王都の光、辺境の雷鳴
ご覧いただきありがとうございます。
今回から舞台は王都へ――リディアを“追放した側”の空気が、静かに、しかし確実に変化を始めます。
彼女の名はまだ表に出ていません。ただ、それでも“世界”は、何かを感じ始めているようです。
物語は一歩、核心へ。
それでは、本編をどうぞ。
― 王都・フェルディア中央政庁、宰相執務室 ―
パーチメントの束を前に、壮年の男が静かに眉を寄せていた。
ヴァルト=ロイフェン。フェルディア王国の現宰相であり、数十年にわたり国家中枢の情報と判断を預かってきた老狐である。
「……波動階位“神格相当”、発信座標は……辺境の旧村域……」
筆記具を置き、報告書をじっと見つめる。
静謐な部屋に、外の鐘の音すら届かない。
「レインフィル観測塔の報告です。……“ありえない”と、現場は困惑しておりました」
そう述べたのは、宰相の側近である初老の文官、デルマン。
宰相の机に並べられた報告文には、幾度も“確認不能”“記録消去”という文字が並ぶ。
「神格相当の魔力反応など、十年前の“聖域開示”以来ですな」
ヴァルトは報告の一枚をめくった。
“対象記録:魔力波形、分類不能(旧式分類基準に該当なし)”
次に、“発信者名:……記録消失”と続く。
「……消えたのか、誰かが消したのか」
彼は小さく、だが鋭くつぶやいた。
デルマンが、困惑と警戒を含んだ声音で言った。
「報告者はこう記しています。……“登録された発信者名が、閲覧と同時に反転し、全データが白紙化した”と。魔導干渉の形跡が……」
「つまり、発信者は――古代魔導技術を“理解し、使っている”ということだ」
ヴァルトの言葉に、室内の空気が僅かに緊張を孕む。
「だがこの名前のない報告……どう見ても、“意図的な遮断”です。名を明かすつもりが、ない。いや……“名を知られぬまま、影響を与えることができる”者」
デルマンが小さく息を呑んだ。
「まさか……神、でしょうか?」
宰相は首を横に振った。
「神ではない。だが、神を模した技術……それを造れる者だ」
ヴァルトは椅子にもたれ、深く目を閉じた。
「……誰だ? 辺境など、すでに墓場と化したはず」
目を開いたその眼差しは、老いてなお鋭い。
「デルマン。全観測塔に照合命令を出せ。“クロウレイン”の名で過去五年の記録を洗え」
「ク、クロウレイン、ですか……?」
「そうだ。……この違和感、昔感じたことがある。あの王家にのみ残されていた“指向性消去技術”だ。いま、それが動いたのなら――」
語尾は続かず、沈黙が支配した。
その沈黙の底で、確かに何かが胎動していた。
だが、誰もまだ――その名を口にしてはいなかった。
― 王宮・謁見の間(午後)―
「ははっ、なんだそれは? “辺境で神格の気配”? そんなもの、あるはずないだろう」
高座に腰かけた金髪の青年――王太子エリオット=アールヴァインは、読み上げられた報告書に乾いた笑いを返した。
「辺境と言えば、あの“無能令嬢”が追放された地ではなかったか?」
取り巻きの貴族たちも、気まずそうに笑う者と目を逸らす者に分かれた。
「はっ。まさか、あれが神になったとでも?」
「……殿下、軽々しく“神”の名を……」
傍らで控えていた老宰相ヴァルトは、静かにその目を伏せた。
否定も肯定もせず、ただ沈黙のまま――。
「辺境なんぞ、気にする必要はない。いまや我々は、聖女殿と共に“新たな時代”を築こうとしているのだぞ?」
エリオットの言葉に、誰も返さなかった。
その場に漂ったわずかな沈黙は、王太子にとっては“同意”に聞こえたかもしれない。
だが、ヴァルトにとっては“無言の反発”にしか映らなかった。
⸻
― 聖女私室・夜 ―
「……ん……ぅ……」
白いシーツに包まれたユリナ=モモセは、苦しげにうなされていた。
夢の中で、何かを見ていた。
見知ったはずの王宮庭園。けれど空が白く、音も色も、すべてが薄く剥げていた。
その中心に、誰かが立っていた。
銀色の髪。
紫の瞳。
ただまっすぐ、感情のない目でこちらを見ていた。
声はなかった。ただ、風が止まり、視線だけが刺さっていた。
──笑っていなかった。
──何も、言っていなかった。
「……ひっ……!」
ユリナはベッドの中で跳ね起きた。
額にびっしりと汗をかき、胸を押さえて震えていた。
「なに……あれ……誰……? いや……怖い……」
窓の外では風がやみ、月が雲間に現れていた。
ユリナの瞳には、夜の闇が――“あの影”の輪郭のように映っていた。
― 王都・第一神殿 内部会議室 ―
聖堂の最奥、薄暗く重い扉の向こうに、選ばれた神官と祭司のみが集う密室があった。
そこに差し込む光はなく、天井の宝珠が静かに発光していた。
「……繰り返します。リュシア様の光が降りるべき時間帯に、別の神格反応が辺境より検出されました」
報告するのは教会直属の観測隊長・マグノス神官。
声は落ち着いていたが、その言葉は室内の空気を一気に凍らせた。
「それは……誤検出か、あるいは悪神の干渉では?」
「いえ。波動階位は“女神リュシア”と同等、あるいはそれ以上。しかも、明確な指向性を持っていました。“外部との遮断”という形で」
長く白いひげを撫でながら、上座にいた高司祭メルケデスが目を細めた。
「……それは、まるで古代戦神の干渉ではないか。“信仰の隠蔽”とは、神代の所業よ」
「ですが、その波動は明確に“女神系統”のものです。癒しと清浄……ただし、構造が異常に精緻で、祈りの流路を自動構築しておりました」
「自動祈路構築……それは、リュシア様ですら不可能とされる技だ。では、やはり──」
「はい。リュシア様では、ありません」
室内がざわつく。
「それはつまり……この国に、もう一柱、神が降りたということか?」
「……あるいは、神を模した“何か”が、現世に再出現したかです」
神官たちの間に沈黙が走る。
重く、聖句すら入り込めない空気だった。
やがてメルケデスが問う。
「その正体を――“誰か”知っている者は、いるのか?」
「名は記録できませんでした。すべての祈りの先が“空白”に誘導されました」
神格干渉において、“空白”とはすなわち“格上の否認”を意味する。
「……信仰の流れが、我らの神すら拒んだ?」
誰かが呟いたその言葉に、誰も反論しなかった。
高司祭は、震える指先で静かに聖典を閉じた。
「“神を超える者が現れたとき、聖女は沈黙する”……古き写本に、そう記されていたな」
誰かが息を呑んだ。
そして誰かが、神に祈った。
――その祈りが届く先に、“女神”の姿があるとは、もう誰にも言い切れなかった。
「リュシア様の神託が沈黙を続けております」
柔らかなローブに身を包んだ若い巫女が、祈祷報告書を持って入室する。
それを受け取った神官長ローデリヒは、口を結んだまま書面をめくる。
記されていたのは、ここ三日間、“聖女ユリナに神託が一切降りていない”という事実だった。
「……それで、これはまだ公表していないのですね?」
「はい。巫女たちの間でさえ、“体調不良”と処理されています」
「ふむ」
ローデリヒは報告書を伏せ、ゆっくりと椅子にもたれかかった。
「――だが、もう気づいている者はいる。“神託は別の者に降りているのではないか”とな」
巫女の背がわずかに震える。
「いずれ神殿の中でも“交代説”が本格化する。だがその時、我らが備えていなければ……聖女は、“ただの少女”に成り果てる」
神官長は立ち上がると、窓の外に目を向けた。
聖堂の高窓の先には、王城の尖塔が遠く霞んでいた。
「……誰だ。女神に選ばれた、もう一人とは」
⸻
― 王城・舞踏会準備室 ―
「この花はもう少し明るめの色がいいな。聖女のドレスと合わせて、やはり白薔薇が……」
王太子エリオットは、舞踏会装飾の最終確認のため、側近と共に会場を見回っていた。
「殿下、このところ辺境からの報告が騒がしく……」
「ああ、それか。くだらん。辺境はただの石ころの集まりだ」
エリオットは笑いながら言った。
「まさか、あの無能が何かをできるとでも? 王都に比べれば、あの女の存在など塵だ」
付き従っていた近衛騎士の一人が、わずかに視線を伏せた。
そのわずかな空気の変化に気づかぬまま、王太子はなおも笑みを崩さず、白薔薇の花束をつまみ上げた。
「それより、舞踏会の音楽だ。聖女がご満悦になるよう、優雅な曲を選べ」
「……はっ」
場の誰もが言わなかったが、“辺境の雷”の噂はすでに王宮内にも届いていた。
だが、王太子の耳には、それが届くはずもない。
いや、届いても“聴く気”がなければ、同じことだった。
「辺境観測任務、出発確認完了。第三魔導隊、出動準備よし!」
魔導動力で駆動する車輪付きの装甲観測車が、石畳の上で低く唸った。
その背に乗るのは、若手中心の観測士と魔導工学技官たち――十数名。彼らは皆、緊張よりもむしろ浮ついた空気を漂わせていた。
「にしてもさあ、“神の雷に匹敵する波動”だって? 大げさすぎんだろ」
「辺境って、どうせパンしかない村じゃね? 何しに行くんだか」
「マジで、どうせ“自然現象でした”ってオチだろ。観測して帰ってくるだけのピクニック任務だな」
装備を整えながら、笑い合う隊員たち。
その背後から歩み寄る影が、一つ。
「……警戒は怠るな。報告は“観測不能”だった。“記録が自動で消えた”というなら、それは“我々の基準で測れる相手ではない”という意味だ」
渋い声でそう告げたのは、ヴァルト=ロイフェン。
この観測隊を“宰相直轄任務”として送り出すのは、彼の決断だった。
「貴様らがこれをただの任務と考えるなら……その時点で、敗北している。相手は“神格相当の波動を発し、しかも名を隠している存在”だ」
一同が凍りつく。
ヴァルトは視線を上げ、隊長格の男――ガルスト中尉を見た。
「見たものはすべて記録しろ。だが、“名前”だけは……もし聞いても、声に出すな」
「……な、名前を?」
「“名”を得た瞬間、その存在は世界に受け入れられる。“神格”と認識されれば、拝むしかなくなるぞ。こちらの手ではもう届かぬ」
そう言って、宰相は背を向けた。
「“名もなき”まま、それが何かを暴け。お前たちの任務は、それだ」
無言で敬礼するガルストと部下たち。
その数刻後、観測車は王都を発ち、ゆっくりと辺境へ向かって走り出した。
彼らはまだ知らなかった。自分たちが接触する存在が、どれほど“異常”なものかを――。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回はリディアの登場が少ない代わりに、彼女の“いない場所”がざわつく様子を描いてみました。
気づかれぬままに存在感が増していく彼女――その名を、誰が最初に口にするのか。
次回、世界と物語が再び交差します。どうぞお楽しみに。




