QASR 将軍家の屋敷 2
「急にイヤになったんじゃないかな。男やもめで自由にやってたのに、いきなり十歳の子供の養父になったんだから」
ハーヴェルは苦笑した。
カディーザはとくに答えない。
「一年後には、その子供がダダこねてむりやり弟子になったし」
アンジェリカが冷やかしで言っていたことだが、ハーヴェルはほんとうにこれが師匠イハーブの本音なのではと思っていた。
遠い僻地にあったハーヴェルの出身村は、農業が主ではあったものの非常に貧しかった。
子供を手離す家が非常に多かった。
いなくなった同年代の子供たちがその後どうなったのか、当時小さかったハーヴェルには分からない。
ハーヴェル自身は、ある日に歳の離れた兄に連れだされ、めずらしくラクダに乗せられた。
夜通し砂漠を進んだあと、国境警備をしていた隊の兵営の近くに置き去りにされた。
兄としては、せめて生活に余裕のある軍人に拾われることを期待したのかもしれない。
置き去りに気づかず兄を待っていたところを、兵営で軍医を務めていたイハーブに話しかけられた。
兄の友人だと説明され、言われるままついて行った。
十五歳ほど年の離れた兄とイハーブは、外見的にはほぼ同年代に見えた。そのため、友人だという話を疑いはしなかった。
ある程度の年齢になれば、寒村の無学な兄と軍医として兵営にいた錬金術師に、接点などあろうはずないのは分かるのだが。
置き去りだと気づかせたくなかったのだろうと、のちのち理解した。
「急にイヤになったなんて、ありえないでしょ」
カディーザがつぶやく。
「うっとうしいくらいの猫かわいがりだったじゃない。イハーブがあなたを引きとったばかりのころ、周りの人間がみんな一回はドン引いたの気づかなかった?」
カディーザは太めの眉をよせる。
「やれハーヴェルが使う書物は染みが少しついてるだけでもダメ、不衛生な染みだったらどうする。実験につかう器具を選ぶときも、いちいち突起がある、指にケガをしたらどうする。天文学を教えはじめたら、星の観測はさせたいが子供は早く寝るべきだしどうしようとか」
ハーヴェルは苦笑した。
かなりの過保護だったのはたしかだ。
それでも、急にイヤになることはあるだろう。
血縁の子ではないし、養父になる心がまえをする間もなく引きとっているのだ。
ある日ふと、もとの自由な一人暮らしに戻りたいと思うことがあっても、おかしくはない。
「あしたまでの薬を梱包しておいた」
ハーヴェルが荷物をさぐりはじめると、カディーザは小さくため息をついた。
「せめて、あなたを勝手に不死にした理由くらい聞きたかった」
「イハーブが戻ったらいくらでも聞いたらいいだろ」
往診の道具を入れた袋から薬をとりだす。
カディーザは眉をよせた。
「そのつもりだった。戻ったら殴りつけても聞くつもりだったけど」
「いま一包だけ飲んでくれる?」
ハーヴェルが粉薬を一包だけ開くと、カディーザは受けとった。
かたわらのサイドテーブルにあった銀の水差しから水をそそぎ、薬を飲み下す。
少し飲みづらそうに嚥下した。
「ハーヴェル、あしたからもう来なくてもいいわ」
「なんだ、主治医クビ?」
ハーヴェルは苦笑いした。
「わたしはおそらくあと数日よ。あしたの朝死んでいてもおかしくない」
ハーヴェルは無言で後片づけを続けた。
それを察していたから、あらためていろいろと聞きたがったのか。
「……黄疸はまだ出ていないし、貧血もまださほどひどくないし」
「ここ一日二日で体力が急激に落ちたわ。ある程度のあいだ患っていた人間が、長い横這いの状態からガクンと落ちるときは近いわ」
ハーヴェルは答えなかった。
確かにさきほど薬を飲んでいたとき、飲み下しにくそうにしていたのが気になった。
彼女の見立ては合っているだろう。
何人もの患者を診たことのある知識と経験で、自分の死期の見当をつけるというのは、どんな気持ちだろう。
不老不死になってしまったハーヴェルには、永遠に想像するしかないのだが。
「いや来るよ。ご子息にもうまとめて診察料もらってるし」
カディーザがわずかに目線を逸らすような目つきをした。
何を意味している表情なのか、ハーヴェルには分からなかったが。
「先生」
中庭に面した回廊でハーヴェルは声をかけられた。
カディーザの養子のアイマールだ。
子供がいなかったカディーザと夫のハダド将軍は、十年ほどまえに親類にあたるこの青年を養子にした。
将軍の家の跡取りとしては威圧感に欠けていたが、かしこく人当たりのよい青年だ。
むかしと違って戦もなく、もともとが専門家を重要視する国でもある。
将軍の家の子だからといって、かならずしも第一級の武人である必要はない。
いい子を迎えたねと当時ハーヴェルはカディーザに言ったが、なぜか返答しにくそうな顔をされた。
「義母の体調は、どんな様子ですか」
アイマールが尋ねる。
「ああ……」
ハーヴェルはカディーザの部屋の方向をながめた。
曖昧な返事のしかたでアイマールは察したようだ。
「そうですか」
複雑な表情をする。
「あちらで麦酒でも」
「いやいい。まだ仕事があるし」
ハーヴェルは返答した。
「外はまだ暑いですよ。陽が陰ってからにされては?」
中庭をながめた。
まだ頂点にいる太陽が、中庭の沐浴の場に張られた水をキラキラと反射している。
センスよく植えられた大小の植物が、強い陽光をうけて葉をつやつやと光らせていた。
たしかにまだ暑そうだ。
ハーヴェルは、日除け布を顔のほうまで引いた。
「義母は、ほんとうはあなたを養子にしたかったらしいですよ」
ふいにアイマールが切りだす。
「あなたの師匠にもそう申し出ていたそうですが、はじめは承知していた師匠が、その後なぜか心変わりして自分が育てると言いだしたそうで」
「へえ……」
「彼女が義父の遠征先について行った数ヵ月のあいだの心変わりだったそうですが」
アイマールがこちらを見る。
「ご存知でしたか」
「いやぜんぜん」
「当時、あなたの師匠と大ゲンカになったそうですが」
ふたりのケンカは、いつものことだった。
おそらく恋人同士だったころからそんな感じだったのだろう。
どの大ゲンカのことやらとハーヴェルは眉をよせた。
カディーザが養子の話をされるたびに何か言いたそうな顔をしていた理由はそれだったのか。
「お師匠さまも、情が移ったんでしょうね」
「どうなのかな」
ハーヴェルは手をかざして太陽を見上げた。




