第八話 最悪な状況
「そんなに逃げなくてもいいだろ」
「し、仕方ないだろ! なんか目立っちゃったんだから」
「そりゃあんな人前で話しかけりゃな」
「そ、それは……」
クラステントで注目を浴びた俺と亜梨沙は、人目につかない校舎裏で息を切らして座り込んでいた。
俺もこの時間は亜梨沙に接触しようとは思っていたが、まさか向こうから出向いてくるとは。
息切れか先程の衆目か、亜梨沙は顔を真っ赤にしていた。恥ずかしがるなら話しかけてこなきゃいいのに。
亜梨沙が何のために接触してきたかは知らないが、この状況は俺にとっては好都合だ。
一周目と関係性が変わっていないなら、今の亜梨沙は俺が約束を破って彼女をフったと思っているはず。
亜梨沙との関係を修復するには、兎にも角にもこの誤解を解かなければならない。
「まあ、ちょうど良かったよ。亜梨沙、お前に話したいことがあったんだ」
「奇遇だな。私もだよ」
奇遇も何も話があったから連れ出して来たんだろうに。そんなツッコミは胸の内に仕舞い、話を続ける。
「俺たちが別れた件なんだが」
「待って。私から話したい」
亜梨沙が真っ直ぐな目でそんなことを言う。珍しく真面目な表情に俺は頷くことしか出来ず、亜梨沙に話を促した。
「灯はどうして約束を破ったんだ」
まあ、その話だよな。どちらから話そうと同じ話にたどり着く。お互いに言いたいことはあるだろうしな。
俺と亜梨沙は高校入試の日、試験が終わったら会おうと待ち合わせをした。
だが、俺が待っていた公園に亜梨沙が現れることは無かった。紗衣が亜梨沙に待ち合わせ場所を変更したいと手紙を出したからだ。
何も知らない俺は公園で亜梨沙を待ち続け、亜梨沙は誰も来るはずがない学校の校門で俺を待っていた。
俺たちは互いに約束を破ったわけじゃない。それでも、互いに約束は破られたと勘違いをしていた。
原因についても分かっている。全ては自分をヒロインとするために紗衣が仕組んだことだった。
ここまでが一周目で発覚したこと。つまり、この事実を知っているのは俺だけだ。
いや、事実ですらないのかもしれない。二周目は一周目とは違う点がいくつもある。亜梨沙とこうして話している時間だってそうだ。
だから、決め打ちするべきじゃない。紗衣が悪いと決めつけるべきじゃない。
状況を見極めるまでは真実として語るべきじゃない。それはただの想像に過ぎない。
だが、そうなるとどう説明していいものか……。
亜梨沙は訝しむような不安を孕んだ瞳で俺を見つめている。
彼女は俺にフラれたと思い込み、自殺しようとするまで追い込まれていた。俺に接触するだけでも、彼女にとっては相当な勇気が必要だったと思う。
そうだとしたら俺は、彼女を安心させてやるしかない。どこまでが二周目の事実となっているのかを見極めながら。
怯える亜梨沙にできるだけ優しく声をかける。
「亜梨沙。お前はあの日、待ち合わせ場所を変更する手紙を受け取ったな?」
「そうだよ。だから学校で待ってたのに、灯は来なかった」
どうやらここまでは事実らしい。それならば、もう少し踏み込んでみよう。
「あれを出したのは俺じゃない」
てっきり驚くかと思っていたが、彼女が見せたのは驚きの表情じゃなかった。
どこか納得したように目を細め「そっか」と声を漏らす。
「知ってたのか」
「確信は無かった。でも、灯がそう言うなら私は信じるよ。灯はそんなつまんない嘘をつく人じゃないから」
亜梨沙は座ったまま俺の肩に寄りかかる。
……え、そんなあっさり?
もっとこう、「そんな言い訳聞きたくない!」とか言われる覚悟だった。浮気現場かな?
女の子の体重はA4用紙と同じだとは言うが、体重を預けられても重苦しいとは感じない。てか近い。めっちゃ近い。いい匂いする。
別の意味で気が気じゃない俺に亜梨沙は静かに語る。
「本当は怖かったんだ。灯が本当に私の事嫌いになってたらどうしようって」
「それはこっちのセリフだ。亜梨沙にフラれたと思ってすげえ落ち込んだんだからな」
「私も。嫌われたと思って、一時期塞ぎ込んじゃってさ。死のうかとも思ったんだよな」
「やめてくれ。滅多なこと言うもんじゃないぞ」
「本当だよ。でも、そうしなくてよかった」
その言葉は今の俺に深く突き刺さる。一周目の亜梨沙も同じことを言っていた。
それでも亜梨沙は俺から真実を聞くまでは、と生きることを選んだ。
しかしその結果、亜梨沙は俺を庇って本当に死んだんだ。
生き延びた理由が俺を助けるためだったなんて、胸糞悪くて仕方ない。
だがここは二周目の世界。あの惨劇はもう起こらない。俺のために誰かが死ぬ。そんな誰も救われない結末にはならない。
亜梨沙が生きていた理由は、亜梨沙が幸せになるため。俺が幸せにするためなんだ。
亜梨沙は俺の手にそっと触れる。
「灯はさ、まだ私のこと好き?」
俺はその言葉に硬直した。なんだその質問は。
そりゃあ俺もフラれたと思った時、子供みてえに泣きじゃくるくらい好きだったわけで。
一周目では俺のために命を投げ出してくれるような人を好きにならない理由はないわけで。
けどさぁ……そう簡単に答えられるような質問じゃないんだよなぁ。
この世界のことを知ったせいで恋心を素直に受け取れなくなったのも理由の一つだが、もっと重大な原因がある。
俺はこの先の未来を少しだけ思い浮かべる。
YES→亜梨沙と付き合う→一周目同様紗衣が暴走→バッドエンド
NO→亜梨沙が傷つく→亜梨沙を幸せに出来ない→バッドエンド
フローチャートによるとどちらもバッドエンドらしいです。お疲れ様でした。冗談じゃねえぞ。
うーん、どうしたものか。
こういう時の沈黙は金ではない。むしろ色褪せた暗い感情を抱かせてしまう。
誰か助けてくれ──
その願いが通じた。考えうる最悪の形で。
「灯……?」
俺をそう呼ぶのは二人だけ。
一人は俺から咄嗟に離れ、恐怖の色をその目に浮べる亜梨沙。
そしてもう一人は、少し離れた場所で呆然と立ち尽くす紗衣。
もしかしなくてもこれ、最悪な状況じゃないですか? これが詰みですってやつか。
この状況を不思議そうに見つめ、瞬きを繰り返す紗衣は頬を掻きながら問いかける。
「もしかして中西さん? 久しぶりだね」
「あ、うん。久しぶり」
ぎこちない挨拶を交わす両者。出会って数秒、もう胃が持たない。
浮気現場よりも悪い状況なのは間違いない。主人公ってこういう状況に陥った時はどうやって切り抜けるんですか? 助けてください神様仏様作者様!
この状況を作り出した作者が手を差し伸べるはずもなく、俺を放置して歪な会話は進んでいく。
「灯と中西さんって、まだ付き合ってたんだ」
別れさせたはずなのにって続きそうな言い方やめてくれません?
「別れたよ。でも、誤解は解けた」
お前のせいでって枕詞が付きそうな言い方やめてくれません?
いや待て。亜梨沙はまだ紗衣が犯人だとは気付いていないはず。それならまだ打開策は──
「私に手紙を出して、待ち合わせ場所を変更させたのは結城さん?」
亜梨沙さん!?
ちょっと待て、いきなりぶっ込むのやめろ! どうすんだこれ。どうすんだよこの状況!
どうにか会話を止めようと、火花散る二人の間に割って入る。
「えーっと、亜梨沙? 紗衣? 喧嘩は良くないんじゃないかなーって……」
「黙ってて」
「入ってこないで」
虎と龍に睨まれ、俺はシュンと萎縮する。何この子たち怖いんだけど……。
「待ち合わせ場所の変更? 何の話?」
「とぼけんなよ。私と灯の関係を一番良く思ってなかったのはあんただろ?」
「違う! た、確かに、私も灯のことが好きだよ。でも、そんなことしてない。灯が幸せならって、私は本気で応援してて……」
蝶々だー。キレイだなー。うふふ、世界はこんなに美しいんだー。
と現実逃避をしかけていた俺は、二人のやり取りに違和感を覚えてふと我に返った。機能停止しかけていた脳をフル稼働し、一周目の記憶を引きずり出す。
一周目で俺たちが紗衣を問い詰めた時、紗衣は簡単に白状した。それが何だと言いたげに、自分がヒロインになるために他のヒロインを傷つけた。
それなのに、今回は違う。紗衣は是が非でも認めようとしない。それどころか、今にも泣き出しそうに眉をキュッと顰めて助けを求めるように俺を見る。
どうにも彼女が嘘をついているとは思えない。どうなってるんだ?
状況は把握出来ていないが、このままではいけないことは確かだ。
再び睨まれる覚悟で会話に割って入る。
「落ち着けよ二人とも」
二人を引き剥がしたことで、両者ともに荒れていた呼吸を整える。
この違和感。一周目との違い。まずはそれを把握しなきゃならない。
「紗衣は何も知らない。そうだな?」
「知らない。私、本当に何も知らないよ。もしかして、灯も疑ってるの?」
「違う。ただの事実確認だ」
「そっか、よかった……」
目を潤ませながら安堵の表情を浮かべる紗衣。やはり嘘をついているようには見えない。
紗衣とは幼馴染として長い時を過ごしてきたんだ。これ以上根掘り葉掘り聞かなくとも、彼女が無実だということは分かる。
やはり、二周目の紗衣は犯人ではない。それどころか、手紙のことも俺たちが別れた原因についても、本当に何も知らないようにすら思う。
「亜梨沙は確かに手紙を受け取った。間違いないよな?」
「そうだよ。だから、私たちは……」
俺以上に亜梨沙も困惑していた。恐らく、紗衣が犯人なのではないかと予想をしていたのだろう。
俺もそうだ。と言うより、一周目でそうだったのだから、二周目も同じだと思っていた。
しかし、実際には違った。
俺たちは間違いなくあの一通の手紙のせいで別れるに至ったが、差出人は紗衣ではなかった。
これで紗衣が一周目とは異なり、この世界について何も知らないただのヒロインである可能性がほぼ確定的となった。
もしかすると、二周目は全員がただのヒロインなのかもしれない。この世界について知っているのは俺だけなのかもしれない。
二人の訴えるような瞳を見て、俺は安堵する。
その代償として、言い知れぬ不安が心に残ることになった。