誰も知らぬ救世の名
ご訪問ありがとうございます。
辺境の地でパンを焼いていた令嬢が、気づかぬうちに“世界の希望”と噂され始めたなら──?
今回は、「名もなき救世主」という称号がどうやってひとり歩きしていくかを描きました。
静かな日常と、熱を帯びる世界の対比をお楽しみいただければ幸いです。
王都──砲撃から一夜明けたその朝。
通りには異様な熱気が漂っていた。市場でも、噴水広場でも、貴族街のサロンでも、話題はただひとつ。
「あの空の光は、神の御業だったに違いないわ」「いや違う、あれは“古の遺産”が目覚めたのだ」「でも誰が撃った? 誰が、我らを救った?」
誰も、答えを知らない。
けれど確かなのは、“あの聖女ではなかった”ということだった。
ユリナは、砲撃の直前に祭壇で崩れ落ち、なにもできずに泣いていた。その姿はすでに、描写とともに噂として広がっていた。
神殿の門前では、信者のひとりが小さくつぶやいた。「光は……神にではなく、別の誰かに降りたのでは?」
別の誰か──そう聞こえた瞬間、王太子エリオットは咄嗟に立ち上がった。
「その“誰か”というのは……もしかして、クロウレイン嬢のことではないか?」
一瞬、場の空気が止まる。
しかし次の瞬間、貴族たちの口元に浮かんだのは、冷ややかな笑いだった。
「ほう、あの“無能令嬢”を自ら持ち出すとは」「おや? 婚約破棄して追放した相手を、今さら英雄扱いですか?」
「断罪したのはあなたでしょう?」
「王太子殿下、ご自分の言葉に責任をお持ちになっては?」
エリオットの顔が引きつる。「い、いや……それは、当時の判断であって……」
だが誰も、彼を庇おうとしなかった。
群衆はすでに“救世主”に心を奪われ、“聖女と王子”には背を向け始めていた。
そして、ある老婆がぽつりとつぶやいた。
「名も知らぬ誰かに救われた夜よりも、恐ろしいのは……名を知っている者に裏切られた日々だったよ」
その言葉が、エリオットの胸を容赦なく刺した。
神殿内、中央議堂。
神官長マクシウスの拳が机を叩いた音が、石の壁に反響した。
「昨日の砲撃について、正式な神託が“なかった”ということは、教会として公表するのか?……いや、してよいのか?」
問いかけに誰も即答しなかった。
光の女神リュシアは、教義上“全知全能の愛”として崇められている。神託のある日に、あのような異変を起こさせたとなれば、矛盾が生じる。
「しかし……観測隊によれば、神格干渉を凌駕する構造体が“辺境”から立ち上がったのは確実だ」
「精霊軌道、雷柱、砲撃反応……どれも女神の加護と“違う特性”を持っている。なのに、我々は何も感じ取れなかった」
長老神官の声も、いつになく震えていた。
「まるで……女神より高い場所に干渉されたかのようだ」
その瞬間、空気が凍る。
「神を超える何か」など、口にしてはならないはずの禁句だった。
若い神官たちが顔を見合わせる。やがてひとりが恐る恐る口を開いた。
「……もしかして、女神リュシアの力が弱まっているのでは。あるいは……“リュシア以外”の神が、誰かを選んだのではないかと……」
「何を言っている、巫女は聖女ユリナ様ただひとり──」
「……けれど、その聖女様は、“砲撃の瞬間”に倒れていました。神の声が届いていなかった……ように見えました」
議場が静まり返る。
神託は、神の意思。巫女とは、その器。
もしそれが届かなかったなら──
“巫女が、すでに別に存在する”ということになる。
マクシウスは天を仰ぎ、重い声でつぶやいた。
「……ならば、その者は誰だ……リュシア様は、誰を選ばれたのだ……?」
議場の空気は、つい昨日までの“絶対信仰”を失い、冷たい疑念で満たされていた。
宰相執務室、窓の外に広がる空はどこまでも澄んでいた。
報告書の束を前に、老宰相ヘルマンは静かに目を伏せる。
指先が、一枚の紙の上をなぞる。
『魔力偏差:王家型式に類似。発信機構不明。クロウレイン式旧魔導核との照合、97.2%一致。』
「……やはり、そうか」
呟きと共に立ち上がる。
書棚の奥から取り出した古びた箱に手をかけると、そこには一枚の紋章入り文書が眠っていた。
“クロウレイン王家の秘匿継承者が現れた場合、その身を以て守るべし。”
彼が若き日のある時、先代国王より密命として授かった文書だった。
「時を越え、血が目覚めるのか……いや、あの娘が“血”を選んだのか」
彼の脳裏には、まだ年端もいかぬリディアと、それに手を差し伸べたかつての女王の姿が焼き付いていた。
「おまえは、生き延びていたか。あの断罪と追放のなかで……いや、“生き残るべく”動いたのだな」
静かな独白は、ほとんど祈りのようだった。
机に戻り、ペンを走らせる。
『至急:辺境観測隊の再派遣を。クロウレイン家の“魔導核”に関する記録全解禁を許可。
併せて、あの娘の所在を調査せよ──今度こそ、手遅れになる前に』
古びた封蝋を押す。蝋の中には、かつて忘れ去られた家名が今もはっきりと刻まれていた。
──クロウレイン。
王の血を継ぎながら、王家よりも賢く、王座よりも遠い場所で“世界を設計する”一族。
そして、その“最終継承者”の名は、未だ王都に知られていない。
辺境、工房の朝は静かだった。
起動音も、雷光も、砲撃もなく、ただパンが焼ける香りが漂っている。
石造りの炉から湯気が立ち上り、リディアは無言でタイマーを見つめた。
傍らではスライムがぷるぷると揺れながら、炉口を覗き込んでいる。
「ぷるる(焦げてない、焦げてない)」
「当然ですわ。昨日のような熱干渉は補正済みですもの」
カチ、とタイマーが鳴った。リディアはミトンをはめ、慎重にパンを取り出す。
香ばしい黄金色。焦げ目は均一。完璧だ。
「ふむ、良好ですわね。中心まで熱が通り、しかも水分を逃していない……今日の配合は当たりです」
スライムが跳ねる。「ぷるる!(うまそう!)」
「待ちなさい。これは冷ましてからでないと、風味が損なわれますのよ」
ちょうどそのとき、工房の扉がコツンと叩かれた。
「お、お嬢さん……その、パンの……焼きあがり、まだかの……?」
しわの深い村の老爺が、恥ずかしそうに覗き込んでいた。
リディアは数秒見つめたあと、小さく一礼して一切れ差し出した。
「お好みに合うかわかりませんが、どうぞ」
「おおお……ありがたや……! わし、歯がまだ全部残っとるでな……!」
老人が感涙にむせびながら引き下がるのを見て、リディアはふっと小さく息をついた。
その目には、わずかに、ほんのわずかに温もりが宿っていた。
工房の周囲にはいつのまにか、小さな花が咲き始めていた。
根も張らず、土も掘らず、それでもなぜか色彩豊かに咲いている。
魔力に触発され、土地が活性している──
そんな現象すら、リディアは特に気にも留めず、次の生地をこね始める。
「今日も平和ですわね。……さ、酵母の温度管理に入りますわよ」
「ぷるる(おー!)」
スライムの応援を受けながら、辺境の“要塞”では、今日もパンが焼かれていた。
都──いや、もはや王国全土が、ざわついていた。
「神託なき神の砲撃」
「空に光を放った者」
「聖女ではない“真なる加護者”」
その正体は誰なのか。王の名も、神の名も伏せられたその夜の光を、民は“名もなき救世主”と呼ぶようになった。
神殿の壁に刻まれた伝承詩に、新しい一節が加えられる。
《天より降りし虹の矢は、神すら沈黙せしめ、王を守りぬいた》
姿なき守護者。声なき叡智。すべてを超える砲火。
そしてその名前は──未だ誰も、知らない。
•
辺境の工房。室内は、煙に包まれていた。
「……っく、やはり過加熱……」
リディアは焦げた黒パンを無言で見つめ、ため息をついた。
炉の設定値を、ほんの0.3%だけ間違えていた。
「演算誤差の要因は……昨夜の衛星通信との干渉かしら」
スライムが跳ねた。「ぷるっ(黒い……)」
「見ればわかります。……これはもう、肥料ですわね」
静かにトレイを引き、外に出す。
黒く炭化したそれは、花畑の横に埋められ、土へと還っていった。
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遠く離れた国の書庫では、一冊の禁書が開かれていた。
そこには、こう書かれている。
《クロウレイン――王家にあらず、王家を守護する魔導の家系。
その最終継承者は、かつて追放された“銀髪の少女”である》
•
しかし当のリディアは、今日も工房でパンをこねていた。
その手は確かに、王都を救った手だった。
だが彼女は知らない。
自分が世界に“知られてしまった”ということを。
──伝説は、神話として広がり始める。
それを知らぬまま、ひとりの令嬢はただ、パンを焼く。
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それが、名もなき救世主の正体だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
パンが焦げたその横で、伝説が静かに始まりました。
リディア自身はまったく意識していないまま、“神を超える存在”として世界に刻まれていく様は、彼女の魅力そのもの。
次回、第4章では、いよいよ“女神”側の本格的な動きが始まります。
どうぞ引き続きお付き合いくださいませ。