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自分が経験した3.11

作者: 三ノ城

この作品は作者自身が体験したものをさっと書いたものです。

その日、自分は自室で過ごしていた。

大学の長い春休みに入っていた自分はいつもと変わらず昼食を済ませ、自室のベッドでいつものようにくつろいでいた。

外は曇りでとてもではないが外出する気はなかった。

ベッドに横になり雑誌のページを約半分ほどのところまで読み進めたとき、それは起こった。

体に感じる微細な揺れ、それは数年に一度は経験している大きい地震の時の感覚に似ていた。

しかし、いつものように雑誌を閉じ様子をうかがうといつもと違うことに気が付いた。

近くを通る国道の振動や音と違うゴゴゴという地鳴り、カタカタと小刻みに震え始める本棚代わりの食器棚のガラス戸。

これは明らかに今まで経験したとは様子が違った。

そして『これはかなり大きい』と思ったときには主要動の大きな揺れが家を揺らしていた。

自分はとっさに机の上の棚の本を抑えパソコンを保護しながら様子をうかがう。

部屋の隅に積まれていたビデオテープが崩れ床一面に散乱し、棚の上のプラモデルが大きくずれるがが、後で片付ければいいので気にしない。

確かに今まで経験した揺れの中でも大きいが揺れも徐々におさまり始めた。が、次の瞬間、地震はまるで息を吹き返したかのように揺れが大きくなった。

いきなりの揺れにバランスを崩してベッドに尻餅をつき、今までぎゅうぎゅうに詰められ落ちなかったはずの本棚の本が飛び出す程の揺れが続いている。

再び立ち上がり残りの本が落ちないように本棚を抑えようとするが、3度目の揺れで再びベッドの上に戻される。

自分はついにあきらめ揺れるがままの部屋の様子を見守ることにした。ある意味初めて地震が怖いと思った瞬間だったのかもしれない。

中身が抜け、軽くなった本棚はまるでスッテップするかのように動き、最初の揺れで下に落ちた本やビデオテープを踏み潰す。

それはまるで地震体験車の地震の様子が映し出されているようだった。

そして、揺れが本当に収まり始めたのを確認すると本やビデオテープで本当に踏み場のない床をあきらめ覚悟でドアへと進んでゆく。

途中、ビデオテープが自分の足でつぶれる嫌な音と感覚がしたがさすがにこの状況では仕方がなかった。

ドアは近くにあった棚が邪魔になっていたが、廊下側に開くタイプだったので棚の脇をすり抜け取っ手に手をかけて押すが開かない。

どうやら揺れで家がわずかにゆがんだようだったが、半身ほど下がると全体重をかけドアを押し破るようにドアを開けた。

まだ、中規模の揺れが起きている中、二階の廊下の手すりに手を当てながら進み階段も飛ぶように降りてゆく。

そして、揺れもほぼ収まる時には玄関前へ着き、倒れた大きな鉢植えをよけると玄関にある自分の靴を履いて外へと出た。

外に出て家の前の道路に目を向ければそこには道路を横断するように細いひびが入っており、普段は視線に入らないはずの電線が視線を横切っている。

電線に触れないように自分は道路を挟んで反対側の空き地に向かうと家を振り返ると、そこには壁には目立つようなヒビもなく、傾いてもいない我が家があった。

ひとまずほっとするが、念のため家の外周を確認する事にした。

実際に近くによって確認すると家の基礎や外壁に目立った損害はなかったが、トイレの汲み取り用のマンホールの周囲のコンクリートにヒビがはいるなど全く被害がなかった訳ではなかった。

しかし、一部の周囲の家やアパートは盛土の地滑りによって傾いており、特にアパートに至っては駐車場の一部が地盤沈下を起こして駐車中の車が巻き込まれていた。

また、近くの生コン工場のミキサー車がコンクリートを受けとる建物が大きく傾いているのも見えた。

ひとまず落ち着くと一度、家へと戻り各部屋の様子を見るがそこには惨状としかいえないような状況だった。

まずはリビングであるが足下にはなぜかコップが一個転がっており、視線をコップが入っているはずの台所の食器棚へと向ければ自信で倒れ、中の食器からガラス戸までグシャグシャになっており、先ほどのコップは地震の衝撃で飛び出したのか、3、4メートル程離れたコタツの毛布部分にたまたま落ちて無事だった物だっようであった。

しかし、倒れた食器棚はちょうどリビングから台所への動線を塞ぐように倒れており、台所で倒れた冷蔵庫や他の棚に関しても手が付けられない状況なので後回しにすることにした。

リビングを見ればコタツの脇に寄せていた雑誌や広告やらが散乱し、それらがある棚も同じような状況だったものの幸いにしてテレビは無事であった。

一通り見終えると今度は和室へと向かった。

仏壇はないものの、祖父祖母の写真があるので気になったが、こちらもひどい有様で写真は倒れ、載せていたサイドボード内にあった父が集めていたウィスキーなどの酒瓶も倒れていて下手に手を付けられない状況だった。

また、自身のゲーム用に使っていたテレビは倒れ真下にあった旧式のゲーム機に直撃し、刺さっていたカセットに画面が刺さる用にぶつかりテレビの画面もカセットももう無理であることが見て取れた。

ちなみに和室には神棚もあったのだがこちらは大きくズレてはいた物の無事であったが、それを気にしたのは大分後に後にたってからであった。

その他、トイレや風呂場などの散乱具合と一通りの確認とルートの確保をすると二階へと足を向ける。

一番近いのは兄夫婦の部屋で会ったがさすがに勝手に見るわけにはいかず、父の書斎をまず確認することにしたがすぐには入れなかった。

どうやら自身でドアの前にあった小型冷蔵庫が邪魔をしているらしくなんとか隙間を作り、顔だけ部屋に入れ様子を確認する。

幸い書斎の棚は倒れてはいなかったものの、たくさんの書物が散乱し片付けるのは骨が折れそうだったと感じた。

次に親の寝室の確認するがそこには洋服ダンスがほぼすべて倒れた光景が広がっており、もしこれが夜、両親が寝ているときに地震が起きていれば二人とも下敷きになって大変なことになっていただろう。

そして、自室に戻ればひどい惨状でなんとか道を作ろうとするが、余震で作業を何度か中断せざるを得なかった。

それ以降の記憶はあやふやで印象に残っているのは、近所の人とラジオで津波の情報が流れ、話しているときに大きめの揺れでその場にしゃがみ込んだことと、母親から『地震の片付けておいてくださいの』メールが来て落胆したことだろうか。

ちなみに母親がなぜそのようなメールを送ったかというと、母親の仕事場の地盤は相当堅いらしく。「とても大きな地震」ではなくたまにある「大きな地震」程度の感覚で実際に仕事場から戻ってきての自宅の惨状に驚いたと本人は話していた。

そうこうしている内に家族たちも少しずつ返ってきて人手が増えたこともあり、まずは食料の確保のために台所への道の確保を始める。

割れた食器、ガラス片に気をつけつつなんとか食器棚を動かし、冷蔵庫前までの通路を確保し今度は日持ちする物しない物、保冷できる物はするようにと余震に気をつけつつ片付けていった。

そして、地震から約2時間、3月なので日の入りの関係で暗くなってくると寝床をどうするか話し合うことになった。

自分の場合ベットは無事だったので自室でルート確保さえ出来れば寝れるが、両親の部屋は洋服ダンスの関係で不可能、兄夫婦も寝るには無理な状況だということがわかった。

そうこうしていると、近所の人から近所の小学校の体育館が避難所として開設されたらしく、食事も配っているとのことから布団といった寝具を持って体育館を目指すことにした。

しかし、実際に行ってみるとすでに体育館はいっぱいで食事も無くなっており、父親の判断で家の状況等から自宅のリビングで寝ることになった。

兄夫婦は食事こそ一緒だったが軽く片付けただけのリビングでは狭いということで、空き地においた自動車で寝ることを選んだ。

家と学校を行き来している間にあっという間に日は暮れ、懐中電灯の明かりとラジオからの被災情報だけが流れる空間にリビングは変わっていった。

そしてラジオからの放送に耳を疑った『S市の海岸に200~300人の遺体が上がった』という物である。

最初に聞いたとき、家族全員が桁の読み間違いでは無いかと思うほど衝撃的であり、それは事実であった。

他にも『K市では津波火災で街全体が燃えている』との放送を聞、思わず携帯でその様子を確認したするとそこには真っ暗な中、炎が蛇のように波打った線状に燃えている映像が出てきてその様子を家族全員で回し隣町にいる母方の実家を始め付近の親戚の心配もした。

そして、電池節約のため早めの就寝を図ろうとするが、突如として携帯やラジオがけたたましい音を鳴らし始める。

地震速報ですぐに全員が外へと逃げ出した。幸い特別大きい物では無かったがこのような生活がしばらく続くのだなと思った。



翌日、家の片付けは母達にまかせ近くのコンビニへと足を運んだ。

店内は棚の物が落ち、割れた酒やワインのアルコールの匂いが充満していたが無事だった残り物の販売をしている情報を得て行ったのである。

そして、そこで運良く単三電池を一組買うことが出来た。

元々、携帯電話の緊急充電用に電池式の充電器を買ってたので少しだけでも安心でき、家族にも使えるかも知れないと思ったのである。

その後も他のスーパー等で食料を買い電卓で百円単位の簡単な会計を済ませ家に戻り、家の片付けをする。

ライフラインについてだが、幸い自宅はプロパンガスでガス交換が震災直前であったこともあり、ガスは台所を片付けることでガス漏れがないことを確認してすぐに使えるようになった。

水道も初日の夜中に一度止まったものの翌朝からは普通に出るようになり水道の確保に困ることはなかった。

しかし、電気だけはどうしようもなく日が昇ったら起き、沈んだら眠るという生活になっていた。

そんな日が二日ほど続き三日目の夜、ある事件が起こった。

日が出ている内にと夕食を済ませ、寝ようとした時に腹痛に襲われた。

幸い、水道は無事だったため用を足すことに問題はなかったが腹痛は収まらず、むしろ酷くなっていくようだった。

いつもなら、暖かいお茶を飲むなどして落ち着くのだが、それでもひどくなり更に嘔吐をするようになった。

流石に不味いとなったが、病院に連れていこうにも何処が良いかわからず、119番で救急車を呼ぶことにした。

救急車を待つ間には症状は嘔吐だけとなったが、意識が朦朧となり手足の震えが起き始めた。

後でわかったが、それは脱水症状であった。

そうしているうちに救急車が到着し、中に入れられ症状の確認が行われるがその間も嘔吐は止まらない。

なんとか受け入れ先の病院が見つかり、そのまま搬送されていくことになった。

ことの時、不思議と意識が朦朧としているわりには街がただ真っ暗で、救急車のサイレンと赤色灯だけの光景が記憶に強く残っていた。

そして、病院に着き何度目かの嘔吐ののち診断されたのは食あたり、すなわち食中毒であった。

どうやら、停電で止まっていた冷蔵庫の中で痛み始めた魚を、焼き魚にした際の火の入りが悪くそれをたべたのが原因だったらしい。

幸い、魚をたべたのは自分だけだったので他の家族は無事であったものの、以後調理の加熱には注意をはらうようになった。

その後、出すものを出しきったお陰か嘔吐は落ち着き、脱水症状の状態だったので点滴を受けることになった。

点滴中、数日ぶりの灯りの元にいられたことに感謝しつつ、点滴が終わった後に帰宅することになった。

帰る途中もまた真っ暗な街が待っていたが、今度は病院のような自家発電によって明るい建物にも気づき不思議な気持ちであった。

帰宅後は帰宅後で、今度は灯りのほとんどない夜空の星に気づきまた不思議な気持ちになった。

尚、病人と言うことでとりあえず自分のベッドがすぐ使えたこともあり、一階のソファーからベッドへと寝床は移され一日か二日ほど片付けをすることなく安静にすることになった。



そうこうしているうちに震災から六日目をむかえた。

片付けも大半が終わり、余震に気を付けつつ残りの細かい片付けや物資調達の生活をしていると、向かいの家の電気が、点いていることに気づいた。

どうやら電気が復帰したらしいので、すでにおろしていたブレーカーを上げる前に急いですべての部屋の電源を確認。

問題ないことを確認したうえでブレーカーを上げ電気がつくか確認してみる。が……点かない。

隣の家までは電気が来ているはずと、母は知り合いで近くに住む電気工に詳しい人に確認してもらったところ引いてくる電源の経路が違うということがわかった。

その結果、自宅を含めた周囲数件のうち隣の家だけが電気が復旧していることが分かり、全員が落胆した。

特に兄はようやく風呂にはいれると期待していただけによほどショックだったらしく、隣の家のボイラー音をうらやましく思っていたらしい。

しかし、そこまで電気が来ているのだと思い復旧が近いとポジティブに考えていこうと家族で話し合ったが、翌日にはついに電気がついた。

久しぶりに見るテレビを見れば震災前よりやつれたような内閣官房長官が映っており、今までラジオ等でしか知り得なかった情報がどんどん入ってくるようになった。

映像がある分、そのインパクトは大きくこれからどうしていくのだろうと改めて考えることになった。

そして、1週間ぶりの風呂となったのだが、なんと停電による電熱線の停止でボイラーが壊れてしまったらしく入ることはかなわない、と思ったが親戚でボイラーの取り付け等を行っている所がありそこに連絡して何とか新しいもの取り換えてもらった。

話によればこれから電気の復旧とともに同じような問題が起きるだろうから早めに復旧して、すぐに交換できたのは運がよかったといわれた。

1週間ぶりの風呂は自分でも驚くほどの垢が出た。

一応、濡れたタオルで体は拭いてていたのだがどうしてもたまってしまうらしく、アトピー持ちだったので自覚症状こそなかったものの風呂上がりの薬もしっかりと塗ることにした。

震災から一週間、電気、ガス、水道のライフラインの復帰は非常にありがたかった。


ライフラインの復旧のおかげで生活は震災前の雰囲気を取り戻しつつあった。

しかし、それと同時に沿岸部の母方の実家や親族が気になり始めてきた。

それは、他の親族も一緒だったらしく連絡が取れるようになってからは物資をどうするかの話が何度かあった。

幸い、母方の実家は無事で近縁の親戚も全員無事であり、母に自分に一番近い親戚で亡くなったのは誰かと聞いたところ祖父の従兄弟で、自分自身も曾祖母の葬式の際に遠くで見た位の人物だった。

そして、宅配便が宅配収集センターまで受け取りにくれば使えると知ってからは、全国の親戚から自宅と沿岸部の親戚あてに懐中電灯や電池、ガスコンロ等の荷物が届くようになった。

そして、自宅にある軽自動車に積めるだけの水、食料、電池や懐中電灯灯油ストーブなどを積み、行くのも運転手の父と助手席に母という状態で震災発生から約10日ほど経ってから沿岸部の母方の実家へと向かっていった。

母方の実家にいる叔父からは『荷物を置いたらすぐに帰れ、特に夜には絶対来るな』と言われてたため両親はすぐに戻ってきたが、沿岸部の惨状の話に残っていた自身らはただ驚くばかりであった。

また、たまたま帰りの途中ですれ違った京都からの消防の応援隊の列に母は『映画のようでうれしかった』と強く話していた。

一方で、物資がないことから窃盗や略奪まがいのことが起きているらしく、少し話がずれるが、ヘリの物資配給でヘリポートを書いた地区の住民とヘリポートがかかれた場所(地区)の住民勢同士が、ヘリポートを勝手に書いたことでいざこざも起きたらしい。

そのため普段は施錠しないような地域だったのだが、今は戸締まりをしっかりしているとのことであった。

そして、地震から約半月後、人手がいると言うことで実際に母方の実家に行くことになった。

途中まではどのような惨状かは覚悟していたが実際に見ると無残な状況であった。

本来なら内陸といってもいい場所に多くの家の瓦礫が重なり、その瓦礫が屋根だと分かったことから此処まで流されてきたのだと改めて実感した。

一方で瓦礫で変わり果てた街中も道路部分を優先で片付けていたおかげか、道路部分の記憶からそこにどんな建物がありどんなことがあったかが思い出され、今の現実との差にただただ驚くばかりであった。

母方の実家は山の上にあり電気、水道が使えずガス関連は電化していたため不便が続いていた。

とりあえず、飲み水以外の生活用水として母方の実家の山の下にある古井戸が使われていた。

一度は津波で水没したものの、瓦礫をよけて何度か水を汲みだしたところ問題なく使えたらしく、近所の人たちが水くみや、近くで洗濯をしていた。

そして何度かの山登り降りをしながら水を家まで運ぶ手伝いをし、明るいうちに帰宅することになった。

その際、別の親戚が通った道を通ろうということになり沿岸部の道を車で走ることになった。

すでに落ち着いた海を見れば救援中の話を聞いていたアメリカの強襲揚陸艦らしきものが見えたり、自衛隊の掃海艇と航空機がいまだに岸辺に残る瓦礫の中から行方不明者の捜索をしていた。

特に航空機の動きは航空祭の救難演習で見ていた動きそのままだったので、いまだに現場では多くの人たちが動いているのだと改めて感じた。

そして、何とか教えてもらった道を見つけ無事に帰ることができた。

そのあと聞いた話では自分の曾祖母が体験した明治の大津波の時と同じくらいの場所まで津波が来ていたらしいことが母の話で分かった。

また、先のことから母方の実家の地区は皆高台に家を建てていたが、津波に何度も飲まれてもそこに家を建て続ける家もいたようでどれだけ代々の土地に執着を持っているのだろうと驚く話も聞いた。


その後も何度か母方の実家を行き来したものの燃料不足にが深刻になってきており、今は使えないと叔父からガソリンの携行缶を借りてガソリンを買うことになったのだがそれは想像以上に大変だった。

たまたま、近くのガソリンスタンドで量制限はあれど給油できることになったので、自分の自転車に携行缶を乗せていったのだがスタンドの入り口は制限され、出口も給油を終えた車と給油待ちの車で渋滞が起きていた。

しばらくすると給油待ちの列が空きそこに並んだのだが、車ばかりの列に自転車という状況に少し恥ずかしかったものの時間が経つうちに慣れていった。

結果、ガソリンスタンドを起点に円状に列は並んでおり、その距離は約3キロとなっておりある意味自転車でよかったとも感じた。

そして、何とかガソリンを入れてもらい家に帰宅し、しばらくしてからまた母方の実家との往復をしたが、実家側も有名人が入ったせいか救援物資の落ち着いてきたということで物資輸送も終わりを告げた。


以上が自分自身の震災から一か月半ほどの生活の一部ででした。

震災から10年が経ち様々な意味での風化が進んでいます。

それはいいことなのか悪いことなのかはわからないです。ただ、この話を読んで何に気を付けるか今何ができるかを改めて考えてほしいと思います。

この度はこの作品を読んでいただきありがとうございます。

とりあえず前書きでも書きましたが、作者自身が体験したことをさっと書いたものでしたがいかがでしたでしょうか?

10年という区切りを迎えた3.11、人によっては忘れること、忘れてはいけないこと、忘れてしまっていること等、様々な思いがあると思います。

正直、作者自身は被災した地域ではかなり幸運な部類に入ると思います。

そのため、この作品で何を感じてもらえるかわかりませんが、10年前のあの日、何をしていて何を感じ、後世に伝えることがあるのかを考えてもらえれば幸いです。

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