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求婚者会談、辺境にて

ようこそ、第四章の幕開けへ。

かつて追放された辺境の地に、なぜか世界中の“上層”が押し寄せてくる。しかも目的はパン? それとも求婚? それとも神託……?

リディアの“パン焼きスローライフ”が、世界を巻き込んで加速していきます。

朝。リディアの工房裏でパンの生地が発酵中の静寂を、怒号に近い悲鳴が突き破った。


「リディア嬢!リディア嬢ーーーッ!た、たたた大変だぁあああ!」


村長が息を切らせながら駆け込んできた。手には抱えきれないほどの分厚い書簡束。封蝋には見覚えのある紋章がいくつも押されている。


「王都、帝国、神殿、獣人領、海洋国家……わ、わたしは夢でも見てるのか……!?」


リディアは無表情のまま手元の発酵器を覗き込んだままだった。


「……一次発酵が過剰になりそうですわね。この温度帯では、あと三分調整を……」


「聞いてますか!?世界中から求婚の手紙が来てるんですよ!」


「求婚……と仰いますと?」


村長は、書簡のひとつを手渡すと、もう震えるように言った。


「“陛下直々のご縁談。貴女の聡明と技術に惹かれた皇帝陛下は……”って……これ、求婚だよな? 結婚申し込みだよな!?」


隣でスライムのぷるるが、ピョコンと跳ねながら書簡を見上げる。


「ぷるぷる(おう、どれもプロポーズだな)」


リディアは沈黙したまま、封蝋をじっと見つめ――そして、うっすらと眉を寄せた。


「……パンの受注依頼ではないのですか?」


「違います!!」


「では、貴族的な婉曲表現で、わたくしの技術を買収したいという遠回しな……」


「違うってばーーッ!!」


リディアが無言でふと窓の外を見た。朝霧の向こうから、騎馬と荷馬車の列が村へ向かっていた。旗印も多種多様。


「……このパン、配りきれるかしら」


その言葉に、村長は心底脱力したように腰を抜かした。


ぷるるは、書簡の束から整理番号らしき紙片を見つけると、勝手に「求婚申請受付」の札を作って工房前に立て始めた。


午前の工房前には、奇妙な行列ができていた。金銀の甲冑に身を包んだ帝国使節、神殿の白装束、褐色の肌に獣耳を持つ商人風の青年、異国の儀礼服を着た海洋国家の使者たち。全員が“パン工房”の前で、神妙な顔つきで順番を待っている。


「なあ、これ……パン買う列じゃねえよな?」


村の少年がパンフレットを手に呟くと、傍らの兵士が書簡を眺めながら困惑したように言った。


「整理番号五十三番、神託枠って書いてあるが……これ、本物の神託でいいのか?」


「本物じゃよ。本物の神の書式である。わしが書いたからな」神殿の老神官がにこやかに答えた。


列の先頭では、ぷるるが真顔で立ちはだかる。


「ぷるぷる(受理済。神枠は三十番台までです)」


厳格な態度に、周囲の使者たちは思わず姿勢を正す。村の子供たちが「ぷるる、なんか威厳出てきてない?」と囁き合っていた。


一方、リディアは工房奥で窯の調整に集中していた。


「気圧の変動が発酵に影響を……あの騎馬の動きが空気をかき回しているのかしら。となると、東壁の通気孔を——」


その姿に、村長は頭を抱えながら再び駆け込む。


「リディア嬢、お願いだ! 各国の使者たち、全員“緊急外交”扱いで来てる! せめて受付だけでも形にしてくれ!」


「……では、わたくしの手が空くまで、お一人ずつ発酵器の掃除などをしながらお待ちいただけますか?」


神殿使者が、どこか神妙な顔で答える。


「それも……信仰の証の一環と心得ましょう」


すぐにぷるるが新しい立て札を掲げた。“婚姻申請審査中:ただいまの待機時間 約十三時間”。それを見た誰かが、ぼそっと呟いた。


「……神々よりあのスライムの方が怖くないか?」


その時だった。空の彼方、雲を裂いて薄く、光の輪が現れた。誰の目にも見えるそれは、神界の婚姻許可を意味する“リュシアの光輪”だった。だが、リディアはまったく気づかない。彼女の関心は、ひたすら窯の熱量と発酵の微調整に向けられていた。


光輪が空に浮かぶ中、工房の外では誰もが固唾を呑んでいた。それが女神リュシアからの“婚姻神託”だと知る神官たちは膝を折り、教会筋の使者は紙を取り出し、祈るように筆を走らせる。


「本物……神界文様だ。時刻と座標も刻印されている……これ以上ない正規書式だぞ!」


「つまり……これが正式な、神の結婚申請か……」


「神が……人間に……?!」


使者たちが神妙に顔を見合わせる中、ぷるるがぴょこんと跳ね、リュシアの神託書に興味津々で近づく。そして迷いなく、それにチョンと前脚をのせた。


「ぷるぷる(提出書式、硬い。要補足)」


ぐにゃりとインクが走り、神託書の端に描かれたのは、ニコニコ顔のスライムの落書きだった。


「ぷるっ……っ!!? な、なんということを!」


神官が青ざめて叫ぶ。だが、それを見た帝国使節のひとりがなぜか笑い出した。


「……いや。これは、つまり……神託でさえ、整理券待ちということか。なるほど。最高神でも順番は守る……」


その言葉に、何人かの外交官が黙って頷いた。やがて、その騒ぎが工房の奥にも届く。


「何やら、窓が明るいですわね。……ああ、光輪。神界からの干渉ね。パン窯の温度管理に支障が出ますわ」


リディアはすぐさま扉を閉め、厚手の魔導遮光布を掛けた。


「……これで焼きムラも起きませんわ。よし」


まったく気づいていない。


村長が空を見上げ、祈るように呟く。


「神様……どうか、彼女がこのままでいてくれますように……」


周囲の外交官もまた、なぜか同じ祈りを捧げた。


午後の工房前は、朝以上の混沌に包まれていた。使者たちが列を作り、各国の書式で書かれた婚姻申請書が、リディア宛の「外交文書」として山積みにされている。帝国の金箔書式、海洋国家の水紋紙、獣人族の毛筆巻物、そして神界の光粒子文書。


そのすべてを、ぷるるが目を細めて仕分けしていた。

「ぷる(光る紙、感電注意)」「ぷるぷる(香水付き書類、焼却処分)」

その冷静すぎる対応に、使者たちの方が緊張しはじめる。


「我が国の王が直筆した婚約誓約書だぞ!」

「ぷる(判子が押されていない)」

「え……?」


リディアはというと、静かに奥で小麦の選別をしていた。

「この気泡、発酵の均等性に問題あり……ふむ、このあたりで水の硬度が変わったかしら」

神託も外交も求婚も、すべて工房の外でうごめく“雑音”に過ぎない。今の彼女の関心は、まさに“今日のパンの仕上がり”だった。


そんな折、村長が涙目で現れた。

「リディア嬢……申し訳ないが、もう村じゃ対応できん! 書類が三百通を超えた! 神界用の書式すら読めん! せめて窓口だけでも、対応専門の……!」

「……では、整理順にお名前と発酵器の清掃希望かをご記入いただきましょうか。整理券、五十七番まで出ていますの」

「そういう意味じゃないんだ……!」


そのやり取りの最中、突如、空が震えた。光輪が再び拡大し、今度は空中に神界文字でこう浮かび上がった。


《正式神託・リュシア神婚約申請、第001号。婚姻申請対象者:リディア=クロウレイン。受理待機中。》


誰もが黙り込んだ。リディアだけが、呟いた。


「……クロウレインの名義が使われている。どなたか、旧王家に関わる者かしら?」


完全に他人事だった。


翌朝、工房の前にはすでに列ができていた。羊皮紙に手書きの“リディア様との婚姻希望申請票”を抱えた使者たちが、民族衣装、軍服、神官服とバラバラな格好で立っている。


ぷるるが配布した“整理券”はすでに百番を突破し、村の納屋には「申請済・未審査」「神界書式」「破棄済書類(香水付き)」といった分類棚が出現していた。


「ぷるぷる(今日は番号三十一番から開始です)」


その声に、各国の代表が緊張した面持ちで立ち上がる。


「第三十一番、エルミラ海洋国より、珊瑚王子殿下! 婚姻申請と、塩入りパン技術の技術提携を希望!」


「承認可能性、あるか?」小声で王子が尋ねた。


「ぷる(酵母の安定性次第)」と即答。


工房の奥では、リディアが真剣な顔でパン生地を伸ばしていた。


「この生地……膨らみ方が違う。昨日と同じ温度設定でこの違い。まさか……」


ふと、彼女は窓の外に目をやる。神界の光が、朝日とは違う色を帯びて、空を斜めに裂くように伸びていた。


「気流が……揺らいでる? これは、地脈レベルの変動。神界からの干渉……」


そして静かに頷く。


「ええ、やはり今日は“短時間焼成”ですわね。表面に焦げ目をつけずに、内側だけをふんわり……」


彼女の中で、それは神の気配でも求婚ラッシュでもなく、単なる焼き加減の調整指針だった。


そのとき、使者の一人がぽつりと呟く。


「……神界と帝国と各国王族が一堂に介し、整理券を握りしめている。……一人の少女のパンの前に、世界が並んでいる……」


「正確には、パンの発酵器の前に、ですわ」工房の扉が開き、リディアが静かに微笑んだ。「どうぞ、試食もございますのよ?」


そこにあったのは、最高の香りを放つ、焼きたてのパンだった。

まさかパンがここまで国際問題になるとは……。ですが、リディア本人はまだ気づいていません。次回、ついにあの“帝国皇帝”が辺境を訪れます。果たして皇帝は、パンの列に並ぶのでしょうか? 整理券、忘れずに。

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