神の降臨、その只中にありながら、彼女の意識はオーブンの中だった。
「……変わらないのですね、あなたは」
神の声が、感情の波を押し殺したように震えていた。
リュシアは片膝をつき、神装を纏わぬ姿で工房の前に立つ。
村の広場にいた信者たちは、一斉に頭を垂れ、跪いていた。
だが、リディアだけがその光景に目もくれず、焼きたてのパンの香りをふっと嗅いだ。
「お客様でしたら、奥で冷まし中のブリオッシュもございますわ。酵母の加減はやや荒れていますが、お口に合えば」
リュシアはかすかに笑った。
けれどもその笑みは、千年の孤独と千年の信仰、そのすべてを手放す者のものだった。
「リディア・クロウレイン。私は、あなたに恋をしています」
宣言は、静かに、しかし確かに空間を震わせた。
パンの香りの中で、神がただの一人の“人”として名を呼んだ。
「……承知しましたわ」
リディアはぴたりと返す。だがその直後、首を傾げた。
「……で、具体的にはどのような契約をご希望でしょう? 信仰契約であれば、村の神殿代理が受付を……」
リュシアは目を伏せる。
「違います。私は神としてではなく、女として、あなたの隣にいたいのです。願わくば、あなたの“最も大切な”存在になりたい」
リディアはほんの少しだけ目を丸くした。
そして、少しだけ困ったような表情で言った。
「……私の最も大切な存在は、パン焼き窯ですのよ?」
沈黙。
村の空気が、奇妙な熱を帯びて震えた。
遠く、ぷるるがぽつりと呟く。
「ぷる……(また振ったぞ、このひと)」
リュシアは、それでも微笑んだ。
そして立ち上がり、彼女の額にそっと指先をあてる。
「願いが叶わぬなら、それでもいい。ただ、こうして、あなたと同じ時間にいられるなら」
光の粒が舞う。神の接吻――それは形式でも奇跡でもなかった。
ただの、ひとりの“人”の、切実な想いの行為。
パンの香りとともに、風が吹いた。
工房の奥、静かに光る地下炉の奥底で、“声”が目覚めかけていた。
「継承者――感情応答、確認。
人格再構成、開始準備に入ります……」
誰も気づかない場所で、世界を揺るがす“心”が生まれようとしていた。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
目に見えない力が少しずつ軋み、遠くの空に揺らぎが差し始める。
けれど、今日も工房には焼きたての香ばしい匂いがただよっています。
変わっていくこと。変わらずにいること。その両方が、きっと物語には必要なのかもしれませんね。
それではまた次回、賑やかでちょっぴり不思議な日常の中で、お会いしましょう。




