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帝国から来た第四の求婚者

今回の舞台は、パン工房の前。

そこに現れたのは、世界最大の帝国を治める“若き皇帝”――求婚という名目で。

けれどもリディアは、いつものようにパンの焼き加減と発酵具合しか見ていません。

本気すぎる皇帝 vs. パンしか見てないリディア。そのズレが生む、甘くてしょっぱい焼きたての攻防、どうぞご堪能ください。

パンの焼ける匂いが、辺境の村にまた今日も静かに漂っていた。

工房の煙突からはほのかに白煙が立ち、ぷるるが窓際でふよふよと浮遊しながら、気温と湿度を測っている。まるでいつも通りの朝だった。


その空気を一変させたのは、遠くから響いてきた、金属と魔導機関が軋む異音だった。


「……な、なにごとじゃ……?」


村の北端、丘の向こうから現れたのは、まばゆい金色に輝く重装騎士たち。大地に重い音を響かせながら、数十名の騎士団が整然と行進していた。


先頭に立つのは、獣皮と黄金装甲を組み合わせた、精密な意匠の騎兵。

そして、その中央には、まっすぐな姿勢で馬を操る一人の青年。


──エルファリア帝国皇帝、フィルド・ゼル=エルファリア。


整列した騎士団の前に、工房の門を挟んで村長が飛び出してくる。


「し、陛下!? しょ、しょ、承っておりませんで……っ、あの、接遇の準備が──」


「気にするな。私は“客”として来ただけだ」

フィルドは柔らかい口調でそう告げ、目の前の建物に視線を向ける。


魔力の熱を宿したパン窯から、ふわりと湯気が立っていた。石畳に沿って配された魔導管は、村の生活を支える生命線となり、既に“辺境”という言葉が似合わないほど整備された空間が広がっていた。


「ここが……彼女の作った世界か」


フィルドが呟いたそのとき、ギイ、と扉が開いた。


「あの……発酵時間が過ぎましたので、窯の温度調整を──」


リディアはまったく緊張も驚きも見せず、見慣れたエプロン姿のまま現れた。騎士たちの金属音の洪水の中で、粉まみれの姿がやけに浮いて見える。


「……あら、お客様でしたの?」


その一言に、フィルドの口元がふっと緩んだ。


「初めまして。エルファリア帝国、皇帝フィルド・ゼルだ。今日は、あなたに一つ──申し出がある」


ぷるるが、リディアの肩の上で「ぷる……」と一音。

リディアは小さく頷く。


「パンの購入希望でしたら、事前申請が必要ですの。現在は、十三番まで配布しておりますけれど」


「……いや。今日の申請は、それとは違う」


風が止み、村に静寂が訪れた。


工房前に整列した騎士たちが、皇帝の前にひざまずく。リディアの前でもそれは変わらなかった。彼女の粉だらけの姿に、誰も笑わなかった。むしろ、神殿か王宮かと錯覚させる厳粛な空気が張りつめていた。


「リディア・クロウレイン。私は、あなたに結婚を申し込みたい」


その言葉に、村長が口から水を噴いた。


「け、け、け、けっこんん!? 陛下が!? どこの……誰に!?」


「私に?」とリディアは自分を指さす。「帝国の……属国化提案、という意味でしょうか?」


「……違う」


「では、領土買収かしら。あるいは技術譲渡契約──」


「いや、違う」フィルドは笑みを浮かべたまま、だがはっきりと言った。「私の“心”をあなたに預けたい」


「……あら、つまり精神交換型の儀式のことかしら? 帝国はそんな魔術を」


「恋だ」

言葉がかぶさった。


「私は、あなたに惚れた。あなたの作るもの、考えるもの、話す言葉すべてが、美しく、力強く、自由だ。帝国を背負う者としてではなく、一人の人間として──あなたに向き合いたい」


しん、と空気が止まった。


リディアは数秒黙り込み、手に持っていたパン生地を見つめる。


「パンを……焦がしてしまいましたわ」


沈黙に耐えられなくなったのか、ぷるるがぽふっと弾けたように宙に跳ねた。


「ぷるぷる!(こいつ、ガチだぞ! イケメンで本気だぞ!)」


「ふむ……では、申請順に整理して参ります。順番を守って頂ければ、すべてのご提案は平等に検討させていただきますわ」


「申請……?」


「はい。番号札をお渡ししますわね」

彼女は工房のカウンターに行き、小さな紙札を取り出して渡す。


「現在、お待ちの方は……十五番まで進んでおります。陛下は十六番、ということで」


フィルドは紙を受け取り、ふっと息を吐いて笑った。


「了解した、十六番。……待つ時間も、悪くないな」


そのやり取りを見ていた村の子供がつぶやいた。


「……パンって、そんなにすごいんだ」


リディアは真顔でうなずいた。


「ええ、酵母こそが宇宙の理。火加減ひとつで、世界が変わるんですのよ」


工房の前に集まった民衆は、まだ言葉を失っていた。黄金機動騎士団が周囲を守りつつ、皇帝フィルドは静かにリディアを見つめていた。その視線に、欲望も支配欲もなかった。ただ、真っすぐで静かな熱をたたえていた。


「これほどの魔導炉を独自運用し、国を超えた輸送技術を構築できる人材は、我が帝国にも存在しない」


「そうですの? ですが、パンの仕込み中に砲台が暴発するなど、精度に問題が残っておりまして」


「それでも構わない」皇帝の目が細くなる。「私は、あなたの隣にいて、その誤差を見守りたいと思った」


村人の一人が、思わず呟いた。「……詩人かよ」


「いいえ」フィルドは首を振った。「私は皇帝だ。世界最大の帝国を治める者として、言葉の重みを知っている。だからこそ、あえて言葉で伝える──あなたと共に未来を築きたい、と」


リディアは微かに首をかしげた。


「では、質問を一つ。パンの焼成温度と理想水分率、あなたの見解は?」


「水分率22%。温度は高熱短時間。香りと外皮の食感を優先すべきだ」


「……合格ですわ」リディアは真顔で言った。


村人たちは絶句し、ぷるるは「ぷるあ!?」と奇声を上げた。


「パン知識が結婚審査項目なのか!?」と誰かが叫んだ。


「パンこそが、人類文明の縮図ですわ。生き物と火の関係、空気と発酵、時間と忍耐。すべてが詰まっていますの」


その言葉に、皇帝フィルドは目を見開いた。まるで神託を聞いたかのように。


「やはり……あなたは我が帝国にとって“世界言語”そのものだ」


リディアはくるりと背を向けた。「では、次の方をお呼びします。十七番の方、いらっしゃいますか?」


「十七番、名乗り出よ!」と、ぷるるが威厳ある声で叫んだ。


──世界の中心では、今日も一人の令嬢が、パンを焼いていた。


「……私は、十七番ではないが」

フィルドは一歩前に出た。

「この番号の制度が、あなたにとっての公平であり、秩序だというなら――我が帝国はそれに従おう」


彼は、腰のホルダーから小さな銀製の封筒を取り出す。封印には帝国の紋章。

中から現れたのは、精緻なエンブレム付きの整理券だった。ナンバー“004”。


「……わざわざ用意してきたのですの?」

「当然だ。我が帝国の申請は、第四番目。順番を乱す理由がない」


リディアはその券を受け取り、ぷるるに渡した。

「ぷるる、専用の保管ファイルにお願いします」

「ぷる(高級紙。湿気注意)」


村人たちはざわめき、あちらこちらでつぶやきが漏れた。


「本当に……皇帝が求婚に来たんだ……」

「しかも、順番を守るって……」

「世界、どうなってんだ……」


フィルドは静かに頷き、周囲の空気を受け止めていた。

「順番を守らず得られる心は、真のものではない。私はそう信じている」


その言葉に、村の年寄りたちが「……良い皇帝だ」と小さく頷いた。


だが、リディアはきっぱりと言った。

「その信念、立派ですわ。でも、パンはタイミングがすべて。熱すぎても、冷めすぎても、美味しくない」


「……つまり?」


「いずれ答えをお出しします。でも、今は酵母の声を聞くほうが先ですの」


一瞬、空気が止まり、そして――笑いが広がった。


フィルドは微笑んだ。「ああ……その答えでこそ、価値がある」


そして彼は、騎士団に指示を出すと、工房の近くに簡易陣営を築き始めた。

「待とう。いつか、あなたの焼きたてをいただける日を」


その日、村では“求婚者専用待機施設”が建設された。

そしてその横で、いつものようにぷるるがパンを一口かじり、「ぷる(焼きすぎ)」とつぶやいた。


──パンの神殿は、今日も平和だった。


帝国製の軍用天幕が並び始めた工房前の広場。黄金の縁飾りが付いた皇帝旗が風にたなびく。にもかかわらず、そのすぐ隣ではリディアが静かに捏ねていた。パン生地に、いつもと同じ分量の塩と水、そして精製された魔力酵母。


「発酵が早い……気圧変動の影響かしら」


皇帝陣営では、参謀官たちが困惑の声をあげていた。

「接近による神格干渉値が異常に高いです」

「周囲の魔導気流が流れ込んでいますな。……まるで、神域の中心だ」


皇帝フィルドは沈黙し、ただ煙突から立ちのぼるパンの香りを見つめていた。


「彼女は、あのパンを焼くためだけに、ここまで築いたのか……」

参謀官の一人がぽつりとつぶやいた。

「皇帝陛下、あの女性が“継承者”である可能性……もはや、否定できません」


「だが彼女は、その意味を持たないまま立っている」

フィルドは微かに笑った。

「……それが、いい」


その頃、村では子供たちが騎士たちにパンを売っていた。

「お兄さんたち、バター付きは追加金貨一枚だよ」

「おう、じゃあ三枚分くれ。……うまいな、これ。帝国にも支部を作ろうか?」


ぷるるは「ぷるぷる(もう帝国支部できてるだろ)」と突っ込みながら、工房の入口に“本日完売”の札を掛けた。


リディアは窓の外を見やる。帝国の天幕の列。各国の旗。遠方から届く新たな申請状。そして――


「……焼き時間、あと七分」

パン窯の前に座り直し、再び彼女は静かに火加減を調整し始めた。


周囲で国々が動いている中で、彼女の時間だけが違う速度で進んでいた。


──世界が、彼女の静寂に巻き込まれはじめていた。

帝国すら、整理券の列に加わる時代がやってきました。

ですが本人は、酵母と火加減に全集中。

この一貫したブレなさが、逆に彼女の“特異性”を際立たせてしまうのが皮肉ですね。

次回は、いよいよ“神界”が本格的に揺れはじめます。

愛か、信仰か、それとも……秩序か。神々のドラマも、お楽しみに。

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