1.
フィオラはゆっくりと意識を取り戻した。
まず感じたのは、柔らかな布の感触だった。いつもの冷たい石の床や粗末な寝台ではないことに気づき、彼女の鼓動がひとつ大きく跳ねる。
薄く瞼を開くと、見たことのない天井が視界に入った。温かな木材の梁が交差するデザインは、見慣れた暗く無機質な部屋とは明らかに違う。
「っ……」
体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。指先まで力が入らない。
痛みに耐えながらも周囲を見回すと、窓から穏やかな光が差し込み、部屋を照らしていた。透き通るようなカーテンが、わずかに開いた窓から忍び込む風でそっと揺れている。机の上の陶器の花瓶には、鮮やかな花々が凛とした美しさを漂わせていた。
フィオラの心に湧き上がるのは安堵ではなく、不安。
――ここはどこ? どうして私はここに?
彼女の記憶は、乳母の叫び声と血の飛沫で途切れている。最後に見た、倒れ込む乳母の姿が鮮明に蘇り、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
「っ、!」
急に目の前に人影が差し込んだ。
「...起きましたか?」
驚いて飛びのいた彼女の視線の先には、一人の女性がいた。柔らかな口調で声をかけてくる彼女の表情は優しげだ。
――誰?
「大丈――」
「やっ!!!」
女性が手を伸ばすのを見た瞬間、フィオラは反射的にその手を振り払い、ベッドから転げ落ちた。床に手のひらを突き、痛みを感じる暇もなく四つん這いのまま窓へと這い寄る。
「っ、こ、来ないで……!!」
「お嬢様っ!」
近づいてくる見知らぬメイドが、自分を殺そうとした人たちと重なって見える。心臓が激しく鼓動している。
フィオラの背中は窓に当たり、逃げ場を探す焦りが胸を締め付けた。
逃げなければ――ここから逃げなければ。
窓を開けようとするフィオラに気づいたメイドは、慌てて声を上げた。
「誰かっ! 誰か来てください!」
その声が余計にフィオラを怯えさせた。窓の鍵を外し、外へ出ようとしたその時――
突然、部屋の扉が勢いよく開いた。
扉の音に振り返れば現れたのは一人の男性だった。彼はフィオラに気づくと目を見開く。
「っ……」
数秒間、視線が交錯する。
男性は慎重に、少しずつフィオラへ歩み寄った。
「こ、来ないで……殺さないでっ」
フィオラの掠れた声に、男性の足が止まる。
「殺す? 君を?」
「...父に、頼まれたのでしょう?」
「何を――」
「悪いこと、しないですっ....絶対に、何もしないですから……お願い、殺さないで……」
フィオラの小さな肩が震えている。その瞳には怯えと絶望しか映っていない。男性はその様子に、何か言いたげに口を開いたが、すぐに言葉を飲み込んだ。そして、そっと離れたところで膝をついてフィオラを見上げた。
「君を傷つけるつもりはない。」
落ち着いた声が部屋に響いた。しかし、その言葉を受けてもフィオラの体は強張ったまま動かない。
沈黙が部屋を包む中、男性は慎重に右手をフィオラに差し出す。だが、フィオラの視線は未だ揺れていた。