QASR 将軍家の屋敷 1
城壁内の中心からやや南よりのあたりは、青色に壁を塗られた豪邸が集まる界隈だ。
青色の塗料の成分は主に硫酸銅で、むかしは虫除けとして使われていた。
現在ではほとんど使われていないのと、もともと硫酸銅をすべての外壁に使用できる者など裕福な者に限られていたことから、結果むかしながらの由緒正しい家の屋敷が集まるこの界隈だけが、青い屋敷群として残っている。
時代が下るにつれて新興の良家の屋敷は強い陽光を避けて北へ北へと造られたので、現在では中心地より少々南よりになってしまった。
青い屋敷群の中心近くにあるハダド家の屋敷。
広い敷地内のはなれになっている部屋にハーヴェルが入室すると、カディーザ・ハダドはゆっくりとベッドから上体を起こした。
「寝てていいよ」
ハーヴェルは、点滴のスタンドを部屋のすみからベッドほうに引いて運んだ。
「ムスク?」
ハーヴェルが近づくと、カディーザが怪訝な顔をする。
六十近い年齢であったが、大きな黒い瞳と肉厚な唇が印象的な美貌は、いまだ残る。
先年死去したハダド将軍の奥方だが、将軍に嫁ぐまえはハーヴェルの師匠イハーブの恋人であった。
錬金術師として活動していた時期もある。
ハーヴェルが幼少のころから何かと面倒見てくれていた人で、師匠のイハーブが行方知れずになって以降は仕事の相談にも乗ってくれていた。
数年まえから腎臓をわずらい、ハーヴェルは主治医として定期的に往診に呼ばれていた。
「匂い、とれてなかったか」
ハーヴェルは自身の髪や服の匂いを嗅いだ。
「残り香ってより、香水を頭からかけられたみたい。女の人とケンカでもした?」
ハーヴェルは苦笑した。
女とケンカには間違いないが。
「そういう人がいるなら話して欲しかったけど」
カディーザが言う。
まるで適齢期の息子にたいする母親の口調だ。
「不老不死の男と付き合いたがる女はいないよ」
ハーヴェルはそう返した。
軽口のつもりだったが、カディーザの表情がわずかに曇る。
カディーザ自身が、おそらくは不老不死が理由で師匠のイハーブと別れていた。
はっきりと聞いたわけではないが、いろいろな様子から推測するとそういうことらしいとハーヴェルは思っている。
自身も不死になっていっしょになることは考えなかったのかと思ったこともあるが。
不老不死の師匠に育てられたためか、ハーヴェルは不死にたいして特別な感覚はない。
師匠に勝手に不死にされたと知ってもとくに言いたいこともないのは、そのへんの感覚からなのだが。
ふつうは不老不死になるのは躊躇するものか。
「イハーブからは、いまだになんの連絡もなし?」
カディーザが膝かけの上で手を組む。
「ないよ」
ハーヴェルはみじかく答えた。
「それ聞かれるの久しぶりだな。まえはしょっちゅう聞かれてたけど」
「あのバカ。弟子も仕事も放りだして三十年もどこでなにしてんのかしら」
カディーザが、白髪混じりの髪をイライラと掻き上げる。
「ほんとうに、いなくなったのはいきなりなのね?」
「朝起きたらいなかった感じ」
ハーヴェルは生理食塩水の入った袋を点滴のスタンドのフックにかけた。
「夜中まで数式の計算してたみたいだけど」
なんどもした会話だ。
作業をしながらでもくりかえせる。
「書き置きなんかもなし?」
「何も」
ハーヴェルはシリンダーを指で弾いた。
「数式を書いたメモは大量にあったけどな、ほら例の」
カディーザは記憶をさぐるように目線を動かした。
「気でも狂っていたのかしらね」
カディーザはつぶやいた。
半分は冗談だと思うが。
イハーブが残した数式は、ほとんどが理解不能な内容だった。
イハーブのむかしの弟子仲間に意見を聞いてみたが、いまだだれも内容が理解できない。
高次元に関しての数式だということは分かるのだが、見たことのない数式がところどころに混じり、そこで検証は止まる。
一つの式ではなく複数のバラバラの式なのではと見当をつけた者もいたが、三十年経ったいまも推測の範囲から進まない。
「直前までまともだったよ。いつも通りだった」
かがんで点滴筒を調整しながら、ハーヴェルはそう答えた。




