1st:EP13:鴨の河原で
1
やっと今カノを追い払えたのに何なのよ。そんな小便臭い小僧と話し込んじゃってさ。まさか女に飽きて男に興味が移っちゃったってわけ。許さないわよ、絶対に。あんたは私だけのモノなんだから。
女が憤然としながら、四条大橋の中ほどに佇む青年の方へ近づこうとした瞬間、目の前に小僧が忽然と現れた。
胸に校章が印刷されたポロシャツを着て、鞄を片方の肩に掛けているところから、おそらく高校生なのだろう。端正な顔立ちには、これといった特徴はない。ただ、それだけに人の懐に、ふと入り込んできてしまうのではないかという怖さを感じさせる。忍者のような今の現れ方もカチンとくる。
「兄ちゃんの彼女さんですか。今日はデートやったんですね」
「えぇ」女は面食らいながらも、首をかしげた。「でも、おかしいわね。あの人に弟はいないわよ。あなた、いったい誰なの」
「僕は従弟です。今日は授業が早めに終わったんで、ちょっと話してたんです。ほら、鴨川沿いはカップルばっかしで腰を下ろすところもあらへんでしょ。せやからデートやったら八坂神社の方へ行ったらええんちゃうかって。なぁ、そうやったやろ」
小僧と同じように突然、自分の真横に現れて無言でうなずくい青年に女は驚きの声をあげた。いくら愛しい人でも怒りたくなる。
「どないしたんですか」
「いえ、何でもないわ。お気遣い感謝するわ」
「こっちこそデートの邪魔してしもて、ごめんなさい。あっ、そや。八坂神社の向こうに六道の辻っちゅうのがあるから、絶対に行ってくださいね。そこやったら人もあんまし居らんし、雰囲気もバッチリやから」
四条大橋から鴨川べりへ移動した女と青年の姿は東へ向かう人混みの中に消えていった。
*
「これで大丈夫やで。あの女は二度と目の前に現れへん」
「二度と現れない……」青年は首を横に振った。「裁判所に接近禁止命令まで出してもらったけど、駄目だったのにかい。もう諦めてるよ。これからもずっと付きまとわれるのさ。彼女を車で轢き殺した憎いあの女に。でも、なぜだ。見ず知らずの女が、どうして俺を……俺が何をしたっていうんだ」
「付きまとう奴の気持ちはわかれへんけど、あの女が現れへんのは保証しますよ。だって見えたでしょ、あの女と連れ添って歩いていく物が」
「あの人間の形をしたマシュマロみたいな奴かい」
「そう。あれは式神ていう、僕が困ったときだけ助けてくれる守り神みたいなもん。あの女には、あんたに見えてたはずや。そいつが六道の辻にある地獄の入り口に女を送り届ける。あとは獄卒どもが女を責め苛もうと向こうへ持って行きよる」
「俺は今まで超常現象の類を信じることはなかったけど……」
「自分が見たもんが真実やで」
「そうか……そうだな」青年は溜息をついた。「でもな。ストーカー女が地獄で苦しんだって、彼女が戻ってくるわけじゃない。もう一度、逢いたい。逢って話がしたい。伝えたいことがあったんだよ」
「そう言うんやったら、自分で伝えたらええやんか。彼女さんはさっきから隣に居るんやから」
2
清楚なワンピース姿の女性が青年の胸に顔をうずめた。青年もまた彼女を離すまいと、その背中に回した手に力を込めてぎゅっと抱きしめた。
「あのぅ、お取込み中にすんませんけど」
「ありがとうね」青年の胸から顔を上げた女性は涙をぬぐった。「助かりました。君のお蔭で、やっと彼に逢えたわ」
「どういうことだい」
「浮遊霊になってた彼女さんに、そこで捕まったんです。あっ、誤解せんといてくださいね。別に変なことはされませんでしたよ。でも授業中に寝てたら起こされたり、授業をサボってトイレでメールしてたら声をかけられるわで、落ち着かれへんので、頼み事を聞いて、彼氏のあんたを助けることになったんです」
「そうだったのか。あのストーカー女から俺を助けるために」
「いや、本当の頼み事は、それとは違いますよ。まだ思い出せませんか。あの女は、この四条大橋のたもとにいた彼女さんを轢いたあと、勢い余って車ごと鴨川へ転落して自分も溺死した。でも……」
*
そうか。青年はあの時のことをようやく思い出した。
あの日、婚約指輪を買った俺は結婚を申し込むため、四条大橋で彼女と待ち合わせをした。あの女の車がそこへ突っ込んできたので、彼女を守ろうと思わず飛び出して巻き込まれた……。
「死んだのか、俺も」
「そうです。ここで地縛霊になった彼氏を助けてほしい。2人で成仏したい。これが彼女さんの頼みでした」
「お礼をしなくちゃいけないわね」彼女は微笑んだ。
「せやから、そんなもん要らんて、何度も言うたやないですか。早よ、2人で成仏して僕を解放してください。あの世は鴨川の向こうですから、とにかく早よ」
「でも、それじゃ気が済まないよ」すべてを思い出した青年は顔を上げた。「そうだ。婚約指輪が、まだ鴨川の中にあるかもしれない。俺たち2人には、もう必要ないから君が貰ってくれないか。売れば小遣いくらいにはなるだろう」
「そうね」彼女もうなずいた。「高校生はバイト代も高くないでしょうから」
「あぁ……ありがとうございます。わかりましたから、さっさと……どないしたんですか」
「鴨川の渡し舟を待ってるんだが、来ないねぇ」
「そう言えば渡し賃もないわ。確か6文だったかしら。現代のレートで何円くらい」
「あぁ、もう。納得したら納得したで面倒くさいな。渡し賃の6文ちゅうのは、この世に置いていく未練を抽象化したもんや。婚約指輪さえ要らんて言うんやから、渡し舟に乗せてもらう必要すらあらへん。2人とも歩いて渡れる。さぁ、早よ早よ。ほな、さいなら。向こうで、お幸せにね」
青年と、その彼女は急き立てられるように鴨川の水面を歩いて、向こうへ渡って行った。
「はぁ~、やっと解放かぁ。疲れたぁ。アイスでも食おか……えっ、えっ、えぇ~。さっ、財布……財布があらへん。落としてもうたんや、きっと。そっ、そうや」
日が暮れるまで、鴨川の河原沿いに等間隔で腰かけたカップルからの冷たい視線にさらされながら、膝までの川の中をさらっている1人の高校生の姿があった。
補記
高村弥
京都で、犬も歩けば棒に当たり、弥が歩けば怪異に当たると言われた大学生が、大阪日本橋の五階百貨店に居を置く万屋『怪物たちの何でも屋』、通称“MUs”の特異な面々と出会う前の話である。