第六話 一周目と同じこと
部活を終えた俺は、約束通りに校門前で三雲を待っていた。
時刻は七時過ぎ。五月と言えどこの時間になると流石に薄暗い。びゅうっと吹く風に身震いする。夜は上着がないと少し冷えるな。
時折他のバスケ部員に挨拶をしながら、知らない生徒の背中を見送る。
そしてふと、正面に立つ少女が目に留まった。
日も沈み、街灯の明かりに照らされた少女も同様に俺を見ていた。
少女は軽く手を振り、とてとてとこちらへ駆け寄る。
俺より頭一つ小さな身長。ブレザーの上からでもはっきりとわかる凹凸。赤みがかった髪は毎朝きちんと整えられているのか、綺麗にウェーブを描いている。
貴船りりは猫のように丸い両目を細める。一周目でも見せた、天使のような可愛らしい笑顔。
「柊木くん、今部活終わり?」
「ああ。り……貴船も部活か?」
「ううん。彼氏が部活終わるのを待ってるの」
ぴくりと体が反応する。こいつ、この時期は彼氏が居たのか。
一周目で俺が貴船と関わり始めたのは、十月の文化祭後の話だ。それまでの貴船のことは正直よく知らない。
「貴船って彼氏いたのか」
素知らぬ振りをしてそんなことを聞いてみる。
貴船は最初の印象こそ悪かったが、印象とは当てにならないもので、出会い方が違えば──これが創作の物語でなければ、俺は彼女と今とは全く違う関係性を築いていたのかもしれないと思うほどに彼女への印象は一転していた。
「いるよー。意外だった?」
意外なわけがない。一周目の記憶がなくとも彼女がモテるであろうことは想像に易い。
途中から登場したヒロイン候補でありながら、俺の人生や考え方に多大な影響を及ぼしたことは間違いない。
だからこそ俺の中で彼女の存在は大きい。そんな貴船に彼氏と聞くと、否が応でも不快な反応を示してしまう。
「そう言う柊木くんは? もしかして彼女待ち?」
二周目は一周目とは大きく違う。それは今までに起こったことからもわかる。
もしかすると貴船は、そもそもヒロイン候補では無かったのかもしれない。そんな考えが過ぎる。
この世界がラブコメだと考えればその結論にも納得がいく。
物語の中盤から正ヒロインが登場する話なんて聞いたことがない。他のヒロインたちと比べて一緒に過ごす時間も少なく、感情移入出来ないからだろう。
彼女はあくまで友人枠の一人。彼女が俺に与えた影響を考えりゃそう捉えることだってできる。
正解が分からない問答だ。二周目の貴船は俺とは関わることなく、平穏に、幸せに、ただの登場人物として物語を終えていくのかもしれない。俺の感情を抜きにすれば、その筋立てが正しいとさえ思う。
それはそれでいいはずだ。
「いや。残念ながらただの後輩だ」
「そっかー。柊木くんって結構モテそうなのにね」
なのに、どうしてだろうか。
少しだけ、胸が締め付けられるような気分になるのは。
例えるとそうだな……彼女を寝盗られた気分?
いや例えがクソすぎるだろ。でも、そんな寂しさがあるんだよな。
「あ、飯島先輩!」
貴船は待ち人を見つけたようで、こちらに駆け寄ってくる男子に大きく手を振る。
飯島と呼ばれた男は、丸眼鏡で温和そうな顔立ちの好青年だった。先輩ということは三年生だろう。
「りりちゃん、お待たせ。えっと……彼は?」
「クラスメイトの柊木くんです」
二人の視線がこちらに向き、俺は軽く会釈をした。
飯島先輩は「よろしくね」と優しい笑顔を向ける。その所作や声の穏やかな雰囲気から真面目な好青年といった印象を受けた。
貴船は確か、男性に恐怖心を抱いていると言っていた。それでも彼氏が居るということは、彼なら気を許せたということだろう。それもわかる気がする。
だからこそ、嫌な奴だな、と自分を恨めしく思う。
この男も貴船を傷つけるんじゃないかと勘繰ってしまう自分を。
……余計な詮索はやめよう。
一周目の記憶のせいで、悪い方にばかり考えてしまうのは良くない。
貴船が幸せならそれでいいはずだ。貴船がその両目を細めて笑えるならそれでいいはずなんだ。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ、じゃあな」
貴船は飯島先輩と手を繋いで遠ざかっていく。楽しげに腕を組む貴船の横顔が強く印象に残った。
ため息が漏れる。
いいんだ、これで。貴船は本来、俺と関わるような人物じゃなかった。
これでいい……はずなんだけどなぁ。
俺はなんとも言えない気分に苛まれ、その場に屈んだ。
俺に向けられていたはずの笑顔が、好意が、今は他の男に向けられている。
それが何だか胸に突っかかって、上手く飲み込めない。
寂しさのような、苛立ちのような、そんな感情。
ああ、これが嫉妬ってやつか。
一周目の紗衣もきっと、こんな気分だったんだろうな。
「俺、嫌な奴だなぁ」
「先輩は嫌な奴なんですか?」
頭の上から声が聞こえ、顔を上げる。
三雲が俺の顔を覗き込むように体を傾けて立っている。
短いスカートがひらりと揺れ、褐色の太腿がちらりと覗く。
「……パンツ見えるぞ」
「落ち込んでたんじゃないんですか!?」
三雲は顔を赤らめてスカートを押さえ、こちらを睨む。見えそうだったから注意してやったのに。
「あ、でもアカリ先輩なら見てもいいですよ?」
「黒のレース」
「なんで知ってるんですか!?」
やっぱりそうなのか。
サイズ以外は妙に色っぽい黒の下着が頭に浮かぶ。一周目ではその下着の配達イベントがあったからなぁ。
あの下着のおかげで三雲との距離が縮まったと考えると、なんとも感慨深い。いやそんなことはないか。
やっぱり嫌な奴ですね!と舌を出す三雲。
そんないつも通りの彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
俺は立ち上がって、三雲の頭を小突く。
「家どっちだ? 送ってく」
「はい!」
三雲も嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、俺たちは並んで帰路に着いた。
三雲の家は俺の家とは逆方向で、随分遠回りすることになった。
それでも、三雲が終始嬉しそうだからいいんじゃないかと思える。
ふと、小さな公園が目に入った。
錆びた遊具。使われた形跡のない砂場。切れかけた街灯。それらが物寂しさを漂わせている。
「懐かしいな」
ふとそんなことを呟いていた。
一周目にも一度、ここに来たことがある。ここで三雲と約束したんだ。
部活でいじめを受けていた三雲と共に部活を辞め、代わりに俺が三雲と一緒に過ごす時間を作る。そんな約束。
あれが正しかったのかはわからない。いや、正しくはないんだろうな。
根本の問題は何も解決せず、俺はただ逃げ道を選ばせただけだ。
三雲は今もきっと、恐らくあの約束の後も、一人で戦っていたのだろう。
俺の様子が気になったのか、三雲は「どうしました?」と顔を覗き込む。
「いや。ブランコでも乗るか」
「ブランコ! 私好きなんですよ!」
知ってる。ブランコを漕いでいると嫌なことを忘れられる。三雲がそう言っていたからだ。
二人で錆びついたたブランコに並ぶ。
ギイギイと軋む鈍い音。やはりこのブランコは少し怖い。
三雲は気にも留めない様子で、ゆっくりとブランコを漕ぐ。嫌なことを振り払うように。
「アカリ先輩、大活躍でしたね!」
「まあな。ちゃんと見てたんだな」
「私、ずっと観戦してましたから」
ふと思い出す。そういやミニゲーム中、三雲は体育館の隅に座って俺のことを見ていた。
出番待ちだろうと気にしていなかったが、もしかしてずっとあそこで……。
もしかして、と嫌な想像をしながらも尋ねる。
「一年はミニゲーム出れないのか? 男子は全員混じえてやってるけど」
「そんなことはありませんよ。私だけです」
その声はひどく小さく、震えていた。静かな公園じゃなきゃ聞き取れなかったかもしれない。
三雲は漕ぐのをやめ、足をふらふらと投げ出す。
「私、部内で浮いてるみたいなんです」
曖昧な表現だ。三雲自身もわかっているんだろう。
一周目と同じだ。三雲はバスケ部内でいじめを受けている。
多分、ミニゲームに参加させてもらえないだけじゃない。ボールを当てられる。ブラウスを隠される。そんな嫌がらせも受けているはずだ。
何度聞いても胸糞悪い話だ。
ひたむきに、真っ直ぐに頑張り続ける少女を寄って集って排斥しようというのだから。
だけど、今回は少し違う。これ以上彼女を悲しませるようなことは起こらない。
俺は、三雲の前に屈んで彼女と目線を合わせる。
「えっと、先輩? これは一体……」
そのまま頭を撫でてやると、三雲は俺から目を逸らして身動ぎする。
「三雲はバスケが好きか?」
「す、好きですけど……」
「どうして好きなんだ?」
「えっと……どうしてでしょうか」
一周目に三雲と過ごしてわかったことがある。
彼女は多分、バスケ部にこだわりなんてない。他の部活に入ろうともしていたし、部活を辞めてもバスケ部について話すことは一度も無かった。
だからこそ、俺はもう一度同じ提案をしようと思う。
それが逃げ道であっても、彼女が悲しまなくて済むのなら。
「質問を変えよう。三雲はバスケが好きなのか? それとも、俺がバスケをしている姿が好きなのか?」
俺は知っている。三雲が本当に好きなものを。三雲が本当に欲したものを。三雲がいじめに耐えてでも部に残っていた理由を。
だからこそ、この質問に対する答えも知っている。
「え。アカリ先輩って自意識過剰なんですか?」
「そうだよな……いや、は?」
違うだろ! そこは俺を選ぶところじゃねえのかよ!
わかるけど! 俺も言ってて思ったけども!
「待て、違う。これは違うぞ。そういうことじゃなくてだな」
「私はアカリ先輩がバスケをしているところが好きなだけですよ」
「そうそれぇ! その答えだと思ってたんだよ!」
三雲はくすくすと意地悪に笑う。ほんとに恥ずかしいからやめてくれ。
「私がどう答えるかわかってて、そんなことを聞く先輩が悪いんですよ?」
「う、うるせえな……」
せっかくの雰囲気がぶち壊しだ。
いつもそうだ。こいつは唐突に想定外のことを言ってくる。毎回振り回されるこっちの身にもなってくれ。
「三雲。お前は俺がバスケを辞めても俺のことが好きか?」
「バスケ、辞めるんですか?」
「ああ。そのつもりだ」
同じ提案。逃げ道を与える選択。同じ道を辿るだけならそれでもいいだろう。
だが、本当にそれだけでいいのか? バスケ部を辞めただけで三雲は満足するのか? 救われるのか?
考えたんだ。もしもバスケ部のいじめを解消したとして、その黒幕を叩いたとして、果たして三雲は部に馴染めるだろうか。
ここはフィクションの世界だ。もしかしたらそんな都合の良いことになるかもしれない。
だが、いじめってのはそう簡単じゃないと思う。
三雲をターゲットにした奴は当然悪い。だけど、それにまんまと加担した奴はどうだ? 見て見ぬふりをしている奴は?
俺なら許せない。同罪だ。
誰も三雲を助けようとしないくせに、主犯が居なくなった途端にそいつに全ての責任を押し付けて、何も無かったように接してくる。
そう考えただけでムカつくんだ。許せないんだ。
三雲はそれでも納得するかもしれない。しかしそれは本当に三雲の幸せになるのか?
だからこそ俺は──
「俺と一緒に部活を辞めろ」
「一緒に、ですか?」
「ああ。俺がバスケをする姿は見れなくなるかもしれない。だけど、お前が本当に求めてるのはそんなことじゃないんだろ?」
「……よくわかりますね。私のこと、好きなんですか?」
困惑しているのか、眉を寄せて冗談交じりにそんな質問をする三雲。
三雲のことが好き? そんなの決まってんだろ。
「好きだよ。恋愛とか、そういう意味じゃないかもしれない。でも、俺は三雲が大切だと思ってる。だからこそ、俺はお前を救いたい。三雲が本気で笑って過ごせるようにしたい」
三雲はいつも俺を振り回した。
急に現れては好き勝手に俺を連れ回し、勝手に約束事を決め、勝手に付き合ってることにしたり、勝手に好意を向けてきたり。
散々だ。疲れてしょうがない。
でも、俺はそんな三雲に救われた。
俺が落ち込んでいる時には笑ってくれた。
俺がどうしようもない時には手を引いてくれた。
俺のために命を張ってくれた。
俺は、そんな三雲のことが好きだ。
街灯に照らされる三雲の顔は、薄暗くてもはっきりわかるほど赤い。
その顔を見ているとこっちまで恥ずかしくなる。
「か、勘違いすんなよ? あれだ、人として好き! そう! 三雲の人柄が好きなんだよ!」
ツンデレかな? ツンどこだよ。デレッデレじゃねえか。
三雲もそう感じたのだろう。声を上げて笑った。
なんでこうなったんだろうなぁ。ここまで言うつもりじゃなかったんだけどなぁ。
少し悩む素振りを見せた三雲は決断したらしくこくりと頷いた。
「わかりました! じゃあ私も部活辞めます!」
「お、おう。ありがとう?」
「でも部活辞めると暇になっちゃいますね。学年も違うので、アカリ先輩と会えなくなっちゃいますし」
「教室まで遊びに来りゃいいだろ。俺が会いに行ってもいい。休みの日だってお前に付き合ってやるよ」
「ほんとですか! 休みの日もいいんですか!」
あ、やらかした。前回は学校でだけって約束だったのに。
まあ、なんかめちゃくちゃ喜んでるしいいか。
「そうと決まれば早速退部届け出しに行きましょう!」
「ちょっと待て」
立ち上がろうとする三雲の頭を押さえ、再び座らせる。
ギイっと不穏な音を立てるブランコ。頼むから壊れないでくれよ? そんな危ないイベント求めてねえからな。
「部活辞めるのはもう少し後だ」
「なんでです?」
「ちょっとな。やらなきゃならないことがある」
部活を辞めるだけじゃ一周目と何も変わらない。
それでも三雲を傷つける要素は一つ消える。だが、ここは二周目だ。
ただ部活を辞めておしまい、じゃスッキリしないよな。
俺は女子バスケ部をぶっ壊す。一度世界を壊した男だ。出来ないはずがない。
幸いにも一周目とは違い、二周目の俺はまだそれなりに人気のあるバスケットマンだ。その立場を活用しない手はないよな。