第三話 小さな一歩
「……らぎ、柊木ってば」
体を揺すられて目を覚ます。
一周目のトラウマから来る不調に負けて机に伏せたまでの記憶しかない。恐らくそのまま寝ていたんだろう。
やるべき事が嵩んでいるというのに、一体何をしているんだか。
寝ぼけ眼の先で俺の顔を覗き込む女子と目が合う。
思っていたよりも距離が近く、彼女はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、跳ねるように仰け反った。
こほんと咳払いすると、何事も無かったように腕を組みわざとらしくため息をつく。
「やっと起きた。次体育だよ。あんたは行かなくていいの?」
「そう言うお前はどうなんだ、汐留」
くるくると髪を弄る少女は頬をほんのり赤らめながらもツンとした態度を崩さない。
今更取り繕ったところで如何にも男慣れしていない反応は覆らないと言うのに、彼女は澄ました顔でふんと鼻を鳴らす。
「うちは元々体育嫌いだし」
「それはサボる理由になるのか」
明るめの金色の髪。開いたボタンから覗く豊満な胸元。薄いメイクのギャル少女。汐留結奈は俺の前の席に腰を掛けた。
ギャルと言ってもそれは見た目に限った話だ。実際の汐留は博多弁バリバリの純情少女で、面倒見が良く真面目な性格をしている。
一周目ではそんな彼女の真っ直ぐな言葉に助けられた過去もある。俺が主人公としての道を歩み始めたきっかけも彼女に勉強を教えると約束したことから始まった。
今の俺があるのは彼女あっての事だと言っても過言では無い。切っても切り離せない存在だ。
「何ジロジロ見てんの?」
「あ、いや何でもない」
汐留の冷めた態度にどこか懐かしさを覚えていると、彼女らしさの残る冷徹な視線が飛んでくる。
窓の外へと視線を逃がすと、グラウンドには既にうちのクラスメイトであろう生徒たちが列を成していた。今更向かったところで遅刻は免れないな。
学校には遅れ授業はサボり。連休明け早々非行のオンパレードだな。親が聞いたら悲しみそうだ。
……いや、そうでもないか。
俺と同じくサボる気満々の汐留をちらりと横目に見る。彼女も俺に倣ってぼんやりとグラウンドを眺めていた。
派手な髪色に着崩した制服。相変わらず絵に描いたような不良少女だ。
なんでこんな遊んでそうな見た目をしているのかは知らない。男絡みだと聞いた気はするが、一周目でも詳しいことは話さなかったし、俺も無理に聞こうとはしなかった。
ヒロインたちが皆問題を抱えているとするなら、彼女の抱える悩みもそこに起因しているのだろうか。自分が関わる恋愛事情にすら鈍感なのに、人の恋愛相談にまともな答えが出せるのか甚だ疑問だ。
先行きに不安を感じながら黙り込んでいると、汐留は再びため息をついた。
「柊木ってさ、友達居ないの?」
「は? 失礼だな。友達くらい居るだろ?」
「質問してんのはこっちだし。何で疑問形なの」
いざ聞かれると不安なんだよ。友達くらい居る……よな? モブに落ちるまではクラスの中心に居たし。居るよな、友達。
「友達が居るなら何で一人で教室に残ってんの?」
「それは……確かに。なんで誰も起こしてくれなかったの?」
「うちが知ってるわけないじゃん」
汐留の正論が俺の胸にぐさりと刺さる。友達と言われて真っ先に思い浮かぶのは武道の顔だったが、今はまだ一度も話したことの無い他人だ。
彼女らにとってはゴールデンウィークの数日でも俺にとっては数ヶ月という長い時を経ての再会だ。誰と仲が良かったのか、どんな話をしていたのか、急には答えられないのが現状だった。
もしかして人間関係も一周目とは違うのかとさらなる疑念に苛まれる俺を他所に、汐留はほとほと呆れた様子で三度のため息。もう彼女の幸せは皆逃げてしまったんじゃないだろうか。
「今から行けば少し遅刻するくらいで済むよ。早く行きなよ」
早く出ていけって聞こえるな。当たりが強いのは知っているが、今のナイーブな心にはこれでもかと響いてくる。俺、そろそろ泣いちゃうぞ。
何も答えずに彼女を睨むと、何故か胸を隠すような仕草でそっぽを向く。見てねえよ、今のは冤罪だろ。
汐留は体育どころか、授業には一切出ない。
その理由は確か、授業についていけなくなったからだと言っていたか。
頭が悪いなんてことはなく、むしろ地頭は良い彼女も高校の授業となると置いてけぼりを食らってしまった。そうしてついていけなくなって諦めた。
そんな彼女に成り行きながらも勉強を教えることになった。それが汐留と交流を持つに至ったきっかけだ。
因みに体育が嫌いなのは胸が大きくて運動が出来ないからだと言っていた。余計なことばっか覚えてんな。
汐留と初めて話したのは二年生の六月頃だった。ヒロインの中では珍しく、俺がモブになり始めてからの付き合いだ。
要は、今の汐留にとって俺は赤の他人。一周目の記憶なんて持っていないんだから心を開かないのは当然と言える。
警戒心剥き出しの彼女に対し、下心はないとアピールするために意味もなく時計を見やる。
「面倒臭いし今日はサボる」
「内申点に響くよ。早く行きなよ」
「それ、お互い様な」
俺がこの場に居座ると知って露骨に嫌そうな顔するのはやめてほしい。普通に傷つく。ここでサボりたかったのに俺がいるせいで一人になれないと言わんばかりだ。
だが、ここで引く気はない。
理由なんて何でもいい。とにかく、一周目で好転したことは二周目でも継続した方がいいはずだ。
汐留もヒロイン候補の一人である以上、避けては通れない相手であることは間違いない。
となれば、再び接点を持つためにはどうにか勉強を教える方向に運ぶ必要がある。今巡ってきたチャンスをみすみす棒に振るわけにはいかない。
まずは警戒心を解くために軽く話を振る。
「汐留は何で授業受けないんだ?」
「柊木には関係ないじゃん」
あれれー、おかしいぞー?
会話のキャッチボールって言葉を知らないのか。グラブ叩きつけてきたぞこいつ。
一周目では簡単に教えてくれたんだけどな。簡単にはいかないと高を括ってはいたが、まさかこうもバッサリ切り捨てられるとは思わなんだ。
何、こいつもツンデレなの? ラブコメでのキャラ被りは大問題だぞ。
いたたまれない空気の中、気を取り直して優しくボールを投げてみる。
「関係無くない。三枝先生に頼まれたんだよ。お前に授業を受けさせろってな」
一周目に、だけど。
「あっそ。じゃあそれは叶わないね」
「叶えさせてくれよ」
「絶対に嫌」
一周目の不器用ながらも温かい優しさを秘める汐留はどこへやら。二周目の彼女は前回にも増して当たりが強いような気がする。
本当に人間関係にも変化が生じているのか。或いは……
「……汐留って俺のこと嫌い?」
「うん」
最悪の想定をはっきりと肯定されて心が折れかける。それでも汐留の追撃は止まない。
「クラスの人気者気取って誰にでも優しくするし。誰にでも優しい男って信用できないから。どうせあんたもうちの体狙いなんでしょ? さっきから胸ばっか見てるし」
「み、見てねえよ」
「いやバレバレだし。女子ってそういう視線に敏感だから」
別に気になって見てたわけじゃねーし! これはあれだ、万乳引力ってやつだ! ってこれも一周目で言った気がする。
男児たるもの仕方ないんだよ。その双丘に吸い込まれるんだよ。男児ホイホイなんだよ。くっついて離れないんだ。
と、見ていた事実は否定できない。問題はそれ以前の話であるわけで。
まさかとは思ったが、汐留はこの時点だと俺のことが嫌いだったと明確になった。
一周目じゃ俺が少し浮き始めてから話すようになったし、異性に警戒心を抱く彼女にとって今の俺はいつもヘラヘラしている軟派な軽薄野郎だと思われているのだろう。
……今のところ一周目の記憶何の役にも立ってないんですけど。トラウマ植え付けられただけじゃねえか。
今にも消えていなくなりたい気分に陥ったが、恨んでいても仕方ない。このまま引き下がるわけにもいかないしな。
一周目のような誰にも興味のない素振りは出来ないかもしれないが、今の俺だからこそ彼女の気持ちに寄り添うことも出来るはずだ。
「見てたのは確かだ。それは謝る」
「謝れば済む話じゃないけどね」
「ただ、俺が汐留のことを気にするのは別に体が目当てって理由じゃない」
「誰にでもそう言って、二人きりになったところで襲うんでしょ。男なんてそんなもんじゃん」
「だから男を警戒してんのか」
彼女は誰から見ても人目を惹く魅力的なスタイルだ。それを快く思っていないのは他の誰でもない汐留自身だろう。男に嫌悪感を抱くのもその容姿のせいだと嫌でも伝わる。
やはりと言うべきかその疑問は図星だったらしく、汐留はキッと睨みを効かせると目線を落とした。
「うちが授業を受けない理由を聞いて、柊木に何かメリットあんの?」
体……ですかねぇ。とは死んでも言えない。それが一番最初に思いつく自分が恥ずかしい。結局それ目当てじゃねえか。
男である以上そういう関係を求めないでもないが、今の俺はそれ以上の気持ちを彼女に抱いている。
好意ではない。だけど、下心でもない。
ただ純粋に彼女を幸せにしたい。もう一度汐留の自然な笑顔が見たい。そんな傲慢で自己満足な押し付けだ。
汐留は俺の助けなんて望んじゃいない。だが、行き先も希望も失ってしまった彼女を放っておけない。
この先の未来を知っていて、彼女を一人には出来ない。友人関係も学校での生活も上手くいっていないと知っていて無視するほど俺は優しくも冷たくもない。
言わば、この世界を求めた俺のエゴだ。
「俺にメリットなんて無いかもな。でも、お前にはある」
「うちに?」
「お前、本当は勉強が嫌いなわけじゃないだろ」
一周目の記憶をフル活用する。乱数が変わろうと人間関係が変わろうと、その為人だけは変わっていないはずだ。
汐留と勉強会をするようになってわかったことがあった。
こいつは、何時間も勉強に没頭するほど勉強が好きなんだ。教えたことは素直に聞くし、飲み込みも早い。本当は現状を変えたいと願っている。
だが、授業では個人個人に合わせた指導はできない。その場でついていけなくなると置いてけぼり。あとは自分でなんとかするしかない。
だからこそ、授業についていけなくなって、汐留自身もどかしさがあるはずだ。
俺に出来ることは少ないかもしれないが、彼女が立ち止まらないための手助けくらいは出来ると信じている。
汐留は机に肘をついて俺の目をじっと見る。先程までの軽くあしらう態度とは違う。やっと彼女と面と向かって話せる。
「……そうだとして、あんたに何ができんの?」
「俺が勉強を教える。お前が授業を受けない原因は、授業についていけなくなったからだろ」
「……なんでわかんの?」
「ただ授業を受けたくないだけなら、学校に来る必要は無い。だが、お前はそれでも毎日来てる。それはお前が授業を受けたいと思ってるからだろ」
「別に、出席日数が気になるだけ」
「違うな。ここは進学校だ。勉強が嫌いで努力もしない奴が入学出来る場所じゃない。この学校にお前がいる事実こそ、お前が中学時代までは努力してきたって証拠だ。そうだろ?」
やっと役に立った一周目の記憶。
元々人と関わることが苦手な汐留は、誰かに教えてもらったり、先生に聞きに行くようなことをしなかった。その結果、授業についていけないまま、だんだんと遅れていった。
そして、全てを投げて授業を受けないという選択に至ったんだ。
自分の感情を殺して。ジレンマを抱えて。どうしようもない状況を打開できず、一人で抱え込んだ。
相手の裏事情なんて手に取るようにわかる。これこそ強くてニューゲームだ。
睨みつけるように俺を見ていた汐留からふっと肩の力が抜ける。
「で、うちに勉強教えて、あんたに何があんの?」
「何もないな。体も求めてない。ホントに。マジで」
「そこまで否定すると逆に怪しいんだけど」
「本当なんです信じてください。土下座でも何でもするんで」
「教える側が土下座って……」
頭を机に擦り付ける仕草を見せると、汐留はくすりと笑った。
久々に見たな、その笑顔。笑った方が可愛いんだから、一周目みたいにもっと笑えばいいのに。
いや笑った方可愛いと言うよりは普段の顔が怖いんだよな。マジヤンキーマジ卍って顔してる。
内心失礼なことを考えながらも心の内に閉まっておく。ようやく解いた警戒心がまた牙を剥きそうだしな。
「そこまで言うなら教えてもらう。でも、うちの体に少しでも触ったら殴るから」
「お前ってすぐ暴力に訴えかけるよな」
汐留に訝しげな目を向けられ、咄嗟に目を背ける。危ないな、油断すると一周目の記憶が表に出ちまう。
似たような会話が思い起こされる。今となっては懐かしい。
感傷に浸っている場合じゃないと切り替えて頷く。
「わかった、それでいい。なんなら胸見てたらすぐ殴ってく」
バチン、と気持ちの良いほど綺麗な音が響いた。
セリフを遮る平手打ち。もう見てましたか、見てましたね。今のは有罪だわ。
「うちが授業についていけるようになる頃にはあんたの顔の形変わってそう」
「そうならないように善処します……」
ふふっと声を漏らす汐留。まあなんだ。もみじマークを代償に一歩前進ってところかな。